top of page

草薙黒電話相談所

〜死んだひいばあちゃんと若いお母さん、ついでに営業許可もお願いします〜

 2040年の静岡市清水区草薙は、思ったより未来で、思ったより昔だった。

 草薙駅前には無人バスが音もなく滑り込み、宅配ドローンがみかん色の尾翼を光らせて空を横切る。市役所の窓口は半分がAIになり、住民票はまばたき三回で取れる時代だ。

 なのに、駅から少し歩いた路地裏にある山崎行政書士事務所だけは、平成の終わりで時間が止まっていた。

 入口には、色あせた青い看板。

『相続・許認可・内容証明・困ったら山崎へ』

 その下には、なぜか手書きの貼り紙。

『FAXあります』

 2040年において、FAXがあることを誇る事務所は、たぶん文化財か意地っ張りである。

 山崎湊は、三十四歳の行政書士だった。

 祖母の代から続く事務所を継いで三年。スーツは着ているが、足元は健康サンダル。机の上には電子認証端末、隣には平成レトロ雑貨として買ったスケルトンカラーのペン立て。壁には「がんばれ自分」と書かれた謎の色紙。棚にはMDコンポ、カセットデッキ、ガラケー、そして、丸っこいブラウン管テレビ型の空気清浄機。

 それらを見て、近所の八百屋の佐野さんはいつも言う。

「湊くんとこ、未来に負けてるんじゃなくて、未来を拒否してるよね」

「拒否じゃありません。温故知新です」

「その言葉、負けてる人ほど言うんだよ」

 その日、湊は新しい“温故知新”を事務所に運び込んでいた。

 黒電話である。

 丸いダイヤル式の、昭和の怪獣みたいな電話。リサイクルショップの隅で「インテリアにどうぞ 通話不可」と書かれて千円だった。

 湊はそれを応接テーブルの真ん中に置いた。

「よし。これで事務所のレトロ感、完成だな」

 天井に投影されている事務所AIのサクラが、無表情な女性の声で言った。

「山崎先生。レトロ感は完成しましたが、今月の売上は未完成です」

「サクラ、そういうことは昼過ぎに言って」

「昼過ぎには支払いリマインドもあります」

「朝から現実を突きつけるAI、嫌いだなあ」

 湊は黒電話の受話器を持ち上げた。ずしりと重い。

「もしもし、こちら山崎行政書士事務所でーす。相続も許認可も、愛と根性で——」

 その瞬間。

 チリリリリリリリリン。

 黒電話が鳴った。

 湊は固まった。

 サクラも一秒沈黙した。

「山崎先生。その電話機は回線未接続です」

「分かってるよ。分かってるから怖いんだよ」

 チリリリリリリリリン。

 古いベルの音が、事務所の空気を震わせる。FAX機が怯えたように一枚紙を吐いた。白紙だった。

 湊は恐る恐る受話器を取った。

「も、もしもし……山崎行政書士事務所です……」

『もしもし。山崎の家かね』

 しわがれた女の声だった。

 湊は首筋に冷たいものを感じた。けれど、その声には妙な懐かしさがあった。仏壇の前で聞いた古い録音みたいな、味噌汁の湯気みたいな声。

「どちらさまでしょうか」

『わたしゃ山崎ハルだよ。あんた、誰だい』

 湊は受話器を落としかけた。

 山崎ハル。

 湊のひいおばあちゃんである。

 昭和生まれで、駄菓子屋をやっていて、口が悪くて情が深くて、湊が小学生のころに亡くなった。

「ひ、ひいばあちゃん?」

『なんだい、その“ひい”ってのは。わたしゃまだ六十二だよ。腰は痛いけど死んじゃいない』

「死んでるよ!」

『朝から縁起でもないこと言うんじゃないよ!』

「いや、こっちでは死んでるんだよ!」

『こっちでは生きてるんだよ! どっちが正しいかは、味噌汁が冷める前に決めな』

 湊は応接椅子に座り込んだ。

「サクラ、録音してる?」

「はい。ただし内容は民法では説明できません」

 受話器の向こうで、ハルが「ああ、また混線かね」と呟いた。

