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草薙駅発、死体は次の列車に乗る

※作中のダイヤ・施設配置は創作上の演出です。

雨の夜、静岡鉄道草薙駅のホームに、発車ベルがいつもより長く響いた。

二十一時十三分発、新静岡行き。

白いライトを濡らした電車が滑るように動き出し、傘を畳んだ乗客たちが改札へ流れていく。その人波の最後尾で、駅員の山岸が妙なものを見つけた。

ベンチの下に、赤い紙片が挟まっていた。

拾い上げると、そこには子どものように丸い字で、だが背筋を冷やすほど冷静に、こう書かれていた。

――清水署へ。――二十一時十三分発に、犯人は乗っている。――時刻表は嘘をつかない。――MAX。

山岸が顔を上げた瞬間、駅裏の駐輪場から悲鳴が上がった。

倒れていたのは、元駅員の富樫昭彦。雨合羽の胸元は濡れていたが、雨だけではなかった。

清水署の刑事、望月烈が現場に着いたのは、十五分後だった。

「ふざけやがって……」

望月は紙片を握り潰しそうになった。四十二歳。熱血という言葉が時代遅れになっても、彼だけはまだ信じているような男だった。人が倒れたと聞けば走る。泣く子がいれば膝をつく。犯人が笑えば、奥歯を噛み砕く。

