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遅れて届く声


予告状は、いつも白い封筒で届いた。

宛名は「警視庁捜査一課」。差出人はない。消印は毎回違い、東京、品川、名古屋、京都と、東海道新幹線の駅名をなぞるように変わった。

中には、白いカードが一枚だけ入っていた。

最初のカードには、こう記されていた。

十一時三十八分

それだけだった。

脅迫文も、要求も、声明もない。新聞社にもテレビ局にも送られていない。ただ、警察だけに、時刻だけが届けられた。

「いたずらだろう」

そう言った管理官は、十一時三十八分を過ぎた五分後には顔色を変えていた。

下り「のぞみ」の車内で、男が死んだ。

新横浜を出て、熱海へ向かう途中だった。男は十号車の通路側席に座っていた。周囲の乗客は、眠っていると思っていたという。十一時三十八分、隣席の乗客が肘掛けから滑り落ちた男の手に気づいた。冷たかった。

被害者は小松修一、五十八歳。都内の医療機器会社に勤める元外科医だった。

その日の午後、東海道新幹線の運行表が捜査本部の壁一面に貼られた。

十一時三十八分。

その一分の中で、東海道新幹線の線路上には、複数の列車が同時に走っていた。上りも下りもある。東京へ向かう列車、名古屋へ向かう列車、新大阪へ急ぐ列車。時刻は一点だったが、場所は点ではなかった。

線路の上に散った銀色の車体は、コンピュータ画面の小さな光点になっていた。

刑事の水城透は、その光点を見ながら、奇妙な寒気を覚えた。

新幹線は、正確だった。

人間の恐怖だけが、その正確さに追いつけなかった。

二通目の予告状は、三日後に届いた。

十四時六分

それだけだった。

警察は今度こそ動いた。東京、品川、新横浜、名古屋、京都、新大阪。主要駅に捜査員を配置した。車内にも私服を乗せた。だが、十四時六分、その瞬間に走っている列車はまた複数あった。

「全列車を止めるか」

誰かが言った。

だが、たった一枚の紙で東海道新幹線を全面停止させることはできなかった。証拠も、場所も、犯人像もない。乗客は何万人もいる。止めたところで、犯人がその中にいる保証もなかった。

十四時六分。

今度は上りの「ひかり」で、女性編集者が死んだ。

寺田直子、四十九歳。京都から東京へ戻る途中だった。発見されたのは名古屋を出た後のデッキだった。手荷物は整然としており、争った痕跡はない。監視カメラに映る乗客の流れは多すぎて、犯人らしい人物を絞り込めなかった。

水城は被害者のスマートフォンを見た。

ロックは解除されていた。犯人が解除したのか、本人が直前まで使っていたのかはわからない。画面に残っていたのは、音声メモのアプリだった。

ファイル名は、こうだった。

言えなかったこと

再生すると、寺田直子の声が流れた。

かすれて、低い声だった。

「お母さん。あのとき、私、知ってたの。妹がもう限界だったことを。だけど私は、仕事を言い訳にして、電話を切った。ごめん。ずっと、言えなかった」

水城は再生を止めた。

会議室には、誰も声を出さなかった。

「小松にもあったな」

若い刑事が言った。

小松修一のスマートフォンにも、似たような音声メモが残っていた。録音日は数年前。誰にも送られていない。

内容は、短かった。

「私はあの日、助けを求める声を聞いていた。医者なのに、立ち上がらなかった」

二人の被害者には、直接の接点がない。

職業も、住所も、交友関係も違う。だが、二人とも、誰かに言えなかった後悔を抱えていた。

水城はそのとき、犯人が死体だけを選んでいるのではないと感じた。

犯人は、声を選んでいる。

誰にも届かなかった声を。

三通目が届く前夜、水城の私用携帯にメッセージが届いた。

知らない番号だった。

沙耶さんは、二十三時十七分に三度かけた。君は画面を見ていた。

水城は、椅子から立ち上がれなかった。

沙耶。

死んだ妻の名前だった。

八年前の冬、水城は強盗殺人事件の張り込み中だった。犯人が現れるかもしれないという夜で、携帯電話はマナーモードにしていた。二十三時十七分、妻の沙耶から着信があった。

