緑走る台地 ~動く~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 5分
第一章 静かな号令
翌朝。まだ薄暗い街の路地を歩く幹夫の胸には、昨夜聞いた風鈴の余韻がわずかに宿っていた。ほんの少しだけ、背筋が伸びたように感じる。 印刷所の門をくぐると、いつもより警戒した様子の社長が奥で電話をとっている。男の低い声が受話器越しに漏れ、聞き取れないが不穏な空気を醸していた。やがて受話器を置くと、社長は大きく肩を落として幹夫たちのほうへやってくる。 「……軍から追加のポスター制作依頼が来た。今度は“国威発揚”をもっと大きく打ち出せと。従来のデザインとは桁違いの派手さになるらしい」 言い終えると同時に、奥の作業場の方からまた新たな郵便が届き、見れば一面に“至急”と赤文字が踊っている。押し寄せる軍需印刷の号令は、嵐が来ることを告げる静かな叫びのようだった。
第二章 堀内の焦燥
廃材置き場に向かう途中、堀内が疲弊した表情で追いついてくる。 「幹夫、来週にも軍の担当者が現場を見に来るらしい。“生産体制の確認”とか言ってたが、要は俺たちを監視するためだろうな」 幹夫はぎょっとする。もし軍の者が印刷の現場を隅々まで監視すれば、廃材を利用する井上たちの計画はさらに危険を伴う。 「廃材置き場にも目を光らせるかもしれない……」 堀内は唇を噛むように言う。 「そうだ。もし山岸が今も紙を持ち出すつもりなら、早めに動かないと間に合わない。逆に遅れれば、我々にも疑いがかかる。ほんの少しの抜け道も塞がれるだろう」
幹夫は心がざわめく。**「風鈴」がかすかに響いた夜からまだ数日。山岸たちが動いたという連絡はないが、傍観できるほど悠長な状況ではない。軍の監視が強まれば、廃材を使ったビラ印刷の余地も消え去る。堀内が言うように、時間がもう残されていないのかもしれない。
第三章 父の声が届く
その日の昼休み、ほんの少しでも落ち着こうと、幹夫は印刷所の裏口から外へ出て人気の少ない路地に腰をおろす。袋の中には朝届いた手紙が入っていた。 父・明義からの便りは短く、「体の具合は悪くない。合併が正式に決まり、飛行場の工事がさらに拡大された。茶畑はかなりの範囲で耕地とは呼べなくなりつつある。……それでも、諦めるわけにはいかない」という内容だった。 文面の端々に滲む父の苦悩と強い意志。それを噛みしめるたび、幹夫の胸には鉛のような重さと、わずかな勇気が同時に生まれる。 「そうだ。父さんはまだ闘ってる。俺も……できる限りのことをしなくちゃ」
苦い思いで嘆息しつつも、幹夫は父が示す静かな抵抗を思い浮かべる。大きな流れをひとりで止めることはできなくても、小さな歯止めをかけることはできるはずだ。「わずかな抵抗でも、未来に繋がる」と父は信じている。
第四章 夜陰の物音
その晩、作業を終えた幹夫は下宿へ帰る前に、どうしても廃材置き場の様子を確かめたかった。軍人が訪れる前に、山岸が動いた形跡はあるのか——。 夕闇が迫り、人通りの減った印刷所の裏通りに回ると、建物の影に誰かが隠れるように立っていた。一瞬、堀内かと思ったが、影は幹夫に気づくと身構えるように動く。 「……山岸……?」 しかし返事はない。かすかに目が合ったようにも思えたが、やがてその人影は通りの奥へ駆け去っていった。 (やっぱり来たんだ……) 幹夫の胸が鼓動を速める。彼らが廃材を持ち出したのか、あるいはまだ機会をうかがっているだけなのか——確かめる術はない。だが、もし廃材を持ち出す一部始終を誰かに見られれば、警察の捜査は確実に厳しくなるだろう。
第五章 嵐の雲間
下宿に戻ると、夜の帳は既に重く下り、外では風がやや強く吹き始めていた。風鈴は沈黙したまま、少し揺らぐ姿が窓に映る。 部屋に腰を落ち着けた幹夫は、いつものように写真立てを見つめ、静岡の父を思う。飛行場が広がり、町が合併し、農民が引き裂かれていく——その痛みに比べれば、自分の抱える危険など小さいものだろうか。 (それでも、ここで逮捕されたら……父さんが悲しむに違いない。俺も堀内さんや社長も、印刷所も……) 考えが堂々巡りする。廃材を利用してビラ活動を支援する。だが、それが自分を守る術をすべて奪い去るかもしれないという恐怖。まるで空の暗雲が一瞬ほころび、また閉じるように、幹夫の希望と不安は入れ替わり立ち替わり押し寄せる。
第六章 風鈴の告白
夜半すぎ、布団でうとうとしていた幹夫がふと目を覚ますと、かすかな“チリン……”という音が聞こえた。風鈴の音。 いつもなら気まぐれな風が通り過ぎただけだと思うが、なぜか今夜の音には幹夫の心に触れるものがあった。耳を澄ますと、二度、三度と、ごく短い鈴の響きが闇に溶けていく。 「まるで……話しかけてくるみたいだ」 幹夫は布団から抜け出し、窓のそばへ行く。ほんの微かな風が吹きこみ、風鈴を軽く揺らす。 その音は、まるで「恐れるな」と言っているようにも、「慎重に動け」と言っているようにも聞こえる。自分の内面が投影された幻聴かもしれない。それでも、今の幹夫にとっては確かな助言のようだった。
エピローグ
朝が近づくにつれ、夜の空が白んできた。幹夫は再び布団に入り、瞼を閉じる。このまま日は昇り、また印刷所で軍の注文をこなす日々が始まる。山岸や井上たちがどう動くかも、すべてが手探りだ。 「それでも、微かな風でも、風鈴は鳴る。俺もきっと、どんな小さなきっかけでも生かしてやる……」 そう自分に言い聞かせ、幹夫は浅い眠りへ落ちていく。昭和の暗雲は依然として重いが、かすかな鈴の音が、彼の心に生き続ける“わずかな抵抗”を守ってくれているようだった。
——(続くかもしれない)




コメント