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茶の葉の手紙と安倍川の石

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月27日
  • 読了時間: 8分

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その朝、静岡市の空は、うすい水色のガラスでできているみたいにひやりとして、駿河湾からの風が、町じゅうの洗濯物のあいだをすうっと通り抜けていました。八歳の幹夫は、縁側でまだあたたかいお茶の湯気を見ていました。湯気はふわりとのぼって、賤機山のほうへまっすぐの糸を引いていきます。


「おはよう、幹夫さん」


 湯飲みのふちで、茶の葉がひとひら、ぱちりとひかりました。よく見ると、それは葉っぱにそっくりな小さな封書で、うすい緑のうえに細い金色の字がくるくるとまわっています。


 — 朝のうちに、安倍川へ来て、丸い石をひとつ、もとの場所に返してください。

     風の郵便局 賤機山支局


 幹夫は、湯飲みを両手で持ったまま、眼をまるくしました。


「風に郵便局があるの?」


「もちろんさ」

 欄干の影から、赤い羽をもったトンボがひょいと出てきました。

「ぼくは局員のアカネ。配達と検査。安倍川の石がひとつ、昨夜の南風に押されて動いてね。もとの寝床に戻らないと、水の笛が鳴らないんだ」


「水の笛?」


「川は歌って流れるだろう。あれは石と石のあいだで風が指揮棒をふるからなんだ。ひとつ足りないと、歌の拍子がくずれる。今日は富士の雲の稽古もあるから、なおさらだよ」


 幹夫はうなずくと、縁側から外に出ました。日なたには、早くも茶畑の匂いが満ちています。山の斜面は小さな鱗のような畝でびっしりして、葉のひとつひとつが朝の光にささやいています。


 お母さんは台所でお弁当を包んでいました。


「どこへ行くの、幹夫」


「安倍川へ。石を返しにいくんだって。風の郵便局から手紙だよ」


 お母さんは少し笑って、海苔のおにぎりを二つ、ふろしきに入れてくれました。

「じゃあ、道中の切符。お茶も入れたよ」


 アカネは幹夫の肩にとまり、ふたりは町を抜け、川のほうへ歩きました。道ばたの紫陽花は、ひと房ごとにちがう色で笑っていて、巴川のほうからは電車の金属の歌もきこえます。やがて、安倍川の広い河原に出ました。


 川は、空の色をうすくのせて、さらさらと光っています。中洲では白い鳥が足をすこしだけ水にさしこんで、じっと立っていました。


「石はあれだよ」


 アカネが羽で指した先に、掌より大きい、まるくて平たい石が、岸の砂の上でひなたぼっこをしています。石は重たそうでしたが、どこかつまらなそうでもあります。


「ねえ、石さん。もとの場所に帰りたいの?」

 幹夫がたずねると、石はかすかに震えて、低い声で答えました。


「うむ。昨夜の南の風が、わしの耳をくすぐったのでつい転がってしまった。しかし、わしの場所はあの浅瀬の少し下、三つの小石と一つの砂の影のあいだじゃ。そこにいれば、水は笛になって、鮎の子どもが休む渦をつくる。みんな待っとる」


「でも、重いなあ」


 幹夫は両手で持ち上げようとしましたが、石はびくともしません。アカネが眉をしかめて、羽をぱたぱたさせました。


「呼ぼう、歌う手を。風の郵便なら、合唱が運搬だ」


 そのとき、砂の陰から黒いつやつやをしたテントウムシが、ちいさな杖をつきながら出てきました。


「朝の合唱なら、この点々嬢におまかせ。静岡おでんの湯気より濃い、濃密なハーモニーを召し上がれ」


 点々嬢は杖をくるりと回して、草の穂先や、岸の枯れ茎、遠くの電信柱、川べりのアカメヤナギ、そして茶畑の低い風を一人ずつ呼び集めました。みんなが輪になって、幹夫はまん中で息をととのえました。


「歌の名前は?」と幹夫。


「《茶の葉のゆりかご》」と点々嬢。


 幹夫はおにぎりを一つ、石にそっとお供えしてから、歌いはじめました。


 ちゃのはは かぜの ゆりかご

 すりばちの やまが ひかりの粉をまく

 かわの ふちには ひとつの まるいねむり

 もとのところへ さあ おかえり


 風がすこし強くなって、葉の裏が銀色に返りました。川の水面(みなも)は、細い箒でなでたみたいになり、鳥たちが首をかしげます。歌の拍子に合わせて、幹夫がふしぎな力をこめると、石はふっと軽くなって、掌から湯気がのぼるほど温かくなりました。


「いまだ」


 アカネが合図をして、幹夫と点々嬢と風の合唱は、石を浅瀬へすべらせていきます。砂の粒がさらさらと逃げ、川がひと息吸いこむように広がって、石は教えられた場所にぴたりと収まりました。


 その瞬間、安倍川は笛を取り出して吹きはじめました。透明な音が、うすい青の空をかすめ、富士のほうへゆっくりと昇っていきます。浅瀬の脇に、小さな渦が生まれて、銀色のこどもの鮎が三匹、ふんわりと影に入りました。


