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終章 潮の匂いが残る子


第三部「霧の降り口、稲のはじまり」

終章 潮の匂いが残る子

潮は、去ったあとに境界を残す。白い泡の線、濡れた砂の重さ、乾ききらない草の先——その全部が「ここから先は海だ」と教える。そして国は、境界を覚えた子から始まる。

「……終章って、どうする」

ナガタが言った。“終章”という字面を見ると、人は急に背筋を伸ばす。背筋を伸ばすと、物語は終わってしまいそうになる。終わってしまいそうになるから、終章は難しい。

「終わらせない」私は言った。硯の水を替える。終章の水は、透明でなければならない。透明で、でも匂いだけは残さなければならない。潮みたいに。

ナガタは、紙束の端を叩く。

「終章って、役所が好きだよな。“まとめ”だから」「まとめは好きだが、余韻は嫌う」私は笑って、すぐ真顔に戻った。「余韻がないまとめは、国の匂いがしない。国は、余韻で続く」

ナガタは半分呆れた顔で言う。

「じゃあ余韻でまとめろ」「矛盾すぎるだろ」「この国は矛盾で立ってるって言ってたのは、お前だ」

私は小さく頷いて、筆を取った。終章は、派手に終わらせない。終章は、暮らしのまま次へ渡す。潮が引いたあと、砂がまだ濡れているうちに——次の足跡が付くように。

——鵜葺草葺不合尊、長じて、境の上に立つ。

鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえず)は、潮の匂いを残したまま育った。

海辺の子は、海を見ても驚かない。だが彼は海辺の子でありながら、海だけの子ではない。産屋は未完成で、母は海へ帰り、育ての手は陸にあった。海と陸の間で、彼は「どちらでもない」を先に覚えた。

どちらでもない者は、境界に強い。境界に強い者は、道を作る。道は、国の最初の骨になる。

玉依姫(たまよりひめ)は、彼を育てた。

乳の匂いで。湯気の匂いで。炭の匂いで。雨上がりの土の匂いで。そして、潮が運んでくる“遠い匂い”も、隠さず嗅がせた。

「海は、消えません」

玉依姫は、彼がまだ小さい頃に言った。

「消えないものと一緒に暮らすのが、ここです」

ここ、という言葉は短い。短い言葉は、地の言葉だ。彼はその短い言葉を、腹の底にしまった。

季節が巡る。

春、山の端が明るくなる。花が咲く。花はすぐ散る。散る花が、土に戻って匂いになる。匂いは、次の芽を呼ぶ。

夏、雨が強く降る。川が太り、海が濁る。濁りは怖いが、濁りは田を肥やす。怖さと恵みが同じ顔をするのが、この国の夏だ。

秋、稲が実る。穂が垂れると、風がやさしくなる。やさしい風に、潮の匂いが混じる。海は遠いのに、遠くない。

冬、霜が降りる。霜は、疑いの顔をして来る。だが霜があるから、火がありがたい。火があるから、家がありがたい。家があるから、眠りがある。

眠りの中で、彼は時々、夢を見る。

夢の中の海は青すぎる。青すぎる海は、現実の海ではない。現実の海は、もっと灰色で、もっと泥臭く、もっと生活に近い。夢の海が青すぎるのは、胸の中に“別れ”がまだ残っているからだ。

