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第8章 海風の子、居場所を失う


第二部「光と嵐の間」

第8章 海風の子、居場所を失う

海風は、帰る場所を持たない。ただ、塩の匂いを運び、乾いたものを乾かしすぎて、泣きたい者の頬だけを冷やす。

禊の章を書いたあと、部屋が少し明るくなった気がした。

明るくなったのは、窓から入る光のせいではない。文章の中で水が流れたからだ。水が流れると、言葉の底に溜まっていた黄泉の匂いが、少しだけ薄まる。薄まったところに、ようやく息が入る。

その息を、次の瞬間、ナガタが自分で止めた。

「……で、素戔嗚だろ」

言い方が、嫌な予感の言い方だった。

「そうだ」私は硯の水を替えながら答えた。「海原担当の、泣き虫だ」

ナガタは鼻で笑った。

「担当って言うな。神話が急に役所になる」「役所になるのは、こっちの頭だ」私は墨を摺り、黒が少しずつ水にほどけるのを見た。「でもさ、割り当てたんだ。高天原、夜の国、海原。割り当てたのに——」

「泣く」ナガタが先に言った。

「泣く」私は頷いた。

泣く、というのは軽い言葉だ。だが素戔嗚の泣き方は、軽くない。泣くと山が枯れ、川が乾き、青いものが青くなくなる——そういう泣き方だ。泣き方が災害だ。災害は責めても止まらない。止まらないから、人は対処の仕方を覚える。

「泣いて山川が枯れるってさ」ナガタが言う。「逆じゃない? 普通は泣いたら潤うだろ」

「涙が“水”じゃないんだ」私は言った。「海の涙だ。塩だ。塩は潤すようで、奪う」

ナガタは少しだけ真顔になった。塩の話をすると、誰でも一度は真顔になる。塩はうまい。だが塩は、傷にしみる。うまさと痛さを同じ顔で持っている。

「……居場所がないんだな」ナガタがぽつりと言った。「海原を任されたのに、海原が嫌いなんじゃないか」「嫌いなんじゃない」私は首を振った。「海原が、近すぎるんだ。海は母に似ている。似ているものほど、触れない」

私は紙束から異伝を一枚抜き、端に書かれたあの言葉を目で追った。

——一書曰く。

異伝は、こちらの迷いを許してくれる。書き手にとって、異伝は免罪符ではない。呼吸孔だ。息が抜ける穴がないと、文章は窒息する。

「上はね」ナガタが言った。「こういうの嫌がるんだよ。“泣いて迷惑”ってやつ」「上は、泣いたら迷惑なんだろうな」私は笑いかけて、やめた。「泣けない場所の人は、泣く者を怖がる」

ナガタは、紙束を抱え直した。

「でも書くんだろ」「書く」私は筆を取った。「泣いて、居場所を失う話として」

素戔嗚は、海原へ行かなかった。

行かなかった、というのは怠けではない。行けなかった、という匂いがそこにはある。足が向かない場所がある。心がすぐに引き返す場所がある。引き返すたび、胸の奥が擦れて、熱が出る。熱が出ると、涙が出る。涙が出ると、余計に行けなくなる。

素戔嗚は泣いた。

泣き声は、雨の音に似ていない。雨は地を叩く。泣き声は空を裂く。裂かれた空は、風を落とす。落ちた風が、山の緑をなぞり、なぞりすぎて、乾かしてしまう。

青山が、青くなくなる。

川が、川の音を失う。

草が、草の匂いを薄くする。

泣き声が続くほど、世界は「生きるための湿り気」を失っていく。湿り気が失われると、土は固くなる。固い土は、芽を許さない。芽を許さない世界は、国の顔を持てない。

イザナギは見ていられなくなる。

見ていられない、というのは怒りの顔をする。だが本当は疲れだ。禊で黄泉を洗い流したばかりの身体に、また黄泉の匂いが寄ってくるのを嫌がる疲れだ。

「何故に泣く」

問われた素戔嗚は、泣き声を止めないまま答える。

「母に会いたい」

母——その言葉は、黄泉に道をつける。

道がついてしまうと、国は引きずられる。生の側へ引きずり戻すには、決断が要る。決断はいつも冷たい。

イザナギは、素戔嗚を叱り、そして——追放する。

追放とは、居場所を切り取ることだ。切り取るとは、痛いことだ。痛いことをしなければ、世界は守れない瞬間がある。

——一書曰く、髭を抜き、爪を抜きて、逐ひ去る。

髭が抜かれると、顔が変わる。爪が抜かれると、触れ方が変わる。触れ方が変わるということは、世界との距離が変わるということだ。距離が変われば、居場所が変わる。

居場所が変わった素戔嗚は、どこへ行くのか。

海原ではない。高天原でもない。黄泉でもない。

彼は「根」を口にする。根の国。底の国。湿り気が溜まる方角。母がいる方角。

だが、その前に。

素戔嗚は天に向かう。

別れのために。——あるいは、別れを言い訳にして。自分でも分からない自分を、兄弟の目で確かめたくて。

天へ上る足音は、軽くない。

上るたび、風が付いてくる。付いてくる風が、雲を引っ張り、雲が重くなり、重くなった雲が鳴る。天が鳴るのは、怒りではない。警戒だ。世界が、荒ぶる子の足音を覚えている。

