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薄荷色の川

――平成十五年、道修町にて――

 平成十五年の春は、いつもより少し早く大阪へ降りてきた。

 淀屋橋の欄干に朝の光が触れると、土佐堀川は薄い銀紙を広げたようにきらめき、その上を渡る風には、まだ冬の名残の冷たさが混じっていた。川沿いの柳は、まるで誰かの言葉を聞き終えたばかりのように、やわらかく枝を垂らしている。

 幹夫はその風景を、毎朝同じ歩幅で眺めてきた。

 道修町に本社を構える日本でも指折りの製薬会社。その研究棟へ通う道は、彼にとって四十年近く続いた小さな巡礼だった。白衣を着る前の数分、川の水面や街路樹の葉や、石畳の隙間から顔を出す名も知らぬ草に目をやる。それは習慣というより、彼にとっては挨拶に近かった。

「おはようございます」

 声に出すこともあった。

 通勤途中の若い社員がそれを聞けば、不思議そうに振り返るかもしれない。しかし幹夫には、返事が聞こえていた。

 柳はさらさらと葉を鳴らし、川は光を揺らしながら応えた。

 ――今日も、急がなくていいよ。

 そう言われたような気がして、幹夫は少しだけ肩の力を抜いた。

 幹夫は六十歳になっていた。

 定年の日まで、あとひと月。研究所の机の引き出しには、長年使い込んだ実験ノートが何十冊も並んでいた。角は擦り切れ、表紙には試薬の小さな染みが残っている。そこには、新薬候補化合物の構造式、動物実験の結果、失敗の原因、思いつきの走り書き、共同研究者への感謝の言葉、そしてごくまれに、季節の記録が書かれていた。

 五月二十日、雨。 中庭の山法師、白く咲く。 午後三時、若い研究員の顔が曇る。言葉を急がないこと。

 幹夫は、そういう人だった。

 誰かが失敗したとき、真っ先に責める言葉を飲み込む。報告書の誤字を見つけても、その人が夜遅くまで頑張っていたことを思い出す。後輩が緊張で声を震わせて発表すれば、机の下で小さく親指を立てる。

 優しすぎる、と言われたこともある。

 研究は厳しい。薬を待つ患者の時間は、研究者の慰めを待ってはくれない。開発の中核にいる者なら、判断は鋭く、言葉は明確でなければならない。幹夫自身、そのことを誰よりも知っていた。

 彼は数々の特許を取得してきた。

 炎症を抑える新規化合物。副作用を軽減する製剤技術。少量で安定した効果を生む結晶形。ひとつひとつが、長い夜と無数の失敗の果てに生まれたものだった。研究所の壁には彼の名前を含む特許証の写しが何枚も掲げられ、一部の若い社員は幹夫を伝説のように見ていた。

 だが幹夫は、自分の名前が印刷された紙よりも、実験室の窓辺に置かれた小さな鉢植えのほうをよく気にかけた。

 それは十年前、亡くなった共同研究者の遺品の中から引き取った薄荷だった。

 研究棟の窓は北向きで、日当たりは決してよくない。それでも薄荷は、毎年春になると細い茎を伸ばし、淡い緑の葉を増やした。幹夫は朝、白衣に袖を通す前に水をやった。忙しい日は忘れそうになったが、不思議なことに、そういう日に限って葉がほんの少し身震いする。

 ――水をくださいな。

 幹夫には、そう聞こえた。

「すまん、すまん」

 彼は小声で謝り、ビーカーに汲んだ水をそっと注ぐ。薄荷の葉から立ちのぼる香りは、研究室に満ちる溶媒の匂いを一瞬だけ洗い流した。胸の奥に、澄んだ小川が流れるようだった。

 その朝、幹夫はいつもより早く研究所に着いた。

 春霞の向こうで、大阪のビル群は輪郭をやわらげ、街全体が眠りから覚める前の夢の中にいるようだった。玄関前の楠の大樹が、微かな風に葉を震わせている。

 幹夫は足を止めた。

「長いこと、お世話になりました」

 誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。会社へか。研究所へか。街へか。四十年分の朝を見守ってくれた、この楠へか。

