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草薙に国境線を引いた死体

雨の降る草薙は、線路の音まで濡れていた。

静鉄草薙駅の北側、住宅街の奥にある細い道で、三本目の白い花束が置かれた夜、清水署刑事課の星野仁は、傘をささずに立っていた。

一人目の被害者は、松永琴葉。二人目は、小野寺芹。そして三人目は、まだ名前を公表されていない。

いずれも若い女性だった。いずれも夜道で襲われ、性暴力の痕跡を残され、命を奪われた。

新聞は言葉を選んだ。テレビは顔を伏せた。ネットは言葉を選ばなかった。

――外国人グループによる連続暴行殺人。――草薙に潜む凶悪移民団。――日本人女性を狙った異常犯罪。

星野はスマートフォンに流れる文字を見ながら、奥歯を噛んだ。

「国籍が犯人なんじゃない。人間が犯人なんだ」

横に立つ若い刑事、桐野葵が言った。

「でも、先輩。防犯カメラには、外国人らしき男たちが四人映ってます」

「“らしき”で町は燃える」

星野は花束の前にしゃがんだ。

花の根元に、小さな紙片が挟まっていた。

雨に濡れ、文字は滲んでいた。

そこには、ひらがなでこう書かれていた。

――くにを、しんじるな。

星野は紙片を証拠袋に入れた。

「国を信じるな、か」

桐野が首を傾げる。

「被害者のメッセージでしょうか」

「いや」

星野は立ち上がった。

「これは、誰かが俺たちに読ませたがってる」

     *

最初の事件から二十一日。

草薙の町は、夜になると人が消えた。

コンビニの前にたむろしていた学生も、駅前の居酒屋の笑い声も、急に途切れた。代わりに増えたのは、腕章を巻いた男たちだった。

「草薙を守る会」

そう名乗る自警団が、町内の見回りを始めていた。

発起人は、最初の被害者、琴葉の父親である朝倉広次だった。

朝倉は猟友会に所属していた。無口で、仕事帰りには娘に惣菜を買って帰るような男だったと近所の人々は言った。

その男が、今は目の奥に火を宿していた。

清水署の会議室で、星野は朝倉と向き合った。

「朝倉さん。見回りは警察に任せてください」

「任せた結果がこれだろう」

朝倉の声は低かった。

「娘は帰ってこない。あいつらはまだ町にいる」

「あいつら、とは?」

「外国人の連中だ」

星野は黙った。

朝倉は机に拳を置いた。

「刑事さん、あんたには分からない。俺は毎朝、娘の部屋を開ける。制服も、読みかけの小説も、マグカップもそのままだ。だけど娘だけがいない」

星野の胸に、鈍い痛みが走った。

「分かる、なんて言いません」

「なら止めるな」

「止めます」

星野は即答した。

朝倉の目が吊り上がった。

星野は静かに続けた。

「あなたが撃つ相手は、犯人かもしれない。犯人じゃないかもしれない。でも撃った瞬間、あなたは琴葉さんが望まなかった人間になる」

朝倉は笑った。

笑いというより、壊れた息だった。

「娘が望んだものなんか、もう聞けない」

     *

被害者三人には共通点があった。

全員が、草薙ことばの会という小さな日本語教室に通っていた。通っていた、といっても生徒ではない。ボランティア講師だった。

技能実習生、留学生、難民申請中の者、日系の二世三世。言葉の違う人々に、ひらがなやごみ出しのルールや、病院での説明の仕方を教えていた。

教室の代表は、深見美奈という三十代の女性だった。父が外国出身、母が清水の人間だという。

美奈は、星野に分厚い出席簿を見せた。

「警察の方が来るたび、生徒が減ります」

「すみません」