「また?」

『黒電話ってのはね、ときどき、言いそびれた“もしもし”が詰まるんだよ』

「そんなポエムみたいな通信規格あります?」

『昭和には何でもあったんだよ。根性とか、紙の保証書とか、賞味期限の薄い意識とか』

 湊は震えながらも、ちょっと笑ってしまった。確かにひいおばあちゃんは、こんな人だった。

『ところで、あんた行政書士なのかい』

「はい。山崎湊。ハルばあちゃんのひ孫です」

『ひ孫が先生かい。えらいねえ。じゃあ聞きな。書類ってのは、人を縛る紙じゃない。人をほどく紙だよ』

「……急にいいこと言う」

『あと、客には茶を出せ。茶を出さない士業は、だいたい話が長い』

「それは偏見では」

『真理だよ』

 そこで、事務所の自動ドアがガタガタ鳴った。未来の自動ドアなのに、山崎事務所のものだけは手動より機嫌が悪い。

「すみませーん、山崎先生います?」

 入ってきたのは、近所の総菜屋「くさなぎ揚げもの堂」の娘、榊原ルミだった。三十代半ば、髪を後ろで束ね、片手にタブレット、片手に大きな紙袋を持っている。

「ルミさん、どうしました」

「相談です。あと差し入れ。昭和コロッケと平成チーズハムカツ」

「令和は?」

「値上がりしたので省きました」

 湊は受話器を握ったまま固まっていた。

 ルミが黒電話を見た。

「え、かわいい。平成レトロ?」

「昭和です」

「昭和って平成より古い平成ですよね」

 受話器の向こうでハルが怒鳴った。

『聞こえてるよ! 昭和は昭和だ! 平成の先輩みたいに言うんじゃない!』

 ルミは目を丸くした。

「え、この黒電話、喋った?」

「ちょっと事情がありまして」

「山崎先生の事務所、ついに霊感商法まで?」

「違います。むしろ霊感に営業妨害されてます」

 ルミの相談は、思ったより重かった。

 彼女の母、サチ子が、空き家になっていた古い食堂を使って、地域食堂を始めたいという。昼は高齢者向けの定食、夕方は子どもたちに無料カレー。さらに夜は「平成レトロ喫茶」として、プリクラ風写真ブース、MD音源、ガラケー展示、謎に甘いメロンソーダを出す予定らしい。

 名前は「もしもし食堂くさなぎ」。

「いい名前ですね」

「お母さんがつけました。電話予約も受けるって言い張ってます。AI予約だと味気ないって」

「それで、必要なのは営業許可と、地域食堂の届出と、建物使用関係の整理ですね」

「そうなんですけど……問題があって」

 ルミはタブレットを差し出した。古い建物の登記情報と、家族関係図が表示されている。

 建物の名義が、亡くなった祖母キヨのままになっていた。相続人はサチ子と、その弟の勝男。ところが勝男は三十年前に家を出て以来、ほとんど連絡を取っていない。

「おじさん、反対してるんです。『あの店は売れば金になる』って。母は『おばあちゃんは地域のために使ってほしいと言ってた』って。でも証拠がなくて」

 湊はうなずいた。

「争いになるなら、弁護士さんの出番です。うちでできるのは、相続人の調査、必要書類の整理、話し合いのための資料作成、合意できた場合の遺産分割協議書の作成。それと営業許可関係ですね」

「分かってます。でも、母が泣いちゃって。『あの店を閉めたら、おばあちゃんが二度死ぬ』って」

 事務所が静かになった。

 黒電話の向こうで、ハルが小さく言った。

『店ってのはね、戸が閉まっても、誰かが覚えてりゃ残るんだよ』

 ルミは受話器を見た。

「この電話の人、誰ですか」

「死んだひいおばあちゃんです」

「山崎先生、疲れてます?」

「自覚はあります」

 湊は深呼吸した。

「まずは勝男さんに連絡を取りましょう。感情の話と、法律の話を分けます。それから、おばあさんが地域食堂を望んでいたという手がかりがないか探しましょう。手紙、日記、録音、何でも」