一度目。

二度目。

三度目。

水城は画面を見た。

見て、それでも出なかった。

事件の山場だった。今、電話に出れば集中が切れる。帰ってからかけ直せばいい。そう思った。

沙耶はその夜、駅のホームで倒れた。発見が遅れた。病院へ運ばれたときには、もう意識がなかった。

娘の澪には、嘘をついた。

「電話には気づかなかった」

そう言った。

澪は十四歳だった。母の死に泣き、父の嘘に気づかないふりをした。

それ以来、父娘の間には、薄いガラスのような沈黙が挟まっていた。

犯人は、それを知っている。

水城は携帯を握りしめた。

公式の予告状には時刻しかない。だが、この犯人は、警察だけでなく、水城個人に向けてゲームを仕掛けている。

人の傷を見つけ、そこに時刻を打ち込んでくる。

三通目のカードは、翌朝届いた。

十六時二十二分

捜査本部は疲弊していた。

時刻だけでは、どうにもならない。十六時二十二分に走る列車はまた複数ある。新幹線は、警察の焦燥など知らない顔で、時刻表どおりに動いていく。

十六時二十二分。

今度は下りの「こだま」で、若い男が死んだ。

柳沼大、三十五歳。IT企業の役員だった。彼の端末にも、音声メモがあった。

「俺は、あいつが壊れていくのを見ていた。助けてと言われたのに、冗談にした。あいつが会社に来なくなってから、謝ればいいと思った。遅すぎた」

水城は三人分の音声を並べた。

医者。

編集者。

経営者。

ばらばらの人生。

だが、全員が「言わなかった」人間だった。

助けてと言われたときに、声を出さなかった。

ごめんと言うべきときに、言わなかった。

そして数年後、誰にも送らない音声メモを残していた。

「犯人は、どうやってこれを知った」

水城の問いに、鑑識の担当者が答えた。

「三人とも、同じアプリを使っています」

アプリの名前は、「こだまポスト」。

匿名で音声を録音し、誰にも送らず保管できるサービスだった。利用者は、自分の後悔や謝罪を吹き込む。送信先を指定することもできるが、多くは未送信のまま残される。心の整理のための、声の墓場。