「ありがとう。これで昼の暑さもわたれる」


 石は満足そうに身じろぎしました。そこへ、遠くの山のほうから、低い鐘のような声がひびきます。日本平の風が、背中に鈴をつけて駆けてくるのです。


「郵便局より連絡。任務完了の証として、展望の切符を差し上げます」


 アカネが胸を張って言いました。点々嬢が杖で地面をとんとんと叩くと、砂の上に丸い輪が描かれ、輪の中の空気が透きとおって震えはじめました。


「さあ、踏むんだよ。三歩で着くから」


 幹夫はおそるおそる輪に入って、ひと、ふた、みっつと歩を進めました。すると足もとがふわりと軽くなり、つぎの瞬間には、日本平の丘の上に立っていました。風が頬の横を滑っていき、目の前には、濃い青の駿河湾と、遠くに雪のような白さを残した富士の裾(すそ)が、うつくしくひろがっていました。三保の松原は緑の扇のようにひらき、港のクレーンはおとなしい恐竜の首みたいに並んでいます。


「きれいだ」


 幹夫はただ、それだけを言いました。すると、日本平の風が、耳もとで静かに言いました。


「石をひとつもどすと、景色がひとつ落ち着く。人の心でも同じこと。大きいことを動かす前に、小さい場所を元に返してごらん。世界はそのぶんだけ、澄んで見える」


 幹夫はうなずきました。胸の中に、さっきの水の笛がまた鳴りはじめます。アカネは羽を休め、点々嬢は松の影で杖をねかせて、三人はしばらく海と山を見ていました。


 帰り道は、風の滑り台でした。賤機山の斜面をするりとすべり、町の瓦の間をすりぬけ、縁側へ着くと、ちょうど昼の匂いが台所から流れてきました。


「おかえり」

 お母さんは笑って、鉄板で焼いた黒はんぺんにソースをすこし塗ってくれました。幹夫がかじると、海の深い味が口いっぱいに広がって、さっきの駿河湾の色まで、舌の上に浮かびます。


「安倍川の石、もどった?」


「うん。今、水が歌ってる。鮎の子も休んでるよ」


 お母さんはうなずき、湯気の立つお茶をついでくれました。茶の湯気はまた天井に細い糸をひき、どこかへ手紙をだしにゆくようです。


 午後、町は蝉の音でいっぱいになりました。幹夫は縁側で昼寝をして、夢のなかで、石や風や魚たちの集会へ行きました。そこでは、日本平の風が司会で、雲の切符屋が席をうごかし、川の音楽家が新曲の稽古をしています。石は相変わらず重たそうですが、目だけはやさしく笑っていました。


「幹夫くん。きみが大きくなっても、世界はしばしば、石が一つずれたみたいになるよ。そのときは今日のように、歌ってごらん。歌うのがむずかしかったら、静かに手でさわってごらん。もとの場所が、たぶんわかる」


 目をさますと、風鈴が鳴っていました。音は透明で、どこか遠くで雪が解ける音にも似ています。夕暮れの光が畳の上を斜めに走り、縁側の柱を黄金色にしていました。


 夜、星が出ました。富士のほうから、風がまた郵便袋を背負ってやってきました。幹夫は窓を開けて、空を見上げます。小学校で習った星座は、まだよく覚えていません。それでも、星たちはそれぞれに小さな住所をもって並び、見えない手紙を交換しているみたいです。


 アカネが網戸にとまりました。


「今日の配達は、とてもよかった。局長からの追伸があるよ」

 アカネは羽をすこし広げ、点々嬢が柱の影からぴょんと顔を出してうなずきました。


 — 追伸:

  朝の笛は、昼の暑さをわたす橋。

  小さなことを元に返すことは、遠い誰かの大きな涼しさになる。

  ときどき、風の切手をポケットに入れて歩きなさい。


 幹夫はふところに手を入れてみました。すると、薄い透明の切手が、月の光でふっと見えました。切手には、茶の葉のかたちをした星が描かれています。


「これ、どこへ貼るの?」


「好きなところへ」

 日本平の風が、障子のすきまからそっと答えました。

「たとえば、ためいきの端っこ。たとえば、泣きそうなときのまぶたの外。たとえば、だれかに手を振る指先。貼ったところは、切手一枚ぶんだけ、世界とつながるのさ」


 幹夫は目をつぶって、切手を胸のあたりに貼りました。そこからすこし涼しい風が出て、お腹の中で小さな灯りがともった気がしました。


 翌朝、幹夫はまた早起きをして、縁側に出ました。空はやはり、うすい水色のガラスみたいです。富士の裾は白い雲を二枚、肩にのせています。安倍川は、ひそやかに昨日の笛をつづけています。


「おはよう、幹夫さん」


 茶の湯気が、今日の手紙をひとひら、差し出しました。

 幹夫はにっこり笑って、それを受け取りました。手紙を開く前からわかります。今日はきっと、だれかの石を、またひとつ、もとの場所に返すことになるだろうと。


 風が庭を横切り、葉っぱをかすかに裏返してゆきました。幹夫はふろしきを結び、おにぎりを二つ入れました。ポケットの切手が、月の光のかわりに朝の光で、すこしだけ白く光りました。



 茶の葉のゆりかご

 風の切手

 石のねむり

 — きみがそれをひとつずつ元に返すとき、

 駿河の海は、今日も遠くから、

 青い拍手をおくってくる。

 
 
 

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