草薙駅発、死体は次の列車に乗る
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 8分
※作中のダイヤ・施設配置は創作上の演出です。

雨の夜、静岡鉄道草薙駅のホームに、発車ベルがいつもより長く響いた。
二十一時十三分発、新静岡行き。
白いライトを濡らした電車が滑るように動き出し、傘を畳んだ乗客たちが改札へ流れていく。その人波の最後尾で、駅員の山岸が妙なものを見つけた。
ベンチの下に、赤い紙片が挟まっていた。
拾い上げると、そこには子どものように丸い字で、だが背筋を冷やすほど冷静に、こう書かれていた。
――清水署へ。――二十一時十三分発に、犯人は乗っている。――時刻表は嘘をつかない。――MAX。
山岸が顔を上げた瞬間、駅裏の駐輪場から悲鳴が上がった。
倒れていたのは、元駅員の富樫昭彦。雨合羽の胸元は濡れていたが、雨だけではなかった。
清水署の刑事、望月烈が現場に着いたのは、十五分後だった。
「ふざけやがって……」
望月は紙片を握り潰しそうになった。四十二歳。熱血という言葉が時代遅れになっても、彼だけはまだ信じているような男だった。人が倒れたと聞けば走る。泣く子がいれば膝をつく。犯人が笑えば、奥歯を噛み砕く。
若い相棒の朝比奈澪が、冷静に防犯カメラの映像を見せた。
「望月さん。二十一時十三分、黒いコートの男が新静岡行きに乗っています。背格好は立花遼に一致します」
立花遼。
県内では少し知られた名だった。十代で数学オリンピックに出た天才。現在は交通アプリの開発者。鉄道ダイヤの解析で特許も持つ。自称ではない。周囲がそう呼んでいた。
IQ、MAX。
そして彼は、十三年前の草薙駅前事故で妹を失っていた。
望月は映像を睨んだ。
黒いコート。白いマスク。深く被った帽子。雨の中、男は一度もカメラへ顔を向けず、二十一時十三分発に乗った。
一方、富樫が襲われたとみられる時刻は二十一時十四分前後。
犯人が電車に乗っていたなら、殺せない。
「時刻表をアリバイに使いやがったか」
望月が吐き捨てると、背後から声がした。
「それを理解するのに十五分ですか。刑事さんは、各駅停車より遅い」
立花遼が、改札の外に立っていた。
細い体。整った顔。雨粒のついた眼鏡。口元には、笑み。
「俺は二十一時十三分発に乗っていました。乗客も、防犯カメラも、時刻表も、全部そう言っている」
望月は一歩踏み出した。
「人が死んでんだぞ」
「ええ。だから面白い」
その瞬間、望月の拳が動きかけた。朝比奈が袖を掴む。
立花は笑った。
「清水署の熱血刑事さん。暴力ではダイヤは変えられませんよ」
翌日の夜、二つ目の死体が出た。
被害者は尾崎奈緒。看護師。十三年前の草薙駅前事故で、救急処置をした人物だった。
場所は草薙駅から少し離れた細い路地。遺体のそばには、また赤い紙片。
――二十一時三十一分発。――犯人はまた乗っている。――猿は時刻表を読めない。――MAX。
防犯カメラには、再び黒いコートの男。
二十一時三十一分発、新清水行き。立花遼に似た男が乗り込む。尾崎奈緒が襲われた推定時刻は、その一分後。
立花はその夜も警察に姿を見せた。
「残念ですね。僕は電車の中でした」
望月は黙っていた。
怒りで動く男だが、怒りだけで刑事を続けてきたわけではない。彼は映像を何度も巻き戻した。
一度目の映像。
黒いコートの男は、改札を抜けるとき、左手首を一瞬だけ上げた。袖口から、緑色の小さなビーズが光った。
尾崎奈緒がいつも着けていたブレスレット。
二度目の映像。
黒いコートの男は、階段を上がるとき、右肩をかすかに持ち上げる癖があった。
三人目の関係者、タクシー運転手の森下准に同じ癖があった。昔の事故で肩を痛めていたのだ。
望月の背筋に、冷たいものが落ちた。
「朝比奈。違う」
「何がですか」
「電車に乗ってるのは立花じゃない」
朝比奈の目が細くなる。
「じゃあ、誰が?」
望月は映像の男を指差した。
「次に殺される人間だ」
三日目の夜、森下准が死んだ。
赤い紙片には、同じ言葉。
――二十一時四十九分発。――犯人は乗っていた。――次は終電までに終わる。――MAX。
二十一時四十九分発の防犯映像には、黒いコートの男が映っていた。
しかし望月には、もう見えていた。
その男は、左足をわずかに引きずっていた。
柏木悠人。
十三年前の事故当時、大学生だった男。現場近くで交通整理をし、救急車が来るまで雨の中で叫び続けたと記録に残っている。
まだ生きている。
だが、次に殺される。
望月は椅子を蹴って立ち上がった。
「草薙駅だ。立花は今夜、柏木を殺す」
朝比奈が端末を見た。
「立花の携帯位置情報は、静岡市外です」
「奴の携帯が乗ってるだけだ」
「証拠は?」
望月は赤い紙片を机に叩きつけた。
「犯人が証拠をくれてる。時刻表は嘘をつかない。だが、時刻表には“誰が乗ったか”までは書いてない」
草薙駅は、雨の中で息を潜めていた。
二十二時過ぎ。終電前の人波が薄くなる。濡れたホーム。白く曇る照明。改札機の電子音が、やけに遠く聞こえた。
望月と朝比奈は、駅裏の古い保守倉庫へ向かった。
その途中、朝比奈の携帯が鳴った。
