緑走る台地 ~小さな鈴~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 5分
第一章 薄雲の下で
四月も終わりに近づいた頃。空一面を覆う灰色の雲は、かすかに薄らいできたようにも見えたが、昭和という時代の空気は相変わらず重苦しかった。 幹夫は出勤前、下宿の窓際に立ち止まり、風鈴をじっと見つめる。昨夜は結局音を立てることなく、静かなまま朝を迎えた。 (ここ数日、山岸が現れる様子はない。ビラ作りは進んでいるはずだが、どうなっている……) そんな考えが頭をよぎるたび、自分が置かれている立場を思い知らされる。自分は印刷所を「守る」形で何とか安全を維持しながら、井上たちのわずかな手助けをしているに過ぎない。――ほんとうにこれでいいのかと、胸が疼く。 「それでも、まだやらなくちゃならないことがある」 深呼吸して振り返ると、枕元には父の写真立て。牧之原台地のすでに変わり果てた姿を想像すると、どうにも心が痛む。だが父の踏み止まりを思うと、自分も踏み止まらなくてはと思えた。 風鈴は相変わらず沈黙している。けれど、その存在が今の自分を支えている――幹夫はそう信じたかった。
第二章 嵐の予感
印刷所へ着くと、社長が机に散らばる書類を前に頭を抱えている。新しい注文書には大きな赤字で「緊急」と書かれ、軍からさらに大量のパンフレット増産を求める指示があったらしい。 「こんな納期、どうやって間に合わせるんだ……」 社長は声を落とす。目の下には濃い隈。堀内も横で腕組みし、 「最近は徹夜続きだ。職人たちも疲労の限界に来てる」と憂鬱そうに言う。 幹夫は口をつぐむ。自分もまた余裕などないが、軍の命令に逆らうことはできず、とにかく機械を回し続けるしかない。 (こんな大量の軍用印刷物を、俺たちは支え続けているんだ。表向きは“店を守る”と言いながら、実際には戦争を後押ししているのでは……) 自責と矛盾が幹夫の胸を重くする。廃材からビラが作られている一方、表向きは軍部に協力している――その背反に耐え続ける日々に、何やら大きな“決着”が迫っているような気がしてならなかった。
第三章 もう一度の山岸
昼下がり、廃材置き場を覗き込んでいた幹夫は、ひそかに奥の隅へ視線を走らせる。そこにはまだ捨てきれない紙の束が積まれていた。 (山岸はこれを持ち出したのだろうか。まだ残っているぞ……) 警戒しつつ戻ろうとしたそのとき、背後で誰かが低く名を呼ぶ声がした。 「幹夫……!」 思わず振り向くと、そこに山岸が身を隠すように立っている。昨日まで姿を見せなかったのは、警戒していたのだろう。 「危ないぞ。いま皆、気が張り詰めてる。警察に見つかったら……」 幹夫が息を詰めるように囁くと、山岸は険しい顔で頷き、 「わかってる。だが、足りない紙がまだあるんだ。今回の軍拡で書きたいことが多すぎる……」 背後で機械音が響く印刷所内を気にしつつ、幹夫と山岸は一瞬視線を交わし、言葉なき了解を得るように互いに頷く。
第四章 身を焦がす思い
作業に戻った幹夫は落ち着かないまま機械を回す。廃材置き場には山岸が潜んでいるかもしれない。仕事を終えるまでは、ひたすら軍のパンフレットを刷り続けねばならない――この相反する状況に、胃がきしむような痛みを感じた。 ふと目を上げると、堀内がこちらを見つめていた。先日の会話を思い出す。「もし連中が廃材を取りに来ようとしたら、俺は止めない」という彼の言葉が、今まさに現実化しようとしているのかもしれない。 機械が轟音を立てながら紙を巻き込み、インクの匂いが充満する。幹夫は一枚一枚を丁寧にチェックしつつも、心ここにあらずだった。“山岸がこのまま印刷所を出られるか”“それとも警察の餌食になるのか”――考えるほどに不安は募り、背筋にじっとりと汗が滲んでいく。
第五章 堀内の背中
夜になり、作業が一区切りつくと、社長が「明日の朝も早いから早めに帰れ」と職人たちを解散させる。幹夫も片付けを終え、薄暗い工場を出ようとしたとき、堀内が無言のまま後ろを歩いてきた。 「……行くのか」 堀内がぽつりと囁く。幹夫ははっと足を止めて振り返る。 「おまえ、さっき廃材置き場に誰かいたんだろう。あれ、山岸だろう?」 その問いに幹夫は一瞬迷うが、嘘をつく意味はない。小さく頷く。 「姿を見られたらまずいけど、彼らも必死だから……」 堀内は苦い笑みを見せ、 「俺はしばらく時間を稼ぐ。社長には“もう少し整理が必要だ”とでも言って、ここを出ないようにするよ。おまえは先に帰ったほうがいい。万一見つかったら、おまえまで巻き込まれる」 幹夫は唇を噛んで首を横に振る。「でも、俺が逃げるようで……」 「いいから行け。今はそれしかない」 堀内はそのまま奥へ消えていく。彼の背中が小さく見える一方、その決意の強さが伝わり、幹夫は思わず胸が熱くなった。
第六章 決死の夜
帰り道、路地裏の暗がりで幹夫は一度振り返る。もし今、堀内や山岸が警官に踏み込まれれば、すべてが露見してしまうだろう。あのメモや廃材がどう使われたか――これまでのすべてが無になってしまうかもしれない。 (でも俺は……ここで戻ったら、それこそ堀内さんの計らいを無駄にする。山岸を追い詰めることにもなる……) 軋む思いで拳を強く握りしめ、幹夫は走り出した。下宿へ向かう狭い路を、まるで何かから逃げるように足を動かす。一刻も早く姿を消すことで、印刷所への疑いが集中しないようにする——堀内と約束した“協力”の形だ。
下宿へ辿り着き、思わず階段を駆け上がると、なぜか胸が大きく高鳴っている。息を切らせて部屋の扉を開けると、風鈴がほんの少しだけ揺れて、わずかな音を奏でた。 「あ……」 目頭が熱くなるのを感じ、幹夫は静かにその音を受け止める。——大丈夫、まだ続いている。自分たちの小さな“抵抗”は、今夜も折れずに息をしている。きっと父の牧之原も、同じ空の下で闘っているのだと、そう思えたのだ。
エピローグ
夜風が窓を震わせ、風鈴がかすかに鳴り止む。部屋の中は静寂に包まれ、昭和の深い夜は闇を増していく。 「堀内さん、山岸……二人とも無事でいてくれ」 幹夫は布団の上で膝を抱え、微かに震える肩を抑える。もし明日、印刷所が変わらず動いていれば、これまで通りの“綱渡り”が続けられるかもしれない。だが一歩間違えば、すべてを失う危険もある。 窓辺に吊られた風鈴はまた沈黙したまま。けれど幹夫には、その沈黙が「まだ希望は消えていない」と告げているように思えた。激動の昭和の闇の中で、小さな鈴の存在こそが、明日を祈りながら進む彼の灯火になりつつあった。
——(続くかもしれない)





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