藁のゆりかご
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

十一月の蒲原は、朝だけ空気がきゅっと締まって、息を吸うと胸の奥へ白い道が一本すうっと通ります。畦道の草は露をたくさん抱えていて、踏むと靴の底で、しゅっ、と小さく鳴りました。みかん畑の葉は厚く、裏の白い粉が冷たい光をはね返し、薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫でています。駿河湾は遠くで薄い鋼の板みたいに光り、波は低く、しゅう……ざあ……と、遠慮がちに息をしていました。
幹夫は八つ。縁側に座って、窓辺の瓶を見ていました。
空の蛍瓶――じゃなくて、今日は“匂いの星袋”になった瓶。 乾いたみかんの皮の欠片が、瓶の底で、薄い影を重ねていました。見えるのはただの欠片なのに、夜に布を少しずらすと、ふわっと部屋の暗さが黄色くなる、あの匂い。
幹夫は瓶を両手で持ち上げて、布の結び目を指先で確かめました。結び目は硬い瘤になっていて、触ると“旅ひも”の記憶が戻ってきます。新米の小包を結んで、父の手に触れて、戻ってきた麻ひも。
その瘤があるだけで、胸の奥の空洞が、こつん、と鳴る感じがしました。冷たい鳴りではなく、澄んだ鳴り。
台所から祖母の声がしました。
「幹、今日はそれを父さんに送ろうか」
送る。
その二文字が、幹夫の胸に細い線を一本引きました。線が引かれると、息が通る。息が通ると嬉しい。けれど嬉しいと同時に、胸の奥がきゅっと縮みました。
――送ったら、窓辺が空っぽになる。 ――匂いが遠くなる。 ――遠くなると、また胸がからん、と鳴る。
分かっているのに、言葉にならない抵抗が、喉の奥で紙みたいにひっかかりました。
祖母は、幹夫の手元の瓶を見て、急がない声で言いました。
「送るってのは、離すことじゃないよ。道を作ることだ。道があると、匂いも、思いも、戻ってこられる」
戻ってこられる。
その言い方が、消印の黒い丸の月と、返ってきた麻ひもの結び目を思い出させて、幹夫の胸の固いところに、ふっと布がかかりました。
「でもね」祖母は続けました。「ガラスは割れる。割れると、匂いも言葉も散る。今日は、割れないように“ゆりかご”を作ろう」
ゆりかご。
その言葉は、燕の雛を巣へ戻した日の、あの軽い重さを連れてきました。包む。守る。返す。 幹夫の胸が、少しだけ落ち着きました。
こういちは昼前に来ました。袖をまくった手首が秋の冷たさで少し白く見えて、でも目はちゃんと蒲原の色でした。
「今日は何する?」とこういちが言いました。
幹夫は瓶を見せました。
「父さんに送る。……でも、割れそうで」
割れそうで、という言葉を言った瞬間、胸の奥がひゅっと冷たくなりました。怖いを口に出すと、怖いが本物の顔で立ち上がってしまう。立ち上がるのが嫌なのに、立ち上がらないと、手が勝手に乱暴になることも幹夫は知っていました。
こういちは、瓶を遠くから覗きこんで、笑いませんでした。
「割れないように、巣みたいにしよう」「……巣?」「うん。燕の。藁とか、草とかで」
祖母が、ちょうどそこへ藁束を持ってきました。稲架の琴の残りの藁。干し柿を吊るすときにも使った藁。手のひらに刺さって痒い、あの藁。
「藁は、軽くて丈夫だよ。痛いけどね」 祖母は言いました。「痛いのは、守るための毛だからさ」
痛いのは守るため――その言い方が、幹夫の胸にすっと入りました。 胸のちくりも、守るための毛なのかもしれない、と幹夫は思いました。痛いけれど、痛いから大事なものが分かる。
祖母は藁を短く切り、手のひらでくるくる丸めて、輪っかのようにしました。藁は最初言うことを聞かないのに、手の中で少しずつ丸い形を覚えます。丸い形は、安心の形です。
「瓶の底に、これを敷く」 祖母が言って、藁の輪を布の上に置きました。「次に、瓶の胴にも巻く。ぎゅうぎゅうはだめ。息ができるくらいがいい」
息ができるくらい。
幹夫は、その言葉を胸の中で繰り返しました。結び目も、糸も、風も、全部同じだ。きつすぎると切れる。ゆるすぎると落ちる。ちょうどいい張り。ちょうどいい包み。
幹夫は藁を手に取りました。藁の毛羽が指に刺さって、むずむずしました。むずむずは、小さいのに集中すると大きくなります。大きくなると、いらいらして、手が乱暴になる。
幹夫の指が、ほんの少し強く藁を握りそうになったとき、こういちが言いました。
「幹夫、息して」
その二文字は、何度も幹夫を助けた梯子でした。 幹夫は息を吸いました。藁の匂い、みかんの匂い、土の匂いが混ざって肺に入り、胸の中の熱い石が少し丸くなりました。
幹夫は藁を“握る”のではなく、“置く”ように巻きました。置くと、藁は自分で道を探すみたいに、するりと瓶の丸みに沿いました。瓶は冷たいのに、藁が当たると少し温かく見えました。
藁を巻いた瓶は、まるで冬の前に毛布を掛けられた小さな星みたいでした。
「……星の服だ」と幹夫が思わず言いました。
こういちは小さくうなずきました。
「うん。旅に出る星の服」
祖母は、藁の上から古い手ぬぐいでやさしく包み、最後に“旅ひも”で結びました。結び目を作るとき、祖母の指は迷いません。迷いのない指を見ると、幹夫の胸の迷いも少しだけ減ります。