「古いものなら、母が段ボールごと持ってきてます」

 ルミは紙袋を持ち上げた。

 中には、平成の匂いが詰まっていた。

 色あせた写真。スーパーのレシート。ポイントカード。カセットテープ。プリクラ帳。手書きの献立ノート。表紙に丸文字で「キヨちゃん食堂 ひみつノート」と書かれている。

 サクラが言った。

「紙媒体の量が多すぎます。スキャンを推奨します」

 ハルが言った。

『紙は手でめくるんだよ。手の油で記憶が起きるんだ』

 AIと幽霊の意見が割れた。

 湊は両方を採用した。サクラにスキャンさせつつ、自分でノートをめくる。

 そこには、食堂の献立だけでなく、近所の人たちの名前が書かれていた。

『佐野さん 奥さん入院 塩分ひかえめ』

『山崎まどかちゃん 試験勉強中 夜食おにぎり二個』

『勝男 また怒って帰る でもコロッケ三つ食べた』

 湊の指が止まった。

「山崎まどか……」

 それは湊の母の名前だった。

 山崎まどか。かつて、この事務所を切り盛りしていた行政書士で、湊にとっては、世界で一番近くて、世界で一番電話しづらい人。

 三年前、湊が事務所を継いだとき、母は言った。

「これからの行政書士は、AIと組む時代よ。レトロ趣味だけじゃやっていけない」

 湊は言い返した。

「母さんこそ、効率ばっかりだ。人の話を聞く仕事だろ」

 そこから、親子の会話は必要最低限になった。

 たまに母から送られてくるメッセージは、いつも短い。

『確定申告、忘れないで』

『戸籍請求、委任状確認』

『観葉植物に水』

 愛情なのか業務連絡なのか、2040年のAIでも判定不能だった。

 湊がノートを見つめていると、黒電話がまた鳴った。

 チリリリリリリリリン。

 今度はルミもサクラも黙った。

 湊は受話器を取った。

「もしもし」

『はい、山崎です』

 若い女の声だった。

 明るくて、少し尖っていて、でも語尾に聞き覚えがある。

 湊の心臓が、変な跳ね方をした。

「……お母さん?」

『は? 誰がお母さんよ。あたし、まだ二十四なんだけど』

 湊は口を開けたまま、声を失った。

 サクラが冷静に言った。

「音声照合。山崎まどか氏、若年時の声紋と一致する確率九十八パーセント」

 ルミが小声で言った。

「先生、お母さん、声若い……」

 湊は受話器を握りしめた。

「もしもし、お母さん、声若い……」

『だから誰がお母さんよ! 変質者? それとも新手の勧誘? うち浄水器はもうあります!』

「違う、俺、湊」

『みなと?』

「山崎湊。あなたの息子です」

 沈黙。

 電話の向こうで、遠くからテレビの音が聞こえた。古いバラエティ番組の笑い声。台所で鍋が鳴る音。平成の生活音だった。

『……あたし、まだ結婚もしてないんだけど』

「でしょうね」

『でも、子どもができたら、湊って名前にしたいとは思ってる』

 湊は息を止めた。

『海に出る前の川みたいに、いろんなものを受け止めて、それでも流れていける子になるように』

 湊は、初めて自分の名前の理由を知った。

 母はそんな話を一度もしてくれなかった。いや、もしかしたら、してくれようとしたことがあったのかもしれない。そのとき自分が、スマホを見ていただけかもしれない。

「お母さん……じゃなくて、まどかさん。今、どこにいる?」

『山崎事務所。試験勉強中。行政書士になるんだ。お母ちゃんみたいに』

「ハルばあちゃんもいる?」

『台所で文句言ってる。今も“茶を出せない士業は話が長い”って』

 湊は笑ってしまった。

 まどかの声が少し柔らかくなった。

『未来の息子ってことはさ、あたし、ちゃんとお母さんになれてる?』

 湊は答えに詰まった。

 母は厳しかった。書類のミスには容赦がなかった。弁当には毎回、謎の応援メモが入っていた。高校の三者面談では「この子は本番に弱いけど、逃げるほど弱くはありません」と言った。事務所を継ぐと言ったとき、泣かずに「じゃあ責任を持ちなさい」とだけ言った。

