緑の葉の調べ —「新茶の夢」続編—
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 6分

第一章 青空の向こうに
静岡の初夏。空はどこまでも澄みわたり、輝く日差しが茶畑の畝(うね)を照らしていた。七歳の幹夫はいつものように麦わら帽子を被り、家の前の道を飛び出す。父や母の仕事(茶摘みや製茶の作業)は、ひとまず落ち着いたようで、幹夫も自由に探検する時間をもらっていたのだ。
遠くに見える富士山の頂には、まだわずかに雪が残っている。春から初夏にかけては、その雪が少しずつ溶けて形を変えるため、日ごとに違う表情を見せるのだという。幹夫はその姿を眺めながら、「きっとあの雪は、どこかの川へと流れ出して、僕らの茶畑を潤しているんだ……」と胸の奥をくすぐる想像をしては、わくわくしていた。
「今日はどこまで行こうかな……」鼻先にほのかに香るのは、焙煎(ばいせん)したての緑茶の匂いだ。家の周りには新茶の製造を行う施設が点在しており、この季節は特有の香ばしい薫りがそこかしこに立ち上る。幹夫はその香りを胸いっぱい吸い込みながら、茶畑へと足を進めるのだった。
第二章 葉に残る朝露
朝の光に照らされた茶畑の葉は、うっすらと朝露をまとってきらきらと光っている。幹夫は畝間(うねま)を縫うように歩き、指先でそっと葉先に触れた。つん、とした新芽の弾力が、まるで生きているかのように指に返ってくる。
「やっぱり、まだ元気そう……」夕べ降りた露が、葉の上に透明な粒となって残り、その一粒一粒が朝日を受けて虹色に輝いていた。幹夫は思わずその露を指先に取り、そっと舌先につけてみる。ほんのかすかな渋みと、青い香りが舌先を刺激する。「葉っぱのエキスが溶けてるんだろうか……」と、幼いながらに不思議な感覚を覚える。
第三章 緑茶の精
そこへ、風に乗ってどこからか柔らかな香りが漂ってきた。見れば、茶畑の斜面を下った先にある小さな工場のような建物が、もくもくと湯気のようなものを吐き出している。製茶の過程で出る蒸気や香りが、風とともに茶畑全体を包んでいるのだ。
幹夫は「こんないい香り、飲まなくても味わえるんだ……」と感心しながら、ふと、かすかに人の笑い声が混ざっている気がした。茶葉が生み出す精霊が、あちらこちらで談笑している――そんな空想が幹夫の頭をよぎる。「いるんだろうな……茶の精って……」とつぶやき、風の音に耳をすます。
やや強めの風が吹くと、畝の葉が一斉にざわざわと揺れ、「ここだよ……」とでもいうように繰り返す。幹夫は胸が高鳴りながら葉をかき分け、そちらへ進んでみた。すると、茶畑の端に、いつの間にか見慣れない道が延びているのに気づく。まるで誘われるように、その道を辿った。
第四章 ささやきの道
道の先には、低い雑木林が広がっていて、背後の茶畑とはまた違った雰囲気があった。木漏れ日が地面にまだらを描き、草の匂いが濃くなる。そっと踏み入れてみると、木々の葉先で小鳥がちちちとさえずっている。息をこらし、幹夫は足音を消すようにして歩を進めた。
すると、林の奥で小さな涼やかな音が聞こえてきた。どうやら湧き水が流れているようだ。近づくと小さな水路があり、苔むした石の間を冷たい水が静かに流れている。幹夫は膝を折り、そこに指先を浸した。心地よい冷たさが、指から腕へと伝わり、まるで全身が清められるようだ。
「これは……富士山の伏流水、かな……」幹夫の頭には、祖母の話が思い浮かぶ。このあたりの茶畑は地下水脈が豊富で、それが茶の香りや甘みに影響しているのだ、と。まるで深い山からの贈り物が、ここへ集まっているかのように感じられた。
第五章 緑の葉と富士山