「よし。ゆりかごができた」 祖母は言いました。「割れても、匂いは風に乗るかもしれない。でも割れないほうが、ちゃんと父さんの胸で開く。だから、割れないようにして送ろう」
幹夫は、包まれた小さな包みを両手で持ちました。軽いのに、胸の中はどん、と重い。重いのに、重さが“怖い重さ”ではなく、“大事な重さ”でした。
夕方、三人で郵便局へ行きました。畦道の草は冷たく、田んぼの刈り株の影が細かい縞になって並び、そこを風が通ると、さら……さら……と、また紙をめくる音がしました。
踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきます。汽車の音を聞くと、幹夫の胸の中に「運ぶ」という言葉が立ち上がりました。
郵便局の中は、紙とインクと金属の匂いが混ざっていました。窓口の板は冷たく、手を置くと指先が少し落ち着きます。落ち着く冷たさは、胸の熱を整えてくれる冷たさです。
窓口のおじさんが、包みを受け取り、秤の上に置きました。
ごとん。
針がふらり、と揺れて、しばらく迷ってから止まりました。迷って止まる針を見ると、幹夫は自分の胸も、同じふうに揺れて止まっている気がしました。
――行って、ちゃんと着く。 ――でも、途中が見えない。
見えない途中が、幹夫は怖い。怖いから見たくなる。見たくなるのに見えない。そのとき胸は、勝手に余計な想像を作ってしまう。
おじさんが、何でもないふうに言いました。
「ガラス? 割れものだな。ちゃんと扱うよ」
“ちゃんと扱う”という言葉が、幹夫の胸の中の結び目を、少しだけゆるめました。大げさに励まされるより、こういう“いつもの声”のほうが、幹夫の心は助かります。
伝票に字が書かれ、朱い印が押されました。
ごん。
朱い花が紙に咲く音。 咲いた花は、消えない花。
包みは奥へ運ばれていきました。運ばれていく背中を見た瞬間、幹夫の胸の奥が、からん、と鳴りました。空っぽになる音。けれど今日は、冷たい鳴りではありませんでした。道が一本、外へ伸びた鳴りでした。
こういちが小声で言いました。
「旅、始まったね」「……うん」と幹夫は言いました。 “始まった”と言うと、少しだけ呼吸が戻りました。始まったなら、止まっていない。止まっていないなら、いずれ着く。
帰り道、夕焼けが雲の切れ目から薄く覗いて、駿河湾の上に桃色の筋を一本引きました。筋はすぐ消えました。消えたのに、消える前に“あった”という跡だけは、目の裏に残りました。
家に着くと、窓辺の瓶がなくなっていました。並びの中のひとつの場所が空いていて、その空きが、胸の奥の空洞と重なって見えました。
幹夫は、思わず窓辺に鼻を近づけました。
まだ、ほんの少しだけ、みかんの匂いが残っていました。 残り匂いは弱いのに、弱いからこそ、胸にしみました。
――行った。 ――でも、跡は残った。
祖母が、何でもない声で言いました。
「ほら、匂いは置いていったろう。送ったものはね、全部が行っちゃうわけじゃない。送った“しるし”が、ここに残る」
しるし。 幹夫は、その言葉を胸の中で転がしました。しるしがあるなら、空っぽはただの空っぽではない。
夕方、薩埵峠のほうから風がひとすじ降りてきました。
青いガラスの星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。
からり、きん。
二つの音はいつもどおり短いのに、今日はその間に、見えない第三の音がある気がしました。 瓶の中の匂いが、どこか遠い町でふわっと開く音。 父の鼻の奥に、蒲原の黄色が一枚だけ差し込む音。
幹夫は、胸の奥がじん、と熱くなるのを感じました。涙になる前の熱。熱いのに、痛くない。ほどける熱。
幹夫は机に向かって父へ短い手紙を書きました。
「とうさん」 「みかんの ほしぶくろを おくりました」 「びんに わらの ゆりかごを つくりました」 「わるい かぜに ぶつからないように ふくろに いれました」 「こっちは きょう からり と きん でした」 「においが ついたら しずかに あけてください」
“早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。けれど今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。匂いは、封筒の中で守られている。守られていれば、届く日がある。
布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。虫の声が、りん……りん……と夜の布を細い糸で縫っていました。
幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。
――藁のゆりかごは、星の服。 ――服があるなら、遠い旅も寒くない。 ――返事は、音だけじゃなく、匂いでも来る。
窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。
その短い会話を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、道の通るあたたかい筒のままでした。




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