 ちゃんと、とは何だろう。

 湊は小さく言った。

「なれてるよ。すごく。ちょっと口うるさいけど」

『それは今もだね』

「あと、業務連絡みたいな愛情表現をする」

『うわ、やりそう』

「でも、俺が熱を出したときは、夜中に市役所の締切より真剣な顔で看病してくれた」

『締切より真剣って、相当だね』

「うん。だから……大丈夫。あなたは、ちゃんとお母さんになる」

 電話の向こうで、まどかが鼻をすすった。

『そっか。よかった。実はさ、怖いんだよね。仕事も、家も、将来も。行政書士って、人の人生の紙を預かるでしょ。失敗したらどうしようって』

「失敗するよ」

『未来の息子、そこは励まして』

「でも、そのたびに直す。謝る。調べる。人に頼る。そうやって続ける。俺は今、それをお母さんから学んでる」

『あたしから?』

「うん。なのに俺、最近、あんまり電話してなかった」

『しなよ。お母さんには電話しな。用がなくても』

「用がないと、かけづらい」

『じゃあ“観葉植物に水やった?”って聞けばいいじゃん』

 湊は笑った。

 その瞬間、まどかが「あ」と声を上げた。

『そうだ。あんた未来の人なら、ちょっと聞いて。キヨちゃん食堂って、まだある?』

 湊はルミを見た。ルミも身を乗り出す。

「今、そのことで相談を受けてる。建物の相続で困ってるんだ」

『キヨさん、よく言ってたよ。“この店は、腹を空かせた人に残す”って。あたし、それを紙にした』

「紙に?」

『うん。正式な遺言じゃないけど、気持ちを書いた確認書みたいなもの。勝男くんもサチ子ちゃんも、キヨさんの前で読んだ。勝男くん、泣きながらハンコ押してたよ。たぶん照れ隠しで怒るだろうけど』

 ルミが息をのんだ。

「それ、どこにありますか?」

 湊が聞くと、若いまどかは少し考えた。

『事務所の奥の棚。MDコンポの箱の中。表に“平成ベスト 触るな危険”って書いた箱』

 湊は振り返った。

 事務所の奥に、まさにその箱があった。

 母が残していった古い箱。湊はずっと、平成の音楽CDだと思って開けていなかった。何なら「触るな危険」と書かれていたので、本当に危険なのかと思っていた。

 受話器の向こうで、まどかが言った。

『ねえ、湊』

「何?」

『未来のあたし、笑ってる?』

 湊は答えられなかった。

 ここ最近の母の顔を思い出す。眉間にしわ。短いメッセージ。ぎこちない会話。

 でも、昔はよく笑っていた。湊が書類に落書きして怒られた後、こっそりその落書きをファイルに挟んでいた。カレーを作りすぎて三日連続カレーになり、「行政書士は継続力」と言い張っていた。

「笑わせるよ。これから」

『そっか。じゃあ頼んだ』

 ぷつん、と電話が切れた。

 湊はしばらく受話器を持ったまま立っていた。

 ルミがそっと言った。

「先生、箱」

「あ、はい」

 湊は奥の棚から段ボール箱を引っ張り出した。

 表には、丸文字で書かれていた。

『平成ベスト 触るな危険』

 下に小さく、

『まどかの黒歴史あり』

 とあった。

「これは危険だ」

 ルミが目を輝かせた。

「黒歴史見たいです」

「依頼人の前で行政書士の尊厳を守らせてください」

 箱を開けると、中にはMD、プリクラ、古い試験ノート、そして茶封筒が入っていた。

 封筒には、

『キヨちゃん食堂のこと』

 と書かれていた。

 中身は、キヨの手書きの手紙と、サチ子、勝男、まどかが立会人として署名した確認書だった。

『この店は、困った人がお腹いっぱいになる場所として残したい』

『売るか残すかで迷ったときは、まず一度、ここでみんなでご飯を食べること』

『空腹で決めた話は、だいたいケンカになる』

 ルミは手紙を読んで泣いた。

 湊は泣かなかった。行政書士なので、涙で書類を濡らすわけにはいかない。ただ、鼻の奥が平成のメロンソーダみたいにツンとした。

 その日の午後、湊は勝男に連絡を取った。

 画面越しの勝男は、しかめっ面の七十代だった。

『どうせ姉貴が泣き落としを頼んだんだろ』

「いいえ。今日は書類の確認と、事実関係の整理です。話し合いが難しければ、弁護士さんをご紹介します」

『堅いねえ』

「行政書士ですので。あと、キヨさんの手紙が見つかりました」

 勝男の表情が変わった。

 湊は手紙を画面に映した。

 勝男は最初、腕を組んでいた。次に、眉間のしわがほどけた。最後には、画面の向こうで顔をそむけた。

『……そんなもん、残してたのか』

「はい」

『俺はな、あの店が嫌いだったんじゃない。あの店にいると、いつまでも子どもみたいに扱われるのが嫌だったんだ』

「キヨさんは、勝男さんのことをよく書いていました」

『悪口だろ』

「“勝男、コロッケ三つ。怒っていても食欲あり。生きる力あり”」

 勝男は吹き出した。

『なんだよ、それ』

「いい観察です」

『母ちゃんらしいな』

 湊は言った。

「キヨさんの手紙には、“迷ったら一度みんなでご飯を食べること”とあります。売るか残すか、最終判断の前に、草薙で一度集まりませんか」

 勝男は黙った。

 そして、ぼそりと言った。

『コロッケ、まだ作れるのか』

 湊はルミを見た。

 ルミは泣きながら親指を立てた。

「作れます。三つでも四つでも」

『じゃあ行く』

 それから一週間、山崎行政書士事務所は大忙しになった。

 湊は相続関係の資料を整理し、サクラは古い紙を電子化し、ルミは食堂の開業準備を進めた。勝男とサチ子は、最初はぎこちなかったが、コロッケを食べたあたりから少しずつ昔話を始めた。