再び茶畑の方へ戻り、見晴らしのいい場所に立つと、遠くに富士山の姿がくっきり見える。頂の雪はだいぶ少なくなったが、青空の下、なお神々しいほどに聳え立っていた。まるでこの一帯の茶の木々を守るかのようにも映る。
「この葉っぱは、富士山の恵みを受けてるんだ……」幹夫はポケットから古い竹の茶さじを取り出し、試しに茶の枝先から一枚摘んでみる。指で細かくちぎり、茶さじに載せて香りをかいでみた。生葉の青い匂いが、さじの表面でふわりと立ち上る。その瞬間、頭の中に一気に広がる記憶——春先の新茶摘み、蒸しあがる茶葉の湯気、龍神の木と出会った丘の風景……。
「全部つながってるんだな……」幼いながらに、幹夫ははっきりと感じる。山の水、土の養分、太陽の光、そして富士山から吹き降ろす風——それらが重なって、この小さな一枚の葉を育てている。祖母の言うとおり、「一滴一葉に宇宙がある」ということなのかもしれない。
第六章 お茶の香りを持ち帰る
午前中の散策を終え、幹夫は家に戻ってきた。ちょうど父や母が製茶作業を終え、新たに仕上がった煎茶の葉を袋詰めしている最中だ。部屋の中いっぱいに、なんともいえない香ばしい匂いが広がっている。「おかえり、いいタイミングだよ。ちょうど今煎りあがった茶葉があるんだ」父が声をかける。その声に導かれるように幹夫が台所へ行くと、籠の中には深い緑色をした煎茶の葉が盛られていた。
「これ……朝摘みの葉で作ったんだって。ほら、試してみな」母が湯呑みを差し出してくれた。湯温は少し低めに冷ましているようで、茶葉本来の甘さが引き立つようにしてある。幹夫は両手で受け取り、そっと口に含む。すると、爽やかな渋みの奥に、すっと甘みが広がり、鼻から抜ける香りがふくよかだ。朝の畑で感じた青々しい匂いが、この湯の中に凝縮されているとしか思えない。
「うわあ、おいしい……! なんか、葉っぱのエキスがそのまま詰まってる感じ……」素直に感想を言うと、母はほほ笑み、「でしょ? いい葉を丁寧に蒸しあげると、こうなるんだよ」と誇らしそうだ。父も「今年のは特に香り高い気がするね。富士山の雪解け水がいい具合に畑を潤してくれたのかな」と相槌を打つ。
第七章 新茶の夢は続く
幹夫は湯呑みを飲み干し、胸の奥からじんわりと温かい気持ちが広がるのを感じる。まるで朝に見た茶畑の光景や、湧き水の冷たさ、富士山の姿が、一杯の中に息づいているようだった。目を閉じれば、ほんのりとした青い香りが再び鼻腔をくすぐる。
(茶畑と富士山と精霊たち……全部がつながってるんだ……)まだ幼い幹夫の頭には、はっきりとした理屈はわからない。しかし、その不思議な繋がりを肌で感じることができる。それこそが“新茶の夢”の本質なのだと、どこかで悟っていた。
ひょっとしたら、今日畑で聞こえたかすかな笑い声は、茶葉が製茶されることに喜んでいたのかもしれない。葉が蒸され、揉まれ、乾かされて香り高い煎茶になる――それは自然と人が共鳴して生まれる奇跡なのだ。幹夫は「ありがとう……」と心の中でつぶやき、母に急須をもう一度傾けてほしいと頼む。湯呑みに注がれた緑は、さっきよりも少し色が淡い。でも香りは変わらず、優しく穏やかだ。何杯でも飲めそうなほど、心地よいお茶の時間だった。
終わりに
こうして七歳の幹夫は、静岡の茶畑と富士山に育まれた緑茶の魅力を、少しずつ深く知っていく。朝露を受けた生葉の青い香り、湧き水の冷たさ、製茶の蒸気や焙煎の匂い……それらが幹夫にとっては日常であり、同時に大きな魔法でもある。自然の恵みを丁寧に扱うことで生まれる一杯の煎茶。その透明でいて深い味わいは、幹夫の心に“新茶の夢”という不思議な物語を編み続ける。彼のまなざしには、いつかその夢が大きく花開き、さらに豊かな世界へ導いてくれるという予感が宿っていた。





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