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蒲原の浜の銀いろの網

 夜明けまえの蒲原の浜辺は、まだ星の名残りを持っていました。 駿河湾の水は鉄のように暗く、ただ波のへりだけが、うすい燐光みたいに白くひかって、ザザン、ザザン、と静かに息をしていました。

 薩埵の峠のほうは、まだ影の色で、富士はその向こうに、まるで黒い大きな紙の切り抜きのように立っていました。 けれども、東の空がほんの少し、桃色にふくらみはじめると、富士の肩の線が、ちいさく息をついたように見えました。

 幹夫少年は、草履を手に持って裸足で砂を踏みしめ、浜へおりてきました。 砂は夜の冷たさをまだ残していて、足の指のあいだへさらさら流れこみました。 その冷たさが、幹夫には、いつも「これから始まる」という合図のように思えたのです。

 浜には、もう大人たちが集まっていました。 男の人も、女の人も、少年のすこし年上の兄さんたちも、みんな薄暗い中で、声をひそめながら動いていました。 地曳網が、砂の上に大きく畳まれて、まるで眠っている海の獣みたいに横たわっていました。 網についた細い麻のにおいと、塩と、昨日の海藻のにおいが、冷えた空気の中で混ざり合い、幹夫の胸へまっすぐ入ってきました。

 網の両側には、太い綱がのびていました。 それは砂の上で、白い二匹の蛇が長く長く尾を引いているようでした。 幹夫は、その綱のそばへ行くと、思わず手をのばしました。

 すると――

 (おい、ちいさい手。こっちへおいで。)

 綱が、そう言ったような気がしました。 もちろん綱がしゃべるはずはありません。 けれど幹夫には、綱が「海の向こうから来た道」みたいに思えて、どうしても声があるように感じられたのです。

 大人の一人が、浜の沖を見て、短く叫びました。 「そろそろだぞ。」

 沖では、小さな舟が黒い影になって、ゆっくり網を広げているところでした。 浮きが、ぽつぽつと海に並び、波に持ち上げられては、また沈みました。 その浮きの列が、幹夫には、夜の星座が海へ落ちた跡のように見えました。

 やがて舟が戻り、浜の空気がいっせいに変わりました。 大人たちは綱の端に並び、肩に力を入れ、足を砂に踏み込みました。 幹夫も、いちばん端っこで綱をつかみました。小さな手のひらはすぐに綱のざらざらを覚え、塩の結晶が指の皮にひっかかりました。

 「声を合わせてな。ヨイサ、で引け。」

 「ヨイサァ!」

 掛け声が浜を走りました。 綱が、ぎゅうっ、と鳴りました。 砂が、ずずっ、とすべりました。 海が、ふっと、こちらへ引かれる気配を見せました。

 幹夫は、胸の奥が熱くなるのを感じました。 自分の力は小さいけれど、それでもこの綱のどこかにつながっていて、沖の網の、その向こうの海の底の、もっと向こうの見えない世界まで、少しずつ動かしている――そんな気がしたのです。

 (いま、ぼくらは海のふちを引っぱっている。) 幹夫は、そう思いました。 (海のふちは、きっと銀河のふちと似ている。見えないけれど、確かにある。)

 波が寄せてきて、綱のそばまで白い泡を運び、泡は綱に触れるとすぐ砕けて消えました。 泡は一粒一粒、白い小さな星でした。 その星が消えるたびに、幹夫の胸の中で、なぜだか鈴の音が鳴るようでした。

 引いて、引いて、また引きました。 掛け声は、だんだん歌みたいになっていきます。 ヨイサ、ヨイサ、エンヤコラ。 声が重なると、浜そのものが大きな太鼓になったように、砂と波と風がひとつのリズムで動きだしました。

 幹夫の手のひらは、じんじん熱くなりました。 綱が擦れて、皮が少し痛みました。 けれどその痛みは、いやな痛みではありませんでした。 「ちゃんとここにいる」ことを教えてくれる、まっすぐな痛みでした。

 やがて沖のほうで、水がざわり、と色を変えました。 浮きの列が、急に近づいたのです。 海の表面に、銀色の光がちらちら走りました。

 「来たぞ!」 誰かが叫びました。

 幹夫は、思わず息を止めました。 網が近づくとき、海はいつも少しだけ「顔」を見せるのです。 いつもは平気なふりをしている海が、ほんの一瞬、心の中をこぼすみたいに。

 浮きが浜近くまで来て、波が白く立ち、網の端が見えました。 網は水を抱え、重く、黒く、ひきずられながら寄ってきます。 そして次の瞬間――

 銀いろの魚の群れが、網の中でいっせいに光りました。

 それは、いわしでした。 小さな体が、朝の光を受けて、ぱっと星屑のように散りました。 ぴちぴち、ぴちぴち。 音が浜に降り、砂がそれを吸い込み、また吐き出しました。

 幹夫は、目が離せませんでした。 魚の目は、ただ黒いのではありませんでした。 黒の奥に、海の深さが入っていました。 その深さは、夜明けの空の色とどこか似ていて、幹夫は、胸が少し苦しくなりました。

 網が砂の上へあがり、大人たちは手早く魚を寄せ、木箱や籠を並べはじめました。 その動きはきびきびして、まるでこの浜の昔からの“決まり”が、みんなの腕に入りこんでいるようでした。

 けれど幹夫は、その“決まり”のすぐとなりに、もう一つ別のものがあるのを感じました。 それは魚たちの息でした。 海の外へ出た息は、短く、急で、きらきらしていました。

