第5章 黄泉の入口に、湿り気がある
- 山崎行政書士事務所
- 2月11日
- 読了時間: 7分

第一部「白い世界の輪郭」
第5章 黄泉の入口に、湿り気がある
湿り気は、境界を越える。戸を閉めても、布を掛けても、それは指先に残り、息に混ざり、「まだ終わっていない」と囁く。
島々を書き終えた紙は、思ったより白かった。
白いのは、清らかだからではない。白いのは、まだ何も吸っていないからだ。紙は、これからこの国の湿り気を吸う。雨、潮、霧、土、そして——死。
「……次、黄泉、か」
ナガタが言う。声を低くしたのは、誰に聞かれるわけでもないのに、言葉それ自体が重いからだ。黄泉と口に出すと、部屋の温度が一度落ちる。落ちた温度が、墨を少し固くする。
「書くしかない」私は硯の水面を見た。水面はいつも通り静かで、いつも通り冷たい。だが今日は、静かさの底に、薄い影がある気がした。影があるのは、水のせいではない。言葉のせいだ。
「上が嫌がるぞ」ナガタが言った。「人心を乱すな、って言ったばかりだ」
「人心を乱さない“死”なんて、どこにある」私は答えた。「乱れを隠すために、死を薄く書いたら、国の匂いが嘘になる」
ナガタは紙束を抱え直し、布の端を指で押さえた。まるで、そこから何かが漏れ出すのを恐れているみたいに。
「でもさ」彼が言う。「神話の死って、怖いんだよ。人の死より怖い。だって——世界の死だから」
世界の死。
私はその言い方が、胸に刺さった。神々が国を作ったというなら、その国に死が入る瞬間は、国の基礎に穴が開く瞬間だ。穴が開けば水が溜まる。水が溜まれば湿る。湿れば腐る。腐れば匂う。匂いは隠せない。
だからこそ、書く。
「順番として書く」私は言った。「善悪じゃない。避けようのない順番として。湿り気が入り込む順番として」
ナガタは苦い顔をした。
「順番、便利だな」「便利でないと、続かない」
私は筆を取り、墨を摺った。少し濃くする。次の章は暗い。暗い話は、墨が薄いと、すぐに紙に飲まれてしまう。
——次に生まれたるは、火の神。
筆先が止まった。
火。
火は、この国では他人事ではない。火は台所にいる。火は山の底にもいる。火は、冬の夜の命綱でもあり、夏の山の怒りでもある。火を美しく書きすぎると、読者はその熱さを忘れる。熱さを忘れると、匂いが消える。
私は、火を“匂い”で書くことにした。
島々が並ぶと、世界は一度だけ、満足そうな顔をした。
海が海らしく波を作り、空が空らしく雲を乗せ、風が風らしく山の肩を撫でる。世界が落ち着くと、人は次のことを始める。落ち着いたままではいられない。落ち着きは、次の欲を呼ぶ。
二柱は、島を産み、さらに多くのものを産む。木の神、草の神、山の神、川の神。名は後から追いかけてくる。最初はただ、それぞれの“手触り”が増える。ざらつき、滑り、香り、冷たさ、重さ。
その中で、ひときわ危うい手触りが生まれる。
熱。
熱は、形を変える。熱は、匂いを立てる。熱は、触れたものを別物にする。熱は、同時に救いでもある。だから熱は、いつも両刃だ。
火の神が生まれるとき、空気の味が変わる。
潮の匂いに、焦げの匂いが混ざる。焦げの匂いは遠くまで届く。遠くまで届く匂いは、人の胸をざわつかせる。ざわつきは、危険の合図でもあり、祭の合図でもある。
——火之迦具土。
名が付いた瞬間、熱は名を持つ熱になる。名を持つ熱は、制御できるように見える。だが見えるだけだ。火は名で従わない。火は、燃える癖で燃える。
イザナミの身体に、熱が触れる。
産むという行為は、いつだって身体を開く。開いた身体は、世界に一番近い。世界に近いということは、傷つきやすいということだ。傷つきやすい場所に、熱が入る。
痛みは、声になる前に匂いになる。
焦げた匂い。焼けた髪の匂い。湿った土に落ちた火の匂い。匂いは、言葉より先に現実を告げる。
イザナギは、イザナミを抱く。
抱いた腕の中で、熱が移る。移った熱が、イザナギの胸の奥に小さな穴を開ける。穴は冷たく、熱の後味を残す。熱いのに冷たい。矛盾は、死の入口だ。
イザナミの目が、ゆっくりと遠くを見る。
遠くを見る目は、戻ってこない目だ。戻ってこない目を、誰かが呼び止めたくなる。呼び止める言葉は、いつも遅い。
世界は、そのとき初めて、止まる。
止まるというのは、音が消えることではない。音があるまま、意味が消えることだ。波音は続く。風も続く。雲も流れる。だが、それらがただの現象に見えてしまう。意味が剥がれる。意味が剥がれると、人は寒い。
イザナミは、息を吐く。
最後の息は、湯気に似る。白く、薄く、すぐ消える。消える前に、湿り気だけが残る。湿り気は残るのに、体温は残らない。
死とは、湿り気だけが残ることだ。
イザナギの喉が鳴る。