 すると、葉の隙間から光がこぼれた。

 ――まだ終わりではありません。

 幹夫は目を細めた。

 光の粒が、幹の表面を流れていく。古い樹皮の皺が、彼の掌の皺に似ていた。ふと、幹夫は思った。自分の人生も、木の年輪のように、外からは見えない線を重ねてきたのだろうか。失敗の日、喜びの日、誰かを励ました日、誰かに励まされた日。そのすべてが内側で静かに円を描き、今の自分を支えている。

 研究室では、若い研究員の佐伯がすでに机に向かっていた。

 佐伯は入社三年目の青年で、目の下に薄い影をつくっていた。幹夫が進めてきた抗炎症薬の改良プロジェクトを引き継ぐ予定だったが、ここ数週間、安定性試験の結果が思わしくなかった。

「佐伯くん」

 幹夫が声をかけると、青年はびくりと背筋を伸ばした。

「すみません。昨日の再試験も、やはり分解物が増えていました」

 その声には、失敗を恐れる硬さがあった。

 幹夫は机の上のデータを見た。数字は正直だった。望ましい結果ではない。だが、その欄外に細かく書き込まれた観察記録に、幹夫は目を留めた。

 温度変化時、結晶の微細な光沢変化あり。 試料瓶内壁にごく薄い曇り。 開封時、微弱な薄荷様臭。

 幹夫はゆっくりとうなずいた。

「佐伯くん、これは失敗の記録じゃない。薬が君に話しかけている記録や」

 佐伯は目を瞬かせた。

「薬が、ですか」

「そう。物質は黙っているようで、ようしゃべる。光沢、匂い、曇り、沈殿。どれも言葉や。ただ、人間のほうが急いでいて、聞き逃すことが多い」

 幹夫は窓辺の薄荷を見た。

「自然も同じや。声が小さいから、耳を澄ませなあかん」

 その瞬間、薄荷の葉がふるりと揺れた。窓は閉まっていた。空調も動いていない。佐伯は気づかなかったようだが、幹夫には、その葉の揺れが励ましに見えた。

 ――よく聞いて。答えは急がないところにあります。

 幹夫は古い実験ノートを開いた。十五年前、似たような結晶の不安定性に悩まされたことがある。あのときも、きっかけは匂いだった。分析機器ではなく、共同研究者の一言だった。

「先生、この匂い、雨上がりの土みたいですね」

 その研究者はもういない。けれど、その声は今も幹夫の中に残っている。

 幹夫は佐伯と並んでデータを追い、保存条件、湿度、賦形剤との相互作用をひとつずつ確認した。やがて、ある添加剤が微量の水分を抱え込み、結晶表面に変化を起こしている可能性が見えてきた。

 佐伯の顔に、少しだけ光が戻った。

「もう一度、条件を組み直します」

「うん。でも今日は昼に外へ出よう」

「外、ですか」

「桜が散ったあとに出る若葉は、意外に大事なことを教えてくれる」

 佐伯は困ったように笑ったが、幹夫の言葉に従った。

 昼休み、二人は中之島の川沿いを歩いた。陽は高く、川面には白い光が散っていた。市役所の壁は穏やかな影を落とし、遠くで車の音が波のように寄せては引いた。街路樹の若葉は、まるで内側から照らされているように透き通っていた。