非通知。
出た瞬間、スピーカーから立花の声が流れた。
「望月刑事。あなたの相棒は冷静でいい。だから、次の乗客に選びました」
望月が振り返った。
朝比奈の背後に、黒い影がいた。
一瞬だった。
朝比奈が抵抗する。望月が走る。立花は朝比奈を突き飛ばし、ホームへ向かって逃げた。彼の手には、黒いコートと白いマスクが握られている。
「次の二十二時十七分発に彼女を乗せる予定だったんです。あなたへの最高のアリバイとしてね」
「てめえ……!」
望月は雨の階段を駆け上がった。
立花は笑いながら、ホームの端へ走る。
「刑事さん、知っていますか。人間は電車より愚かだ。定刻通りに絶望する」
望月は追いつき、立花の肩を掴んだ。
二人は濡れた床に転がった。
立花は細身だったが、動きは速かった。肘が望月の頬をかすめる。望月の拳が立花の腹に入る。立花は苦しげに息を吐きながらも、笑みを消さない。
「殺しは芸術です。時刻表という神に、人間の死を合わせる。これ以上に美しいものがありますか」
「ある」
望月は立花の胸倉を掴んだ。
「助けることだ」
そのとき、ホームに接近音が鳴った。
ライトが雨を裂いて近づいてくる。
立花は望月の腕を振りほどき、線路側へ身を翻した。逃げるつもりではなかった。望月を巻き込むつもりだった。
「一緒に遅延しましょう、刑事さん」
望月の体が引っ張られる。
だが次の瞬間、非常ベルが鳴った。
駅員の山岸が、顔を真っ赤にして非常停止ボタンを押していた。
「ふざけんな! ここは人が死ぬ場所じゃない!」
電車は甲高い音を立てて減速した。
望月は全体重をかけて立花を引き戻し、ホームに叩きつけた。朝比奈が震える手で手錠を投げる。望月はそれを掴み、立花の手首にかけた。
立花は初めて笑わなかった。
「僕のダイヤが……」
望月は息を切らしながら言った。
「乱れたな」
倉庫の奥で、柏木悠人が発見された。
衰弱していたが、生きていた。
彼は望月の手を握り、泣きながら言った。
「立花くんに、本当のことを伝えたかったんです。ずっと。でも、お母さんに頼まれて……」
「本当のこと?」
柏木は震える声で話した。
十三年前の雨の夕方。
立花遼の妹、美玖は、草薙駅前で事故に遭った。
立花はずっと、富樫、尾崎、森下、柏木の四人が妹を見殺しにしたと思い込んでいた。古い証言に食い違いがあった。母親へ毎年送られていた匿名の金もあった。
立花はそれを、罪を隠すための口止め料だと思った。
だが違った。
富樫は駅から飛び出し、非常連絡をした。
尾崎は雨の中で膝をつき、救命処置をした。
森下はタクシーを道の真ん中に停め、後続車を止めた。
柏木は傘も差さず、救急車が来るまで叫び続けた。
四人は、妹を見殺しになどしていなかった。
むしろ最後まで救おうとした人たちだった。
そして証言が食い違った理由は、ただ一つ。
事故の直前、美玖の手を振りほどいたのは、兄の立花遼だった。
幼い喧嘩だった。悪意などなかった。美玖は泣きながら兄を追い、雨で足を滑らせた。
母親は、息子が壊れることを恐れた。
四人に頼んだ。
「あの子には言わないでください。あの子まで死んでしまう」
四人は黙った。
責められる覚悟で、沈黙した。
匿名の金は、罪の口止めではなかった。遺された家族を支えるための、不器用な祈りだった。
望月は留置室の立花に、その記録を見せた。
古い写真もあった。
小さな美玖が描いた絵。
電車と、兄と、自分。
隅に、丸い文字。
――りょうにいちゃん、IQまっくす。
立花の顔から血の気が引いた。
「嘘だ」
「嘘なら、どれだけよかったか」
望月は静かに言った。
「お前は妹の言葉を、殺人の署名にした。お前を守ろうとした人たちを殺した」
立花の唇が震えた。
彼は笑おうとした。いつものように、警察を、死者を、世界を見下す笑みを作ろうとした。
だが、できなかった。
「違う……僕は……僕は、美玖のために……」
望月は首を振った。
「違う。お前は自分の絶望を、誰かの命で埋めようとしただけだ」
立花は机に突っ伏した。
泣き声は出なかった。
ただ、空っぽの呼吸だけが、留置室に落ちた。
夜が明けた。
草薙駅のホームには、まだ雨の匂いが残っていた。非常停止の跡も、規制線の跡も、消えきってはいない。それでも駅員たちは改札を開け、乗客たちは鞄を抱え、始発を待っていた。
富樫の孫の蒼太が、望月の隣に立っていた。
「刑事さん」
「ん?」
「朝って、来るんですね」
望月は少しだけ笑った。
頬には昨夜の傷が残っている。拳にも包帯が巻かれている。守れなかった命の重さは、何ひとつ軽くならない。
それでも、柏木は生きていた。
朝比奈も生きていた。
山岸は駅に立ち、震えながらも乗客へ頭を下げていた。
「来るよ」
望月は言った。
「昨日を消すためじゃない。今日、誰かを置いていかないために来るんだ」
始発のライトが、線路の先に浮かんだ。
時刻表はまた一日を刻み始める。
むなしさも、絶望も、死者の沈黙も、消えはしない。
それでも草薙駅の空の端で、薄い金色の陽が昇った。





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