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第五章 火薬の匂いが来る前に



原稿用紙の一行目に言葉が入ると、紙は急に「紙」になる。まっさらだった白が、誰かの時間を吸って、少しだけ重くなる。重くなった紙は風でめくれにくい。めくれにくいぶん、机の上にきちんと留まる。

幹夫(みきお)は、前の夜に書いた一行を、翌朝もう一度読み直した。

「夏は、匂いが先に帰り道を作る」

文字の並びは、思ったより整っていた。整っているのが、少しだけ怖い。整っているということは、自分の中で何かが形になり始めているということだからだ。形になったものは、指で触れられる。触れられるものは、いつか誰かに渡ってしまう。

祖母が台所で湯を沸かしている音がした。やかんの鳴く前の、ほんの小さな気配。湯気が立つ前の、空気の揺れ。そういう「前ぶれ」だけが、家の中をゆっくり動かす。幹夫はその気配に背中を押されるみたいに、鉛筆を持った。

二行目を書こうとして、手が止まった。“匂い”の次に何を置くかで、夏の形が変わってしまう気がした。

茶町の火入れの匂い。清水の潮の膜。国一の雨上がりのアスファルト。安倍川の白い河原が日差しを跳ね返す眩しさ。どれも夏で、どれも違う。

幹夫は、文字より先に、鼻の奥に残っているものを確かめた。昨日、袖口を洗ったはずなのに、塩の気配だけがまだ残っている感じ。消えたのに、消えた後の皮膚が「ここにあった」と言う。そういう残り方。

二行目は、思っていたより短く出た。

「火薬の匂いは、光より先に来る」

書いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮んだのに、固まらない。固まらない縮み方は、もう後戻りしにくい。

学校の授業中、幹夫はノートの端に小さく升目を描いた。升目を描くと、頭の中のざわつきが少しだけ整う。整うのに、完全には静かにならない。先生の声が板書を追いかけ、教室の窓から風が入り、誰かが消しゴムを落とす。音は全部いつも通り。いつも通りの音の中に、昨日の「火薬の匂い」が妙に浮いてしまう。

放課後、廊下の掲示板に「夏休み行事」の紙が貼られていた。文字の中に、安倍川の名前が見えた気がして、幹夫はわざと近づかなかった。近づけば読む。読めば決まる。決まると、もう“行かない理由”が減る。

校門を出て、駅へ向かう途中、呉服町のアーケードの方角から、色の多い影が揺れているのが見えた。七夕の飾りか、夏祭りの準備か。紙の短冊が風で擦れる音が、遠くからでも分かる。紙がこすれる音は軽い。軽いのに、たくさん集まると、街の空気を変えてしまう。

幹夫は人の流れに混ざって歩いた。アーケードの下は、外より少しだけ涼しい。けれど匂いは濃い。焼きとうもろこしの甘さ、揚げ物の油、濡れたダンボール、店の冷房の風。生活の匂いが重なって、どれがどれだか分からなくなる。分からない匂いは、胸の奥の段差を目立たせない。

青葉の方から、黒いだしの匂いがふっと混ざった。静岡おでんの匂い。青のりと削り粉の気配。幹夫は立ち止まらなかった。匂いは立ち止まらなくても追いついてくる。追いついてくるものは、たいてい、置いていかない。

しずてつの踏切の前で、ベルが鳴る前の一拍が来た。来た瞬間に、身体が分かってしまう。鳴る、と。鳴る前がいちばんうるさい、と。

遮断機が下り、電車が通り過ぎる。窓の中に、買い物袋と制服の袖口と、誰かの横顔。生活が流れていく。流れていくものは、こちらの中身を急かさない。急かさないから、逆に、自分のほうが勝手に急ぐ。

電車が去って、遮断機が上がる。幹夫は線路を渡り、茶町へ行くわけでも清水へ行くわけでもなく、ただ安倍川の方角へ足を向けた。向けた理由は説明できない。説明できないのに、足はそちらへ行く。

堤防に出ると、風がひらけた。川の匂いは、潮ほど鋭くない。土と草と、水の湿り。河原の白い石が、夕方の光を跳ね返して、目の奥が少し痛む。痛いのに、見てしまう。見てしまうのは、白が「ここにいる」を強くするからだ。

幹夫はポケットからスマホを出した。画面を点ける前に、指が一瞬止まる。止まった指は、押さない理由を探す。押さない理由はいつも簡単に見つかる。電池が減る。人がいる。面倒。――どれも本当で、どれも本当の理由じゃない。