「謝ってほしいわけじゃありません。犯人を捕まえてください。でも、町中が“外国人”という一つの顔を憎み始めている。それが怖いんです」

星野は出席簿をめくった。

被害者三人の名前の横に、赤いペンで同じ印がついていた。

「この三角は?」

美奈の表情が固くなった。

「相談対応の印です」

「誰の相談ですか」

美奈は少し迷ったあと、小さく言った。

「白犬寮の人たちです」

白犬寮。

草薙の外れにある古い社員寮だった。今は外国人労働者向けの共同住宅になっている。管理しているのは常久セキュリティという民間警備会社。

星野はその名前に覚えがあった。

最近、町内会に防犯カメラ増設を売り込んでいる会社だ。代表の葛城藤也は、テレビの取材で「地域の安全は地域で守る時代」と語っていた。

そして、草薙を守る会に腕章や無線機を提供していたのも、常久セキュリティだった。

     *

白犬寮は、雨に濡れたコンクリートの箱のようだった。

廊下には湿った靴の匂いと、香辛料と、洗剤の匂いが混じっていた。

星野と桐野が訪ねると、管理人は露骨に嫌な顔をした。

「また警察ですか。うちは迷惑してるんですよ。住人が疑われて」

「疑われているのは数名です」

「同じでしょう。世間から見れば」

その言葉に、二階のドアが少し開いた。

若い男が顔を出した。肌の浅黒い、痩せた男だった。怯えた目をしている。

美奈が小さく手を振った。

「ノア」

男は一瞬だけ安心した顔をしたが、すぐ奥へ引っ込んだ。

星野は追わなかった。

「彼は?」

美奈は言った。

「被害者の琴葉さんが、最後に相談に乗っていた人です」

「何の相談ですか」

「寮で、何人かの男たちに脅されていると。パスポートを取り上げられ、給料も抜かれていると」

桐野が眉を寄せた。

「男たちというのは?」

美奈は出席簿を閉じた。

「ロマン、セリム、ユーリ。そしてノア。四人とも白犬寮にいました。でも、ノアは他の三人とは違う。琴葉さんはそう言っていました」

星野は廊下の監視カメラを見上げた。

「常久セキュリティが設置したカメラですね」

管理人は答えなかった。

     *

その夜、星野は鑑識から奇妙な報告を受けた。

一つ目の現場に落ちていた外国硬貨。ネットでは「犯人が落とした決定的証拠」と騒がれていたものだ。

鑑識の村松が、老眼鏡をずらしながら言った。

「この硬貨、新しすぎる」

「どういう意味ですか」

「製造年が去年だ。だが容疑者の一人、ロマンは三年前から日本を出ていない。少なくとも出入国記録ではな」

桐野が言った。

「誰かが後から置いた?」

「それだけじゃない」

村松は写真を並べた。

「二つ目の現場に残された外国語の落書き。専門家に見せたら、文法が不自然だそうだ。現地の人間なら、まず書かない間違いだと」

星野は腕を組んだ。

「外国人が犯人だと、あまりにも親切に教えてくれている」

桐野が息を呑む。

「罠?」

「もしくは舞台装置だ」

そのとき、星野の携帯が震えた。

非通知。

出ると、荒い息が聞こえた。

『ホシノ、ケイジ』

片言の日本語だった。

『ノア、シヌ。ミンナ、クル。クサナギ、モエル』

「誰だ。どこにいる」

『シロイ、イヌ。ミギミミ、ナイ』

通話は切れた。

星野は立ち上がった。

「白犬寮だ」

     *

白犬寮の前には、すでに二十人ほどの男たちが集まっていた。

草薙を守る会。

手には懐中電灯、バット、鉄パイプ。腕章が雨に濡れて赤黒く光っている。

その中心に、朝倉広次がいた。

彼の手には、猟銃があった。