 サチ子が言った。

「お母ちゃん、勝男だけコロッケ大きくしてたよね」

 勝男が言った。

「姉ちゃんのは焦げてても文句言わなかったからだろ」

「文句言ってたわよ」

「心の中でだろ」

「口に出してたわよ」

 ケンカのようで、会話だった。

 湊はその横で、必要な確認事項を丁寧にまとめた。売却ではなく、建物を地域食堂として活用する方向で合意が整い、手続きは進んだ。

 もちろん、現実は手紙一枚で全部が解決するほど単純ではない。権利関係の確認、税金の相談、許認可、改修基準、食品衛生、近隣説明。必要な専門家にもつなぎ、湊は何度も書類を作り直した。

 それでも不思議なことに、面倒な書類の山が、少しずつ人の気持ちをほどいていった。

 ハルの言葉どおりだった。

 書類は、人を縛る紙じゃない。

 人をほどく紙にもなる。

 開店前夜、湊は事務所で一人、最後のチェックをしていた。

 黒電話は静かだった。

 湊はスマート端末を取り出し、母の連絡先を開いた。

 何度も指を止めた。

 用件はない。

 いや、ある。

 観葉植物に水をやったか聞けばいい。

 湊は通話ボタンを押した。

『はい、山崎です』

 今度は、2040年の母の声だった。

 若くはない。けれど、聞き慣れた声。少し疲れていて、少し強くて、湊の人生の土台みたいな声。

「もしもし、お母さん」

『何? 事務所で火事?』

「違うよ」

『じゃあ申請ミス?』

「違う」

『まさか結婚?』

「いきなり話を飛ばさないで」

『じゃあ何』

 湊は笑った。

「観葉植物に水、やった?」

 電話の向こうが静かになった。

 それから、母が小さく笑った。

『それ、私が聞く台詞でしょ』

「今日は俺が聞く」

『やったわよ。あなたこそ、ちゃんとご飯食べてる?』

「食べてる。昭和コロッケと平成チーズハムカツ」

『令和は?』

「値上がりした」

『でしょうね』

 沈黙があった。

 でも、嫌な沈黙ではなかった。

 湊は言った。

「お母さん。キヨちゃん食堂の書類、見つけたよ。MDコンポの箱」

『……あれ、開けたの?』

「うん」

『黒歴史も?』

「プリクラは見ました」

『燃やしなさい』

「行政書士として証拠保全します」

『親不孝者』

 二人は笑った。

 湊は少しだけ真面目な声で言った。

「お母さん、俺、事務所を博物館にしたいわけじゃないんだ」

『分かってる』

「でも、古いものを捨てたくない。古い書類とか、古い電話とか、古い言葉とか。そういうものの中に、まだ誰かが言えなかった“もしもし”が残ってる気がする」

 母は黙って聞いていた。

「だから、AIも使う。新しい手続きも覚える。でも、お茶も出す。紙もめくる。人の話も聞く。そういう事務所にしたい」

 母の声が、少し震えた。

『いいじゃない』

「いい?」

『いい。かなり面倒くさいけど、山崎らしい』

「褒めてる?」

『八割くらい』

「残り二割は?」

『経営が心配』

「そこは本当に心配」

 母はまた笑った。

『今度、事務所に行くわ。サクラの設定も見直したいし』

「俺に会いに来るんじゃないの?」

『ついでに』

「業務連絡みたいな愛情表現、相変わらずだね」

『何それ』

「俺の好きなお母さんの癖」

 電話の向こうで、母が何か言いかけて、やめた。

 そして、短く言った。

『湊』

「うん」

『ちゃんとやってるね』

 それだけで、湊は十分だった。

 翌日、「もしもし食堂くさなぎ」は無事に開店した。

 入口には、古い黒電話の絵が描かれた看板。

『お腹がすいたら、もしもしどうぞ』

 店内には、昭和のちゃぶ台、平成のCDラジカセ、令和の写真フレーム、2040年式の配膳ロボが並んでいた。ロボはときどき「ドウゾ、ナツカシイミライデス」と言い、子どもたちに大人気だった。