声にならない音が出る。声にならないから、世界は受け取れない。受け取れない悲しみは、内側で腐り始める。腐りは匂いになる。匂いは戻る。戻るものは、国の底に溜まる。
イザナギは、土の上に座り込む。
そのとき、土は湿っていた。雨が降ったわけではない。悲しみが土を湿らせた。土は、悲しみを拒まない。拒まないから、次が生まれる。
——一書曰く、ここに神、また生ず。
異伝は冷たい顔をして書いてある。けれど現実は冷たくない。現実は、ぬるい。ぬるさは、涙の温度だ。
イザナギは立ち上がる。
立ち上がるには理由が要る。理由がなければ、人は座り続ける。座り続けると、国はそこで終わる。だから理由は、必ず生まれる。
理由は、希望の顔をしている。
——取り戻す。
取り戻すという言葉は、世界を動かす。動かしてしまう。動かすと、境界ができる。境界ができると、そこに入口が生まれる。
イザナギは、黄泉へ向かう。
黄泉は、遠い場所ではない。
黄泉は、ただ“湿り気が深くなる方向”だ。
山の陰。谷の奥。洞の入り口。朝霧が溜まるところ。苔が厚くなるところ。水が細く滴るところ。そこはいつでも少し暗く、少し冷たい。
黄泉の入口は、門ではなかった。
坂だった。
坂は、下るほどに息が重くなる。重くなる息は、胸の内側を叩く。叩かれると、人は自分が生きていることを思い出す。思い出した途端、怖くなる。怖いのは、死そのものではない。死が、自分にも触れると分かる瞬間だ。
黄泉比良坂。
石が湿っている。濡れているのに、水音がしない。水音がしない湿り気は、いちばん怖い。湿り気が声を持たないからだ。声を持たないものは、説明できない。説明できないものは、祈るしかない。
イザナギの足が、石を踏む。
足裏が冷える。冷えが膝へ、腿へ、腹へ上がってくる。冷えが上がる速度が、妙に速い。寒い場所はどこにでもある。だが黄泉の冷えは、“戻れない”という匂いを持っている。
匂いが変わる。
潮の匂いが薄れ、土の匂いが重くなる。土の匂いは生の匂いに似ているのに、どこか違う。腐葉土の匂いに近い。腐葉土は、死が積もってできる生の土だ。生と死が混ざる匂いだ。
坂を下るほどに、空気が増えるのではなく減る。
減る空気は、言葉を削る。削られた言葉の代わりに、心臓の音が大きくなる。心臓の音が大きい場所では、嘘がつけない。
やがて、声がした。
闇の中から、湿り気の向こうから。
「……来たのか」
イザナミの声だった。
声は変わらない。変わらないから、余計に怖い。声が変わっていないのに、世界は変わってしまったのだと、ここで確信してしまう。
イザナギは叫ぶように言う。
「帰ろう。共に帰ろう」
返事は、少し遅れて届く。
「もう……黄泉の食を食べた」
その一言で、境界は固くなる。
食とは、内側に入れることだ。内側に入れたものは、外へは戻らない。戻らないから、身体は身体になる。身体になるから、世界は世界になる。食は、世界への同意だ。
イザナミは続ける。
「……だが、戻れるよう、頼んでみる。しばし待て。決して、見てはならぬ」
見てはならぬ。
禁の言葉は、世界の骨だ。骨があるから、世界は立つ。骨があるから、折れたときに痛い。
イザナギは頷く。
頷きは、闇の中では音を持たない。音を持たない頷きは、頼りない。頼りないから、心が揺れる。揺れる心は、指を動かす。指は、確かめたがる。
確かめるとは、見ることだ。
見ることは、境界を破る。
イザナギは坂の途中で立ち尽くす。湿った石の冷えが、足を止める。止めた足の代わりに、胸の中の焦りが動き回る。
待つ時間は、長い。
長い時間は、禁を薄くする。
闇は、湿っている。湿っている闇は、重い。重い闇は、目を開けさせる。開けた目は、何かを探す。
私は、筆を止めた。
ここで止めるべきだと思った。ここから先は、別れの地形になる。別れは、坂だけでは足りない。別れは、石が要る。塞ぐ石が要る。押し返す言葉が要る。
ナガタが、私の背後で息を吸った。
「……見ちゃうんだよな」彼は、誰にともなく言った。「禁って、だいたい破られるためにある」
「破られた禁が、国の骨になる」私は答えた。「骨は痛い。痛いから忘れない」
ナガタは黙った。黙って、布を少しだけ握りしめた。布が皺になる。皺は、手の熱の跡だ。熱の跡があるうちは、まだ戻れる。戻れると信じたい。
外では、雨がまた細く降り始めていた。さっきより冷たい雨だ。冷たい雨は、土を締める。土が締まると、足跡が残る。足跡が残ると、道ができる。
私は紙の余白に、次の題を心の中で置いた。
――別れは、地形になる。
そして墨を、もう一段濃く摺った。次は、見てしまう章だ。見てしまったあとの世界を、どうしても書かなければならない。




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