星野は車から飛び出した。

「朝倉さん!」

朝倉は振り向いたが、目は星野を見ていなかった。

二階の窓ガラスが割れた。

中から男が三人飛び出した。ロマン、セリム、ユーリ。防犯カメラに映っていた男たちだった。

彼らは寮の裏手へ走った。

その後ろから、ノアが転げるように出てきた。手には小さな黒いメモリーカードを握っている。

「ケイジ! コレ!」

ノアが叫んだ。

しかし、その声より早く、朝倉が銃を構えた。

星野は走った。

「撃つな!」

銃声が、草薙の夜を裂いた。

ノアの体が崩れた。

朝倉は呆然と立っていた。撃った本人が、自分のしたことを理解できていないようだった。

星野はノアに駆け寄った。

ノアは震える手で、メモリーカードを星野の胸元に押しつけた。

「コトハ……ゴメン……ワタシ、ヨワイ……」

それが最後の言葉だった。

星野は歯を食いしばり、雨の中で立ち上がった。

ロマンたちは裏道を抜け、軽ワゴンに乗り込もうとしていた。

星野は走った。

細い水路を飛び越え、塀に足をかけ、濡れた屋根の端を滑るように渡った。桐野の怒鳴り声が背中に飛ぶ。

「先輩、無茶です!」

「無茶しなきゃ逃げるだろ!」

ロマンが車を出した。

星野は道路脇の工事用フェンスを蹴り倒した。フェンスが車の前に倒れ、タイヤが乗り上げる。車体が跳ねた。

セリムがドアを開けて逃げようとした瞬間、桐野が横から体当たりした。

ユーリは刃物を抜いた。

星野は怯まなかった。

一歩踏み込み、腕を外へ払う。刃が雨の中で回転して飛んだ。次の瞬間、星野はユーリの胸ぐらを掴み、地面に叩きつけた。

ロマンが笑った。

「ニホンノ、ケイサツ、オソイ」

星野はロマンの顔を見た。

「遅くても、逃がさない」

ロマンは逮捕された。

草薙を守る会の男たちも、銃刀法違反や暴行容疑で次々に確保された。

朝倉広次は、雨の中で膝をついたまま、動かなかった。

     *

事件は解決したように見えた。

ロマン、セリム、ユーリは、被害者三人への関与を一部認めた。ノアもまた、最初の事件で被害者を呼び出す役割を果たしていたことが分かった。

だが、星野は納得しなかった。

ノアが命懸けで渡したメモリーカード。

そこには、防犯カメラの削除データと、録音ファイルが入っていた。

録音の中で、ロマンの声が聞こえた。

『次も女か』

別の声が答えた。

『町が怖がるには、それが一番早い』

その声は、日本語だった。

星野は何度も再生した。

低く、冷静で、感情のない声。

桐野が青ざめた顔で言った。

「これ……葛城藤也です」

常久セキュリティ代表。草薙を守る会の支援者。テレビで「外国人犯罪から町を守る」と語っていた男。

星野は拳を握った。

「やっぱり舞台装置だった」

     *

葛城藤也は、草薙神社近くの仮設防犯本部にいた。

机の上には、町内の地図が広げられていた。赤いピンが、被害現場と外国人寮を結んでいる。

葛城は星野を見ても驚かなかった。

「刑事さん。犯人は捕まったでしょう」

星野はメモリーカードを机に置いた。

「あなたもな」

葛城は笑った。

「何の話です」

「外国硬貨を置いた。偽の外国語を書かせた。防犯カメラの映像を切り貼りした。ロマンたちに被害者を襲わせ、町に憎悪をばらまいた」

葛城の笑みが消えた。

星野は続けた。

「被害者三人は、白犬寮の不正を調べていた。給料の中抜き、パスポートの取り上げ、脅迫。常久セキュリティは警備会社じゃない。外国人労働者を管理し、搾り取り、逆らえば犯罪者に仕立てる装置だった」