 勝男はコロッケを三つ食べた。

 サチ子は「四つ目は血圧に悪い」と止めた。

 ルミはメロンソーダを運びながら泣いたり笑ったりしていた。

 山崎まどかも来た。

 湊の母は、事務所にいた頃と同じように背筋を伸ばし、食堂を見回して言った。

「いい場所ね」

「でしょ」

「でも、厨房の許可表示、少し曲がってる」

「第一声それ?」

「愛情表現よ」

 そのとき、食堂の隅に置かれていた黒電話が鳴った。

 チリリリリリリリリン。

 湊とまどかは顔を見合わせた。

 ルミが叫んだ。

「先生、電話!」

 勝男が言った。

「予約か?」

 サチ子が言った。

「AI予約じゃないなんて、粋だねえ」

 湊は受話器を取った。

「もしもし。こちら、もしもし食堂くさなぎです」

『湊かい』

 ハルの声だった。

『ちゃんと茶は出してるかい』

「出してるよ。メロンソーダも」

『あんな緑の甘い水、茶じゃないよ』

「平成では茶みたいなものだよ」

『平成を雑に使うんじゃない』

 湊は笑った。

「ひいばあちゃん、食堂、開いたよ」

『そうかい。腹空かせた人は来てるかい』

「来てる。お腹も、心も、ちょっと空いてた人たちが」

『なら上等だ』

 電話の向こうで、ハルが満足そうに息をついた。

『書類はできたかい』

「できた」

『人はほどけたかい』

「少しずつ」

『じゃあ、あんたはいい先生だ』

 湊は何も言えなくなった。

 ハルは続けた。

『いいかい、湊。時代なんてのは、電話の線みたいなもんだよ。こんがらがって、古くなって、たまに切れる。でも誰かが“もしもし”って言えば、またつながることもある』

「うん」

『だから、用がなくても電話しな。生きてる人には、特にね』

「分かった」

『あと、勝男に言っときな。コロッケ四つ目はやめとけ。あの子は昔から調子に乗る』

 湊が笑って振り返ると、勝男がまさに四つ目のコロッケに手を伸ばしていた。

「勝男さん、ハルばあちゃんが四つ目はやめろって」

 勝男は固まった。

「誰だよハルばあちゃん」

「昭和方面からの健康指導です」

「怖いな!」

 店中が笑った。

 黒電話の向こうで、ハルも笑っていた。

 それは、昭和の笑い声で、平成の懐かしさで、2040年の草薙にちゃんと届く、あたたかい音だった。

 やがて電話は切れた。

 湊は受話器を置いた。

 母が隣で言った。

「ねえ、その黒電話、本当にどこで買ったの?」

「リサイクルショップ。千円」

「安すぎるわね」

「保証書なし」

「でしょうね」

 食堂の窓から、草薙の夕方が見えた。

 無人バスが通り、ドローンが空を飛び、子どもたちがメロンソーダの泡を笑い、高齢者がコロッケの味に昔話を始める。

 未来は、思ったより未来で。

 でも、人の寂しさや、意地や、優しさは、思ったより昔から変わらない。

 湊は母に言った。

「今度、事務所にも黒電話置くよ」

「もう置いてるでしょ」

「二台目」

「何に使うの」

「一台は昭和用。一台は平成用」

「令和は?」

「スマホでいいかな」

「2040年は?」

 湊は少し考えて、笑った。

「直接、会いに来てもらう」

 母は呆れたように笑った。

 その笑顔は、電話の向こうの若いまどかと少しだけ重なっていた。

 湊は思った。

 ああ、ちゃんと笑わせられた。

 そのとき、黒電話がまた小さく鳴った。

 チリリン。

 湊が受話器を取ると、知らない子どもの声がした。

『もしもし。そちら、山崎行政書士事務所ですか?』

「はい。どちらさま?」

『えっと、2088年の山崎です。ひいおじいちゃん、相続のことで相談が——』

 湊は静かに受話器を置いた。

 母が聞いた。

「誰?」

「未来から」

「内容は?」

「相続」

 母は深くうなずいた。

「山崎家、仕事熱心ね」

 湊は黒電話を見つめた。

 そして、食堂いっぱいに聞こえる声で言った。

「本日の受付は終了しました! 未来の相続も、営業時間内にお願いします!」

 店中がまた笑った。

 草薙の夕焼けは、少しだけメロンソーダ色に光っていた。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page