緑走る台地 ~満州の風~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 7分
第一章 満洲の風
昭和六年(1931年)初秋。東京にいる幹夫は、連日の新聞の見出しに不穏な空気を感じ取っていた。 「満洲事変」。 関東軍が満洲(中国東北部)で軍事行動を起こしたというニュースが、日本国内でも大々的に報じられ、政界は紛糾。大学の教授たちや学生は「これでは国際関係が悪化する」「軍部がどんどん政治を掌握しようとしているのでは」と騒ぎ立てる。
下宿で夜食のラーメンをすすりながら、幹夫は唇を噛んだ。静岡の家からは父・明義が「県経済も不安定だが、もっと大きな嵐が来るのでは」と懸念する書簡を送ってくる。確かに、どれだけ地域の産業振興を図ろうとしても、国が戦争へ傾けば努力は水泡に帰すかもしれない――その漠然とした不安が幹夫の胸を締めつけた。
「幹夫、聞いたか? 満洲は“国防上不可欠”だとか、新聞が煽り始めてるぜ」 同じ下宿の部屋で勉強していた親友・井上が顔を上げる。彼の目には苛立ちと焦燥が浮かんでいた。 「まったく……経済恐慌から脱するために満洲に資本投下を、と言う輩もいる。満洲を開拓するより、まず国内の農村を支えるのが先だろうに」
幹夫はうなずき、胸の奥で混乱する思いをかみしめる。 “こんな形で軍が突出すれば、政治も民衆も振り回されるのではないか。東京の学生たちが必死で議論しているのに、声が届かないまま事態が進んでしまうのではないか……”
第二章 印刷所でのあれこれ
幹夫は大学の聴講生として経済学や政治学を学びながら、小さな印刷所で働いていた。そこではチラシやポスター、パンフレットなどを日々刷り上げるが、最近、軍部や国家主義を擁護する内容の印刷依頼が急増しているという。 「うちも商売だからな。依頼があれば、どんなもんでも刷らなきゃいけねぇ。けど、たまに複雑な気分になることがあるよ」 刷り上がった紙束を抱えながら社長が言う。
幹夫は密かに胸を痛める。先日も、軍部を称えるビラの校正を手伝った。そこには**「満洲はわが国の将来を救う」「軍の聖戦を支持せよ」**といった文言が躍っていた。一方で、大学で議論される内容や井上が集める資料は“満洲事変は侵略ではないのか?”と問いかける。真逆の意見が同じ印刷所の機械から吐き出される事実が、幹夫にはやりきれなかった。
印刷所の一角には、労働組合の回覧板が置かれており、幹夫も何気なく目を通す。そこには「戦争や軍拡への流れに警戒を」「庶民の暮らしを第一に」と訴える文章がまとめられていた。文字の迫力に圧倒されながらも、幹夫は思い出す。地元・静岡でも農村が困窮し、労働者が職を失いかけていた。そこにさらなる軍事拡大を望む声が上乗せされれば、人々はどんな苦境に追い込まれていくのか。
第三章 焦燥の議論
大学の講堂では、ある教授が「軍事行動は日本の将来に禍根を残す」と強く批判していた。幹夫は演壇に目を凝らし、必死にノートをとる。教授は欧米の事例を引きつつ、「民主主義を貫かねば、いずれ国際社会で孤立する」と訴える。 しかし、熱のこもった講義が終わると、廊下ですれ違う学生たちの意見はバラバラだった。 「満洲を手に入れれば資源も得られて景気も回復するって先生は言ってたよ」 「いや、それは別の教授の意見だ。こっちの先生は“国際連盟からの非難は必至だ”って……」 「それでも朝鮮・満洲からの移民で国内失業を減らすって考えもあるし……」
幹夫は複雑な思いで心をかき乱される。前途を悲観する者もいれば、軍拡が救世主と信じる者もいる。どちらの声も巨大で、どちらが正しいとも簡単に割り切れない。ただひとつ確かなのは、“日本が大きく変わろうとしている”という事実だった。
第四章 父からの訴え
そんなある日、幹夫のもとに故郷・静岡から再び書簡が届いた。父・明義の筆跡は急ぎの走り書きのようで、文面は少し荒い。しかしそこには強い思いが込められていた。