葛城は椅子に深く座った。

「証拠は?」

「ノアが残した」

一瞬だけ、葛城の顔が歪んだ。

「役立たずが」

その言葉で、星野の中の何かが切れた。

机を叩いた。

「人間を何だと思ってる!」

葛城は立ち上がった。

「人間? 町はそんなものに興味はない。町が欲しがるのは分かりやすい敵だ。外国人。移民。よそ者。便利な顔をした恐怖だ」

星野は黙って聞いた。

葛城の声は、熱を帯びていった。

「私はただ、町が本当に求めているものを与えただけだ。防犯カメラ、警備契約、土地の買収、再開発。恐怖は最も強い営業マンだ」

「そのために人を殺させたのか」

「ロマンたちはもともと犯罪者だ。私は方向を与えただけです」

「被害者は?」

葛城は肩をすくめた。

「彼女たちは、余計なものを見た。外国人労働者の帳簿、裏契約、政治家への献金。善意の市民ほど厄介なものはない」

星野は静かに言った。

「犯行動機は憎しみじゃなかったんだな」

葛城は微笑んだ。

「憎しみは商品ですよ、刑事さん」

その瞬間、桐野が葛城の背後に回った。

「葛城藤也。殺人教唆、証拠隠滅、逮捕監禁、その他諸々。詳しい罪名は署で増えます」

葛城は抵抗しなかった。

ただ、星野に向かって言った。

「あなたは町を救ったつもりでしょう。でも一度引かれた国境線は消えませんよ。人はまた誰かを“外側”に置く」

星野は葛城の襟首を掴んだ。

「消すんじゃない」

葛城の目を見据えた。

「越えるんだよ。何度でも」

     *

事件後、草薙の町は簡単には元に戻らなかった。

ロマン、セリム、ユーリは法廷に立った。葛城藤也もまた、裁かれることになった。

ノアの死については、朝倉広次が逮捕された。

ノアは完全な無実ではなかった。被害者を呼び出し、犯罪に加担していた。けれど、最後には証拠を渡そうとしていた。

朝倉は取り調べで、星野に言った。

「俺は、犯人を撃ったつもりだった」

星野は答えた。

「あなたは、人を撃ったんです」

朝倉は長い沈黙のあと、泣いた。

涙ではなく、体の奥から骨が崩れるような泣き方だった。

「琴葉は……俺を軽蔑するかな」

星野はすぐには答えられなかった。

やがて言った。

「軽蔑するかどうかは分かりません。でも、悲しむと思います」

朝倉は両手で顔を覆った。

     *

春が来た。

草薙ことばの会は、一度閉じかけたが、再開した。

教室には、日本人も外国人も来た。被害者の母親たちは、最初は迷った。けれど、琴葉の母は花を持って教室を訪れた。

「娘は、ここが好きだったんです」

そう言って、黒板の横に小さな花瓶を置いた。

美奈は泣きながら礼を言った。

星野も、非番の日に顔を出した。

黒板には、ひらがなでこう書かれていた。

――おなじ町にすむ人の名前を、おぼえましょう。

美奈が星野に言った。

「これが答えなんでしょうか」

「分かりません」

星野は教室を見渡した。

外国から来た青年が、日本人の老人に漢字を教わっていた。日本人の子どもが、外国人の女性に折り紙を渡していた。誰もが少しぎこちなく、少し怯え、それでも同じ机についていた。

星野は言った。

「でも、始まりではある」

その日、星野のもとに拘置所から手紙が届いた。

差出人は朝倉広次。

便箋には短い言葉だけが書かれていた。

――私は娘を奪われた夜、犯人だけでなく、自分の心まで殺しました。――刑事さん、どうか町を見張ってください。――銃を持つ前の私たちを。

星野は手紙を折りたたんだ。

夕方の草薙駅に、電車の音が響いた。

かつてその音は、町に国境線を引いた夜の記憶を連れてきた。

だが今、星野には別の音にも聞こえた。

誰かが帰ってくる音。誰かが出会い直す音。そして、間違えた人間が、もう一度人間に戻ろうとする音。

星野は改札前で立ち止まった。

雨はもう降っていなかった。

草薙の空には、薄い夕焼けが広がっていた。

それは血の色ではなかった。

明日を疑いながら、それでも明日に向かう町の色だった。

 
 
 

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