画面を点けると、母からの通知が一件あった。

「花火、今年もやるね。 無理じゃなかったら、あの日みたいに少しだけ、帰り道一緒に歩ける?」

“帰り道”という言葉が、原稿用紙の一行目と同じ匂いで来た。匂いが先に帰り道を作る。帰り道は、行く場所よりも先に胸の中で決まってしまうことがある。

幹夫は返信欄を開いた。指が止まる。止まった指の先に、渋滞の車内の匂いが浮かんだ。ビニールのシート、汗、持ち帰った屋台の袋、どこかでこぼれた炭酸の甘さ。その中で眠ってしまった自分の体温。“抱えた”という母の文の動詞が、遅れて来る甘みみたいに残っている。

幹夫は、短く打った。

「父ちゃんに聞く」

送信を押した瞬間、胸の奥がもう一度縮んだ。縮んだのに、固まらない。固まらない縮み方は、もう「言ってしまった」の形になる。

スマホをしまうと、川の音が少し大きく聞こえた。流れる音は、説明をしない。説明をしないまま、先へ行く。先へ行く音を聞きながら、幹夫は河原の白を見ないようにして、堤防を降りた。

家に帰ると、祖母が玄関のたたきに新聞紙を敷いて、野菜を広げていた。雨の名残で、土がまだ湿っているのだろう。土の匂いが家の中へ薄く混ざり、そこに茶の匂いが重なる。外の匂いと家の匂いが重なるとき、境目は見えなくなる。見えないのに、どちらも確かにある。

父は納屋の前で、軽トラの荷台を拭いていた。雑巾の湿りが板に擦れて、短い音が出る。拭く動作は丁寧で、余計な音を立てない。余計な音を立てない動作は、言葉を探しているときの動作に似ている。

幹夫は納屋の入り口で立ち止まった。立ち止まったまま、口の中で「花火」という単語を転がした。転がしているうちに、単語の角が舌に当たって、少し痛い。

父は幹夫を見ずに言った。

「どうした」

質問は短い。短い質問は、逃げ道を減らす。逃げ道が減ると、言葉の形を選ぶしかなくなる。

幹夫は、背負っていたリュックの肩紐を握り直してから言った。

「……安倍川。花火」

父の手が一瞬止まった。止まって、また動き出す。止まった時間が短いほど、その止まり方は目立つ。

「……今年も混むぞ」

父はそう言って、雑巾を絞った。水が落ちる。落ちる音は小さい。小さいのに、落ちたことが分かる。落ちたところのコンクリートが少し濃くなるからだ。

幹夫は続けた。

「母さんが、帰り道…歩けるかって」

“母さん”と言った瞬間、納屋の空気が少し硬くなった。硬くなるのに、割れない。割れない硬さは、長いあいだ触られなかった場所の硬さだ。

父は拭く手を止めずに言った。

「……お前は、どうしたい」

どうしたい、という言い方が、父にしては珍しかった。いつもなら段取りを言う。時間を言う。場所を言う。どうしたい、は段取りじゃない。段取りじゃない言葉は、受け取る側の胸に直接落ちる。

幹夫はすぐ答えられなかった。答えられない時間のあいだに、夕方の風が納屋を通り抜けて、土と機械油の匂いを混ぜた。混ざった匂いは、清水の風とも茶町の匂いとも違う。違うのに、どちらにも近い。

幹夫は、いちばん短い形で言った。

「……行ってもいい」

父は頷かなかった。けれど否定もしなかった。雑巾を畳み、荷台の角をもう一度だけ押して、荷物がずれないか確かめる。確かめる動作は、言葉の代わりに返事になる。

「……じゃあ、早めに出るか」

それだけ。段取りの言葉に戻るのに、その段取りが今日は少し違って聞こえた。逃げるための段取りじゃなく、“行く”ための段取りだった。

台所から祖母の声が飛んだ。

「花火だら? なら、おにぎり多めにしとくかね」

祖母の声には、決めつけが混ざっている。決めつけは乱暴に見えるのに、こういうときは助かる。誰かが先に決めてくれると、自分の中の揺れが少しだけ落ち着く。

その夜、幹夫は机の上の原稿用紙に、もう一行足した。

「渋滞の車の中で、花火はまだ上がっていないのに、匂いだけが先に来る」

書き終えたとき、窓の外で虫が鳴いた。蝉ではない、もっと小さな声。夏が本気を出す前の声。

スマホが震えた。母からの返信は短かった。

「うん。ありがとう。 混む前に、少しだけでいい」

少しだけ、という言葉が、堤防の白い石みたいに眩しくなくて、でも確かにそこにあった。幹夫は返信を打たなかった。打たなくても、今日は倒れない気がした。

火薬の匂いは、光より先に来る。そのことを、幹夫は紙の上に置いてしまった。置いてしまったものは、もう戻らない。戻らないのに、戻らないからこそ、次の一歩の重さが少しだけ測れる。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど花火の夜が来る前に、段取りの中に自分の言葉をひとつ混ぜてしまったことだけは、指先がはっきり覚えていた。

 
 
 

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