「幹夫、県内では今も銀行や企業の再編が続いている。米価や生糸価格は低迷したままだ。農村では小作料を巡る争議が再熱している。わたしは官として、少しでも安定策を打ち出そうと努力しているが、大本の国策が戦争へ向かうなら、地方経済の立て直しもままならない。 満洲事変が起き、さらにこれが拡大すれば、遠からず国は総動員体制に入るかもしれない。地方の茶畑や工場が軍需に駆り出される日も来るだろう。 そのとき、一体どうなるのか――わたしは恐ろしさを禁じ得ない。幹夫、おまえは東京の動きを肌で感じているはずだ。大人の思惑で世の中が歪むのを止めることができるだろうか。あるいは、時代の奔流を受け入れなければいけないのか……。 いずれにせよ、おまえの視野と知恵がいつか役立つと信じたい。地元の未来を憂慮する人間は、まだまだいるのだから」
幹夫は手紙を握りしめ、息を詰める。父がどれほど必死に地方を踏ん張らせようとしているか、行間からにじみ出ていた。 「軍事の拡大をこのまま放っていいのか……」 思わず声に出す。東京にいながら、彼に何ができるのか。その答えは見つからない。
第五章 井上との夜
夜遅く、下宿の部屋。明かりの落ちた廊下で、隣の部屋から苦しげな咳が聞こえる。井上が過労で風邪をこじらせているらしい。幹夫はお粥を作り、一杯だけ差し入れた。 「すまん。助かるよ……。いろいろ考えてると、どんどん体が弱ってきたみたいだ」 井上は布団にくるまったまま笑みを浮かべる。頬はこけ、目の下に隈ができていた。最近は大学の授業に加え、社会運動系の集会を探し回って夜遅くまで奔走しているらしい。 「幹夫、おまえも焦ってるだろう。父上からの手紙、読んだんだろ?」 顔を伏せる幹夫を見て、井上は言葉を続ける。 「俺だって、満洲事変の進展が恐ろしくて仕方がない。いま声を上げても、新聞やラジオが軍の勝利を讃えるばかりなら、民衆はますます“戦争万歳”へ傾くかもしれない。俺たちの声は届かないかもしれない――それでも言わずにはいられないんだ」
幹夫は息を飲む。井上の目にはまだ炎のような情熱が宿っている。 「俺たちが声を上げられるのは、まだ弾圧がそこまで激しくない今だけかもしれない。やるなら今しかない、って気持ちがあるんだ」 布団に横になる彼の肩は細く、弱々しい。だが、その心の強さは幹夫の胸を揺さぶった。
第六章 揺れる覚悟
幹夫は大学の講義と印刷所の仕事をこなしつつ、徐々に政治集会や学生運動の現場にも顔を出すようになった。表向きは“経済学の研究”を理由にしているが、実際は井上の影響で「今の日本の行く末を知りたい」という切迫した思いが強かった。 ある集会では、市井の労働者がマイクを握り、「満洲へ行く金があるなら失業者を救え!」と叫んでいた。その言葉はまるで幹夫の頭を殴るように響く。幼いころ米騒動に恐怖を覚えた日のこと、父が懸命に産業を支えていた姿が一気に蘇る。庶民の叫びは変わっていないのかもしれない。
しかし同じ会場の外では、軍服の男たちや国粋団体らしき者が集会の参加者を睨みつけている。「売国奴め」「軍の功績を認めぬとは何事だ」と挑発する声が飛び交い、小競り合い寸前の緊張感が漂う。 日本の内側で、戦争を支持する声とそれに反対する声が衝突を始めている。 「静岡がどうなるか以前に、日本全体が大きく二分されていくのかもしれない――」 幹夫は戦慄を覚える。彼の中で、これまで漠然としていた“時代の危機”が、はっきりとした輪郭を帯びつつあった。
エピローグ
遅い夏の終わりから秋へ移り変わる夜、薄い月の光の下で幹夫は下宿の狭い机に向かい、筆を取った。父への返事を書こうとするが、言葉が浮かばない。 静岡に残る家族、地域産業の苦境、軍事行動へ突き進む国……。どれもがつながり、どこから切り解けばいいのか分からない。 紙の上に一言、「変わらねばならないのは、誰なのか」 とだけ記して、幹夫は小さく息をつく。井上の咳が遠くから聞こえ、東京の街には軍靴の足音が忍び寄る。
まだ道は見えない。 だが、幹夫は幼い日からいつも「声を上げる人々」を見てきた。 静岡で米騒動に驚いた日も、父が産業を支えるため交渉を重ねた日も、 彼らの“声”は小さくとも確かに世の流れを少しずつ変えていたはずだ。 ならば、今こそ幹夫もまた、その声を繋ぎ止めなければいけない——。
——(続くかもしれない)




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