 幹夫は葉を見上げた。

「葉はな、光を受けるだけやない。余分な水を逃がし、風に揺れ、虫に食われても、また形を整える。完璧ではなく、折り合いをつけて生きている」

 佐伯は黙って聞いていた。

「薬も、人間も、完璧だけでは続かへん。弱さをどう抱き込むかや」

 風が吹いた。

 若葉が一斉に鳴った。その音は拍手のようでもあり、遠い海のさざめきのようでもあった。佐伯がふと空を見上げたとき、幹夫には川の向こうに白い影が見えた。

 亡くなった共同研究者が、橋のたもとに立っていた。

 白衣ではなく、春の散歩に出たような薄い上着を着ている。顔は若いころのままで、目元には懐かしい笑みがあった。

 幹夫は驚かなかった。

 そういうものは、人生の終わり際ではなく、節目に静かに現れるのだと、どこかで知っていた。

 ――よう続けましたね。

 声は風の中にあった。

 幹夫は胸の奥が熱くなるのを感じた。言いたいことはたくさんあった。あの実験は成功した。あなたの仮説は正しかった。若い人たちが、今も続きをやっている。あなたが遺した薄荷は、毎年ちゃんと芽を出している。

 けれど口に出たのは、たった一言だった。

「ありがとう」

 佐伯が横で振り向いた。

「何かおっしゃいましたか」

「いや、川に」

 幹夫は微笑んだ。

「川に、お礼を言っただけや」

 その日の夕方、研究室に戻ると、薄荷の香りがいつもより濃く感じられた。

 佐伯は新しい実験計画を立て、幹夫はそれを静かに見守った。もう自分が先頭に立つ時代ではない。だが、火を渡すことはできる。情熱とは、激しく燃え続けることだけではない。誰かの手に移ったあとも消えずに灯る、小さな温かさのことでもある。

 定年の日、研究所の窓には雨が降っていた。

 細い雨だった。大阪の街を灰色に沈める雨ではなく、古い埃を洗い流すような、明るい雨だった。幹夫は机を片づけ、最後に薄荷の鉢を両手で持ち上げた。

「連れて帰ってもええかな」

 葉が揺れた。

 ――もちろん。

 幹夫は笑った。

 廊下では、多くの人が待っていた。花束、拍手、感謝の言葉。幹夫は一人ひとりに頭を下げた。自分が助けたと思っていた人たちに、実は自分が支えられていたのだと、そのとき強く感じた。

 佐伯が最後に近づいてきた。

「幹夫さん、今日の朝、試験結果が出ました。新しい条件で、分解物が大きく減りました」

 幹夫の目が細くなった。

「そうか」

「先生が言ったとおりでした。薬が、話していました」

 佐伯の声は少し震えていた。

 幹夫は花束を片手に抱え、もう片方の手で佐伯の肩をそっと叩いた。

「今度は君が聞いてやるんや」

 外へ出ると、雨は上がりかけていた。

 淀屋橋の上で幹夫は立ち止まった。西の空に薄く光が差し、川面に金色の道が伸びていた。ビルの窓、濡れた舗道、橋を行き交う人々の傘。そのすべてが、夕暮れの淡い輝きの中で、少しだけ現実から浮き上がって見えた。

 幹夫は薄荷の鉢を胸に抱いた。

 川が言った。

 ――あなたの優しさは、弱さではありませんでした。

 柳が言った。

 ――誰かの痛みに気づく耳は、研究にも必要な耳でした。

 雨上がりの空が言った。

 ――ここから先も、季節は続きます。

 幹夫は目を閉じた。

 四十年分の実験室の灯りが、胸の奥でひとつずつともる。深夜の遠心機の音。早朝の培養室の静けさ。失敗した若者の涙。成功を知った日の小さな歓声。患者の未来を思って眠れなかった夜。特許証に記された無機質な文字の背後にあった、数えきれない人の願い。

 すべてが、川の流れに溶けていく。

 やがて幹夫は目を開け、ゆっくりと歩き出した。

 定年は終わりではなかった。ひとつの研究が、次の研究へ渡されるように、人生もまた、見えない何かへ受け渡されていく。

 春の大阪の空気には、薄荷の香りがした。

 それはほんのかすかな香りだったが、幹夫にはわかった。自然が、今日も小さな声で話している。

 彼はその声を聞きながら、濡れた橋を渡った。

 優しすぎるほど優しい男の背中を、平成十五年の夕光が、温かく、幻想のように包んでいた。

 
 
 

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