 網の中には、いわしだけではありませんでした。 小さなアジが混じり、透明なエビが跳ね、赤い小さなカニが怒ったように鋏を振り上げていました。 ぬるりとした海藻が、魚の銀を絡めとるように揺れました。 その海藻の間から、クラゲが一つ、ふわりと見えました。 クラゲは、海のゼリーの心臓のように、静かに脈を打っていました。

 幹夫は、砂の上へ落ちた小さな魚を見つけました。 手のひらほどもない、細い細い魚です。 体はまだ青みが強く、ひれが硝子みたいに透けていました。 魚は口をぱくぱくさせていました。

 幹夫は、胸の奥が、きゅうっとなりました。 うれしい、という気持ちと、かなしい、という気持ちが、同時に来たのです。 海からの贈り物の眩しさと、贈り物が息をしていることの切なさが、一つのところでぶつかったのです。

 幹夫は、そっとその魚を手にとりました。 魚の体は冷たく、ぬめりがあり、指先に海の匂いがつきました。 魚の心臓は、とても小さく、けれど確かに、トクトク、と打っていました。

 (きみは、どこを泳いできたの。) 幹夫は心の中でたずねました。

 魚は答えません。 けれど、幹夫の手の中で、尾がほんの少し動きました。 その動きは、「海のほうを見て」と言っているようでした。

 幹夫は、魚を持ったまま、波打ち際へ走りました。 大人に叱られるかもしれないと思いました。 でも、そのときの幹夫には、叱られることより、魚の息のほうが大きかったのです。

 波が来て、足首をひやりと撫でました。 幹夫はしゃがんで、魚を海へ戻しました。

 魚は、最初は砂の上で少しだけ迷い、つぎの瞬間、すうっと水へ溶けました。 尾がひと振り、銀がひと閃き。 それだけでした。

 けれど、その一閃のあと、波がもう一度寄せてきて、幹夫の手の甲に泡を一つ残しました。 泡はすぐに消えました。 消えながら、(わかったよ)と囁いた気がしました。

 幹夫は、胸の奥に、あたたかいものが増えたのを感じました。 魚を全部救えるわけではありません。 海の仕事は、浜の暮らしは、網の重みは、幹夫にもわかります。 それでも、いまこの一匹が戻ったことは、何かの“つじつま”を、静かに整えたように思えたのです。

 振り返ると、浜は忙しく動いていました。 籠は銀で満ち、笑い声が飛び、時々「こっちだ」「気をつけろ」と短い声が切れました。 朝日がすでに海の上へ出て、魚のうろこを一枚一枚、火の粉のように光らせました。

 その光の中で、幹夫はふいに、網が“空の道具”に見えました。 網目は星座の線で、浮きは星の粒で、綱は天の川の両岸のようでした。 人がそれを引くと、海という暗い宇宙から、銀の星がいっせいにこぼれ出る―― そんなふうに見えたのです。

 浜の端で、年寄りの漁師が、幹夫の手をちらりと見ました。 幹夫の手のひらは少し赤く、塩と砂がついていました。

 「痛ぇか。」 年寄りは、ぶっきらぼうに言いました。

 幹夫は、首を横に振りました。 痛いのに、痛くない、と言いたかったのです。 痛いのは、海とつながったしるしで、きっと大事な痛みだと思ったのです。

 年寄りは、ふん、と鼻を鳴らし、それから、海のほうを見ながら小さく言いました。 「海のもんは、海に返すときゃ返せ。ちいせえのは、潮が育てる。」

 幹夫は、その言葉が胸へ落ちるのを感じました。 それは叱りでも命令でもなく、海の作法のひとかけらでした。 作法は、あたたかい。 作法は、こわい。 作法は、ずっと昔からここにある。

 魚があらかた運ばれると、網は砂の上で少し軽くなり、ぐったり横たわりました。 網は、まるで大きな生きものが仕事を終えて眠るようでした。 綱は、朝日に照らされて白く、長く、どこまでも伸びました。

 幹夫は、綱の端に触れました。 綱はもう何も言いません。 けれど幹夫には、綱の中に、さっきの掛け声や、砂の音や、魚の光や、海の息が、ぜんぶ編みこまれているように感じられました。 綱は、ただの綱ではなく、浜の記憶の束でした。

 朝がすっかり明るくなると、蒲原の町のほうから、味噌汁の匂いが風に乗ってきました。 誰かが笑って、「腹ぁ減ったなあ」と言いました。 浜は、またふつうの浜へ戻っていきました。

 けれど幹夫は、ふつうに戻りきれませんでした。 胸の中に、まだ銀いろの魚が泳いでいたからです。 魚の一匹一匹が、海の暗いところから来た星で、息をして、光って、そして――どこかへ帰っていく。

 幹夫は、もう一度、駿河湾を見ました。 富士は青くなり、空は高く、波は変わらずザザン、ザザンと呼吸していました。

 (海は、ぼくらの知らないことを、たくさん持っている。) 幹夫は思いました。 (でも、知らないままでもいい。耳を持って、手を出して、少しだけ触れて、約束を守ればいい。)

 そうして幹夫は、赤い手のひらをそっと握り、砂を一粒つまんでみました。 砂はすぐに指の間から落ちていきました。 落ちながら、きらり、と光りました。

 それは、浜がくれた、いちばん小さな星でした。

 
 
 

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