別れは、境界になる。境界になると、呼吸ができるようになる。呼吸ができるようになると、人は次の縁を結べる。

やがて、玉依姫は静かに告げる。

「……あなたは、もう子ではありません」

その言葉は、祝福でもあり、手放しでもある。手放しの匂いは、潮の匂いに似ている。似ている匂いを嗅ぐと、胸の奥が少し冷える。冷えるのに、歩ける。

鵜葺草葺不合尊は、玉依姫を見た。

見方が変わる。

子の見方ではなく、同じ岸に立つ者の見方。同じ岸に立つ者の見方は、少し怖い。怖いのは、縁が責任になるからだ。

——一書曰く、鵜葺草葺不合尊、玉依毘売を娶りて、子を生む。

古い書き方は淡々としている。けれど淡々と書ける出来事ほど、暮らしは揺れる。

玉依姫は、海の姫の妹だ。海の匂いを知っている。陸の匂いも知っている。境界に住む匂いを知っている。

境界に住む二人が縁を結ぶのは、この国では不思議ではない。不思議ではない、というのは、楽ではないということだ。境界で暮らすというのは、いつも片足が濡れている。

けれど濡れた足は、土の感触をよく覚える。感触を覚える者は、道を外しにくい。

二人の間に、子が生まれる。

子が生まれると、世界はまた数を持つ。数は冷たいのに、数があると暮らしは温かくなる。温かくなるのは、人数が増えるからではない。責任の方向が増えるからだ。

最初の子。

五瀬命(いつせのみこと)。

名の響きが、波のように短く強い。短く強い名は、先に立つ者の名だ。先に立つ者は、風を受ける。風を受ける者は、怪我もする。怪我をする者がいるから、後ろが守られる。

次の子。

稲氷命(いなひのみこと)。

稲と氷。この国の矛盾が、そのまま名になる。稲の国で氷の名を持つのは、冬の怖さを忘れないためだ。忘れない者は、春を信じられる。

次の子。

御毛沼命(みけぬのみこと)。

毛と沼。湿り気の匂いの名だ。沼の匂いは、怖いが豊かだ。豊かな怖さを知る者は、余計な強がりをしない。

そして、最後の子。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)。

名が長い。長い名は、背負うものが多い名だ。背負うものが多い者は、急げない。急げない者は、道をよく見る。

四人の子が並ぶと、家の匂いが変わる。

湯気が増える。洗い物が増える。笑い声が増える。泣き声も増える。泣き声が増えると、夜が長くなる。夜が長いと、火がありがたい。火がありがたいと、灰がたまる。灰がたまると、土が肥える。

肥えた土に稲が立つ。

稲が立つと、国が“食える”国になる。食える国は、強い。強い国は、外へ出てしまうことがある。外へ出ると、道が必要になる。

道。

この終章が、次の部へ手渡すものは、それだ。

鵜葺草葺不合尊は、ある日、子らを連れて海辺へ行った。

海は、いつもと同じ顔をしていた。同じ顔なのに、同じではない。潮が満ち、引き、浜の線が変わる。変わる線を見ながら、彼は思う。

——国とは、線だ。——線は、固定すると折れる。——動く線に合わせて生きるのが、この島だ。

五瀬は海を見て、拳を握る。拳を握るのは、波に負けたくないからだ。

稲氷は海を見て、目を細める。目を細めるのは、遠くの天気を読むためだ。

御毛沼は海を見て、足で砂を掘る。掘るのは、底の湿り気を確かめるためだ。

伊波礼毘古は海を見て、黙る。

黙るのは、海が返事をしないことを知っているからだ。返事をしないものの前では、言葉は少なくていい。少ない言葉の代わりに、胸の中で“道”を描く。

玉依姫が、後ろで言った。

「……潮は、今日も引きます。引くから、足跡が残ります」

足跡。

足跡が残るところから、道ができる。道ができると、人が集まる。人が集まると、争いも起こる。争いが起きると、祭が必要になる。祭が必要になると、また笑いが要る。

笑いは、岩戸を開けた。笑いは、黄泉の匂いを薄めた。笑いは、潮の喧嘩をほどいた。

この国は、深刻な顔だけでは続かない。深刻な顔は必要だが、それだけだと息が詰まる。息が詰まると、黄泉に寄る。黄泉に寄らないために、人は踊る。

だから——

国の始まりは、いつもどこか滑稽だ。

海辺で四人の子が、波に向かって石を投げ始めた。五瀬は遠投しようとして袖を濡らす。稲氷は足を滑らせて尻餅をつく。御毛沼は砂の中の貝を見つけて大騒ぎする。伊波礼毘古は、黙って貝殻を拾い、耳に当てて、海の音を聞くふりをした。

「……聞こえるか」玉依姫が笑う。

伊波礼毘古は、真面目な顔で頷く。

「聞こえる。……返事じゃない音が」

返事じゃない音。

その言葉が、私の胸を少しだけ叩いた。返事じゃない音を聞ける子は、道を作れる。道を作る者は、国の骨になる。

海は返事をしない。けれど返事をしないものの中から、道は生まれる。

それが、この島の作法だ。

私は筆を置いた。

ナガタが、しばらく黙ってから言った。

「……終章なのに、終わってないな」「終わらない」私は頷く。「潮が引いただけだ。次の満ちが来る」

ナガタは、紙の余白を指で叩く。

「次、いよいよ神武だろ」「いよいよだ」私は硯の水を替え、墨を少し濃くした。道の章には、黒が要る。黒がないと、光が見えない。


第四部「道の骨、東の光」

第21章 足跡は西から東へ——潮の国の、長い朝

 
 
 

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