若い相棒の朝比奈澪が、冷静に防犯カメラの映像を見せた。

「望月さん。二十一時十三分、黒いコートの男が新静岡行きに乗っています。背格好は立花遼に一致します」

立花遼。

県内では少し知られた名だった。十代で数学オリンピックに出た天才。現在は交通アプリの開発者。鉄道ダイヤの解析で特許も持つ。自称ではない。周囲がそう呼んでいた。

IQ、MAX。

そして彼は、十三年前の草薙駅前事故で妹を失っていた。

望月は映像を睨んだ。

黒いコート。白いマスク。深く被った帽子。雨の中、男は一度もカメラへ顔を向けず、二十一時十三分発に乗った。

一方、富樫が襲われたとみられる時刻は二十一時十四分前後。

犯人が電車に乗っていたなら、殺せない。

「時刻表をアリバイに使いやがったか」

望月が吐き捨てると、背後から声がした。

「それを理解するのに十五分ですか。刑事さんは、各駅停車より遅い」

立花遼が、改札の外に立っていた。

細い体。整った顔。雨粒のついた眼鏡。口元には、笑み。

「俺は二十一時十三分発に乗っていました。乗客も、防犯カメラも、時刻表も、全部そう言っている」

望月は一歩踏み出した。

「人が死んでんだぞ」

「ええ。だから面白い」

その瞬間、望月の拳が動きかけた。朝比奈が袖を掴む。

立花は笑った。

「清水署の熱血刑事さん。暴力ではダイヤは変えられませんよ」

翌日の夜、二つ目の死体が出た。

被害者は尾崎奈緒。看護師。十三年前の草薙駅前事故で、救急処置をした人物だった。

場所は草薙駅から少し離れた細い路地。遺体のそばには、また赤い紙片。

――二十一時三十一分発。――犯人はまた乗っている。――猿は時刻表を読めない。――MAX。

防犯カメラには、再び黒いコートの男。

二十一時三十一分発、新清水行き。立花遼に似た男が乗り込む。尾崎奈緒が襲われた推定時刻は、その一分後。

立花はその夜も警察に姿を見せた。

「残念ですね。僕は電車の中でした」

望月は黙っていた。

怒りで動く男だが、怒りだけで刑事を続けてきたわけではない。彼は映像を何度も巻き戻した。

一度目の映像。

黒いコートの男は、改札を抜けるとき、左手首を一瞬だけ上げた。袖口から、緑色の小さなビーズが光った。

尾崎奈緒がいつも着けていたブレスレット。

二度目の映像。

黒いコートの男は、階段を上がるとき、右肩をかすかに持ち上げる癖があった。

三人目の関係者、タクシー運転手の森下准に同じ癖があった。昔の事故で肩を痛めていたのだ。

望月の背筋に、冷たいものが落ちた。

「朝比奈。違う」

「何がですか」

「電車に乗ってるのは立花じゃない」

朝比奈の目が細くなる。

「じゃあ、誰が?」

望月は映像の男を指差した。

「次に殺される人間だ」

三日目の夜、森下准が死んだ。

赤い紙片には、同じ言葉。

――二十一時四十九分発。――犯人は乗っていた。――次は終電までに終わる。――MAX。

二十一時四十九分発の防犯映像には、黒いコートの男が映っていた。

しかし望月には、もう見えていた。

その男は、左足をわずかに引きずっていた。

柏木悠人。

十三年前の事故当時、大学生だった男。現場近くで交通整理をし、救急車が来るまで雨の中で叫び続けたと記録に残っている。

まだ生きている。

だが、次に殺される。

望月は椅子を蹴って立ち上がった。

「草薙駅だ。立花は今夜、柏木を殺す」

朝比奈が端末を見た。

「立花の携帯位置情報は、静岡市外です」

「奴の携帯が乗ってるだけだ」

「証拠は?」

望月は赤い紙片を机に叩きつけた。

「犯人が証拠をくれてる。時刻表は嘘をつかない。だが、時刻表には“誰が乗ったか”までは書いてない」

草薙駅は、雨の中で息を潜めていた。

二十二時過ぎ。終電前の人波が薄くなる。濡れたホーム。白く曇る照明。改札機の電子音が、やけに遠く聞こえた。

望月と朝比奈は、駅裏の古い保守倉庫へ向かった。

その途中、朝比奈の携帯が鳴った。

非通知。

出た瞬間、スピーカーから立花の声が流れた。

「望月刑事。あなたの相棒は冷静でいい。だから、次の乗客に選びました」

望月が振り返った。

朝比奈の背後に、黒い影がいた。

一瞬だった。

朝比奈が抵抗する。望月が走る。立花は朝比奈を突き飛ばし、ホームへ向かって逃げた。彼の手には、黒いコートと白いマスクが握られている。

「次の二十二時十七分発に彼女を乗せる予定だったんです。あなたへの最高のアリバイとしてね」

「てめえ……!」

望月は雨の階段を駆け上がった。

立花は笑いながら、ホームの端へ走る。

「刑事さん、知っていますか。人間は電車より愚かだ。定刻通りに絶望する」

望月は追いつき、立花の肩を掴んだ。

二人は濡れた床に転がった。

立花は細身だったが、動きは速かった。肘が望月の頬をかすめる。望月の拳が立花の腹に入る。立花は苦しげに息を吐きながらも、笑みを消さない。

「殺しは芸術です。時刻表という神に、人間の死を合わせる。これ以上に美しいものがありますか」

「ある」

望月は立花の胸倉を掴んだ。

「助けることだ」

そのとき、ホームに接近音が鳴った。

ライトが雨を裂いて近づいてくる。

立花は望月の腕を振りほどき、線路側へ身を翻した。逃げるつもりではなかった。望月を巻き込むつもりだった。

「一緒に遅延しましょう、刑事さん」

望月の体が引っ張られる。

だが次の瞬間、非常ベルが鳴った。

駅員の山岸が、顔を真っ赤にして非常停止ボタンを押していた。

「ふざけんな! ここは人が死ぬ場所じゃない!」

電車は甲高い音を立てて減速した。

望月は全体重をかけて立花を引き戻し、ホームに叩きつけた。朝比奈が震える手で手錠を投げる。望月はそれを掴み、立花の手首にかけた。

立花は初めて笑わなかった。

「僕のダイヤが……」

望月は息を切らしながら言った。

「乱れたな」

倉庫の奥で、柏木悠人が発見された。

衰弱していたが、生きていた。

彼は望月の手を握り、泣きながら言った。

「立花くんに、本当のことを伝えたかったんです。ずっと。でも、お母さんに頼まれて……」

「本当のこと?」

柏木は震える声で話した。

十三年前の雨の夕方。

立花遼の妹、美玖は、草薙駅前で事故に遭った。

立花はずっと、富樫、尾崎、森下、柏木の四人が妹を見殺しにしたと思い込んでいた。古い証言に食い違いがあった。母親へ毎年送られていた匿名の金もあった。

立花はそれを、罪を隠すための口止め料だと思った。

だが違った。

富樫は駅から飛び出し、非常連絡をした。

尾崎は雨の中で膝をつき、救命処置をした。

森下はタクシーを道の真ん中に停め、後続車を止めた。

柏木は傘も差さず、救急車が来るまで叫び続けた。

四人は、妹を見殺しになどしていなかった。

むしろ最後まで救おうとした人たちだった。

そして証言が食い違った理由は、ただ一つ。

事故の直前、美玖の手を振りほどいたのは、兄の立花遼だった。

幼い喧嘩だった。悪意などなかった。美玖は泣きながら兄を追い、雨で足を滑らせた。

母親は、息子が壊れることを恐れた。

四人に頼んだ。

「あの子には言わないでください。あの子まで死んでしまう」

四人は黙った。

責められる覚悟で、沈黙した。

匿名の金は、罪の口止めではなかった。遺された家族を支えるための、不器用な祈りだった。

望月は留置室の立花に、その記録を見せた。

古い写真もあった。

小さな美玖が描いた絵。

電車と、兄と、自分。

隅に、丸い文字。

――りょうにいちゃん、IQまっくす。

立花の顔から血の気が引いた。

「嘘だ」

「嘘なら、どれだけよかったか」

望月は静かに言った。

「お前は妹の言葉を、殺人の署名にした。お前を守ろうとした人たちを殺した」

立花の唇が震えた。

彼は笑おうとした。いつものように、警察を、死者を、世界を見下す笑みを作ろうとした。

だが、できなかった。

「違う……僕は……僕は、美玖のために……」

望月は首を振った。

「違う。お前は自分の絶望を、誰かの命で埋めようとしただけだ」

立花は机に突っ伏した。

泣き声は出なかった。

ただ、空っぽの呼吸だけが、留置室に落ちた。

夜が明けた。

草薙駅のホームには、まだ雨の匂いが残っていた。非常停止の跡も、規制線の跡も、消えきってはいない。それでも駅員たちは改札を開け、乗客たちは鞄を抱え、始発を待っていた。

富樫の孫の蒼太が、望月の隣に立っていた。

「刑事さん」

「ん?」

「朝って、来るんですね」

望月は少しだけ笑った。

頬には昨夜の傷が残っている。拳にも包帯が巻かれている。守れなかった命の重さは、何ひとつ軽くならない。

それでも、柏木は生きていた。

朝比奈も生きていた。

山岸は駅に立ち、震えながらも乗客へ頭を下げていた。

「来るよ」

望月は言った。

「昨日を消すためじゃない。今日、誰かを置いていかないために来るんだ」

始発のライトが、線路の先に浮かんだ。

時刻表はまた一日を刻み始める。

むなしさも、絶望も、死者の沈黙も、消えはしない。

それでも草薙駅の空の端で、薄い金色の陽が昇った。

 
 
 

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