高天原で、天照はそれを聞いた。

聞いた瞬間、光は硬くなる。

光は、無邪気ではいられない。無邪気な光は、人を焼く。焼かない光になるためには、疑うことを覚えるしかない。

天照は言う。

「来るのは、弟か。——それとも奪いに来たのか」

疑いは、悪ではない。責任の形だ。

天照は身支度をする。

髪を結い、弓を持ち、矢を負う。袖をたくし上げ、足元を固める。光が武装する姿は、どこか哀しい。光は本来、裸でよかったはずなのに。

素戔嗚は来た。

来た素戔嗚の匂いは、潮の匂いに似ている。潮の匂いに似ているのに、海の穏やかさがない。海の匂いから、凪を抜いた匂いだ。塩と湿り気だけが残る匂い。

素戔嗚は、天照の前で言う。

「奪いに来たのではない。ただ、別れを告げに来た。わが心は清い」

清い、という言葉は難しい。清いと言えば言うほど、汚れを意識させる。意識させた汚れは、空気に浮く。浮いた汚れは疑いを呼ぶ。

天照は、すぐには信じない。

信じないのは冷たいようで、正しい。信じることは、時に乱暴だ。信じたふりをして、人は相手を自分の都合の中へ押し込める。押し込められた相手は、居場所を失う。

素戔嗚はすでに居場所を失っている。だからこそ、信じられなさに耐えられない。

「ならば、誓え」天照は言う。「誓って、見せよ。言葉ではなく、息で」

息で。

息は嘘をつけない。嘘をつけない息が、神を生む。神話はそういう乱暴さで進む。乱暴さがあるから、世界が動く。

——誓約(うけい)。

天照は素戔嗚の剣を取る。

剣は硬い。硬いものは、割ると音が出る。割れた音は、境界を刻む音だ。境界を刻む音は、胸の奥に残る。

天照は剣を折り、天の真名井の水で濯ぐ。

濯いだ刃を口に含む。噛み、息を吐く。息は白くならない。ここは天だ。冷えない場所でも息は出る。息は魂の証拠だ。

吐かれた息から、三柱の女神が生まれる。

光の側の、静かな娘たち。

次に素戔嗚は、天照の勾玉の緒を取る。

勾玉は丸い。丸いものは、角がないふりをする。角がないふりをすると、余計に角が立つ瞬間がある。丸さは、時に疑いを深くする。

素戔嗚は勾玉を口に含む。噛み、息を吐く。

吐かれた息から、五柱の男神が生まれる。

嵐の側の、勢いの息子たち。

生まれた数の差が、場の空気を少し歪めた。三と五。足りないのではなく、偏る。偏りは、争いの芽になる。芽は、風が強いほど伸びる。

天照は言う。

「剣から生まれた女神は、わが子。勾玉から生まれた男神も、わが勾玉から生まれた。ゆえに——わが子」

素戔嗚は笑う。

笑いは軽いのに、胸の奥は重い笑いだった。居場所を失った者が、居場所を取り戻すためにする笑い。笑いが強すぎると、周りは怖がる。怖がられると、さらに居場所が狭くなる。

「見よ。わが心は清い。だから子が生まれた」

清さの証明が、ここでは皮肉になる。清い心を証明したはずなのに、天照の疑いは消えない。消えないのは、天照が冷たいからではない。光は、影を知ってしまったからだ。黄泉を見た父の痕跡が、天照の慎重さになっている。

素戔嗚は勝った気がした。

勝った気がした瞬間、人は、勝ち方を間違える。

嵐の子は、喜び方も嵐になる。

喜びが大きすぎて、形を保てない。形を保てない喜びは、はみ出す。はみ出したものが、誰かの大事なものを濡らし、汚し、踏み荒らす。

その“はみ出し”が、これから起こる。

私は筆を止めた。

ここでいったん、空気を切り替えなければならない。次は、光が耐えきれずに身を隠す章だ。身を隠すほど追い詰めるのは、剣でも呪いでもない——嵐のはみ出しだ。

「……これ、どこで切る」

背後でナガタが言った。声が少し乾いている。乾いているのは、怖いときの声だ。

「いま切る」私は答えた。「誓約で、いったん“形”ができた。形ができたあとに、形が壊れる。そこが次の山だ」

ナガタは紙面の「清い」という字を、指でそっと撫でた。

「清いって、怖いな」「清いは、責任だ」私は言った。「清いと言ったら、清くなれと言われる。清くなれないとき、人は荒れる」

ナガタは小さく笑った。

「神でも荒れるのか」「神だから荒れる」私は墨を摺り直しながら言った。「風は、止められない。止めようとすると、余計に暴れる」

窓の外で、風が一度だけ強く吹いた。雨上がりの枝が揺れ、葉が水滴を落とす。水滴は光を返して、すぐ消える。

消える光の瞬きが、胸の奥に岩戸の影を落とした。

私は次の題を、紙の余白に置く。

——第9章 天岩戸、闇が呼吸する。

 
 
 

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