新幹線の「こだま」と、返ってくる声の「こだま」。

悪趣味な偶然に見えた。

だが、犯人にとっては偶然ではない。

「録音時刻を調べろ」

水城は言った。

結果は、すぐに出た。

小松修一が「言えなかったこと」を録音した時刻。

十一時三十八分。

寺田直子が録音した時刻。

十四時六分。

柳沼大が録音した時刻。

十六時二十二分。

予告状の時刻は、犯行時刻であると同時に、被害者が後悔を声にした時刻だった。

犯人は、彼らの人生の中で最も遅れて届いた声を盗み、それを殺人の時刻に変えていた。

「こだまポスト」の運営会社は小さなNPOだった。悩みを抱える人に向けて、匿名の音声保管サービスを提供している。表向きは善意の場所だった。

だが、そのシステム開発を担当していた男がいた。

白石律。

三十八歳。元鉄道システム会社勤務。新幹線の運行管理に関わるソフトウェア開発に携わった経歴がある。五年前に退職し、その後、NPOに参加していた。

白石の母は、十年前、東海道新幹線の車内で急病死していた。

記録によれば、母親は車内で具合が悪くなったが、周囲に迷惑をかけまいとして声を上げなかった。気づかれたときには、すでに手遅れだった。

白石は当時、母からの最後の着信に出られなかったという。

水城はその資料を読み、胸の奥が冷えるのを感じた。

似ている。

あまりにも似ている。

犯人は、自分と同じ傷を持つ人間を探しているのではない。

自分の傷を、他人の罪に変えている。

「白石を任意で引っ張る」

管理官が言った。

だが、白石律は消えていた。

NPOの事務所にも、自宅にもいない。パソコンは初期化され、部屋には時刻表が一冊だけ残されていた。

その見返しに、紙片が挟まっていた。

二十三時十七分

水城は、それを見た瞬間、息を止めた。

その時刻は、彼のものだった。

八年前、沙耶からの電話が鳴った時刻。

そして、水城が「こだまポスト」に吹き込んだ音声の録音時刻でもあった。

妻の死から一年後、眠れない夜に、水城は匿名で声を残していた。

誰にも送るつもりはなかった。

「沙耶、俺は気づいていた。電話に出なかった。ごめん」

その一文を、彼は一度だけ録音した。

削除したつもりだった。

だが、削除されていなかった。

犯人は聞いていた。

その日の夕方、水城の携帯に、またメッセージが届いた。

澪さんは、母親に似ていますね。声を聞くのが上手だ。二十三時十七分、君はもう一度遅れる。

添付されていた写真には、娘の澪が写っていた。

新大阪行きのホーム。制服姿。手には小さな旅行鞄。

水城は、反射的に電話をかけた。

呼び出し音が続く。

出ない。

もう一度かけた。

出ない。

三度目で、澪の声がした。

「……何」

その一音だけで、水城の喉が詰まった。

言うべきことは、八年間あった。

だが、八年間、言わなかった。

「澪」

「忙しいんじゃないの」

「聞いてくれ」

「いま新幹線。友だちと京都に行くって、前に言った」

「降りろ」

「どうして」

「いいから、次の駅で降りろ」

「また命令?」

その言葉は静かだったが、水城を刺した。

犯人は、水城の弱点を知っている。

怒り。

焦り。

家族への罪悪感。

そして、彼が肝心なときほど、命令でしか話せなくなることを。

水城は目を閉じた。

新幹線の速度では、人の声は遅すぎる。

だが、それでも言わなければならない。

「澪。お母さんが死んだ夜、俺は電話に気づいていた」

電話の向こうが沈黙した。

列車の走行音だけが聞こえた。

「出なかった。事件のことで頭がいっぱいだった。あとでかけ直せばいいと思った。嘘をついた。お前に、八年間、嘘をついた」

澪は何も言わなかった。

水城は続けた。

「すまない。許してくれとは言わない。でも、いま言わなければ、俺はまた遅れる」

長い沈黙のあと、澪が言った。

「……お母さんは、たぶん知ってたよ」

「え?」

「お父さんが弱いこと。自分を許せない人だってこと。だから私、怒ってた。嘘をつかれたことより、何も言わないまま私を守ろうとしたことに」

水城は、壁に手をついた。

「澪、近くに誰かいるか」

「いる。さっきから、同じ人がデッキにいる」

「どんな男だ」

澪が小さく息を飲んだ。

「黒いコート。細い眼鏡。ずっと、時刻表を見てる」

水城は捜査本部に合図を送った。

「白石だ」

二十三時十七分まで、残り二十六分。

その時刻にも、東海道新幹線の線路上には複数の列車が走っていた。東京へ帰る上り。新大阪へ向かう下り。駅を通過する列車。停車する列車。

だが、水城はもう、すべての列車を追おうとはしなかった。

犯人は時刻を使って警察を散らしてきた。

恐怖を分散させ、怒りを加速させ、人間を判断不能にする。

それが白石律のゲームだった。

ならば、同じ盤面に乗ってはいけない。

水城は、澪のいる列車に乗り込める最寄り駅へ向かった。並行して、各駅の捜査員に最低限の配置を指示した。大声を出さない。乗客を刺激しない。犯人を追い詰めすぎない。

白石は、勝利の言葉を欲しがっている。

声にこだわる犯人は、最後には必ず自分の声で勝ちを確認する。

水城はそう読んだ。

列車は、夜の線路を滑るように走っていた。

車内の蛍光灯は白く、窓の外には都市の灯りが線になって流れていた。乗客の多くは眠っている。誰も知らない。ひとりの男の後悔と、ひとりの男の憎悪が、この車両のどこかで時刻を待っていることを。

水城が車内に入ったのは、二十三時十分だった。

七号車のデッキに、澪がいた。

その向かいに、白石律が立っていた。

写真よりも若く見えた。痩せていて、目だけが妙に明るい。手にはスマートフォンがある。

「間に合いましたね、水城さん」

白石は微笑んだ。

「新幹線は便利です。人間が迷っている間にも、正確に目的地へ進む。時刻表は嘘をつかない」

水城は澪の前に立った。

「白石律。殺人の容疑で――」

「逮捕しますか」

白石は遮った。

「その前に、聞きましょう。あなたの声を」

スマートフォンから、水城自身の声が流れた。

八年前ではない。

七年前、「こだまポスト」に吹き込んだ声。

低く、震えた声。

「沙耶、俺は気づいていた。電話に出なかった。ごめん」

澪の顔が強張った。

白石は満足そうに目を細めた。

「これがあなたです。正義の刑事。人を裁く側の人間。けれど本当は、誰かの声を見捨てた男だ」

「そうだ」

水城は言った。

白石の表情が、わずかに揺れた。

「俺は見捨てた。言い訳はない」

「では、なぜ生きている」

白石の声が低くなった。

「なぜ、あなたは生きて、人を捕まえる側にいる。私の母は、誰にも声を聞かれなかった。あの人たちも同じだ。聞こえていたのに聞かないふりをした。助けられたのに助けなかった。だから私は、彼らの本当の声を聞かせてやった」

「違う」

水城は静かに言った。

「お前は聞いていない」

白石の目が細くなった。

「何を」

「被害者の声だ」

水城は一歩前に出た。

「小松は、自分が臆病だったことを知っていた。寺田は、妹を見捨てた自分を責め続けていた。柳沼は、同僚に謝れないまま壊れていた。あいつらは正しい人間じゃない。だが、後悔していた」

「後悔で誰かが生き返るんですか」

「生き返らない」

水城は答えた。

「だから後悔は罰じゃない。生きている人間が、遅れてでも声を出すための残り時間だ。お前はそれを奪った」

白石は笑った。

「きれいごとですね」

「そうかもしれない」

水城は澪を見た。

「でも俺は、今日、言った」

澪が、ゆっくり顔を上げた。

「聞いたよ」

その声は小さかった。

だが、白石の笑みを止めるには十分だった。

「お父さんの声。いま聞いた。昔の録音じゃなくて、いまの声を」

白石はスマートフォンを握りしめた。

「遅すぎる」

「遅いよ」

澪は言った。

「でも、聞こえた」

二十三時十七分。

列車は定刻どおり、夜の線路を進んでいた。

その瞬間、白石律は勝ったように見えた。

予告した時刻に、予告した相手を、予告した場所へ引きずり出した。刑事の過去を暴き、娘の前で罪を聞かせた。警察はまた、時刻に踊らされた。

だが、水城はもう、白石のゲームの中にはいなかった。

デッキの扉が静かに開いた。

私服の捜査員が二人、乗務員室側から入ってきた。車内の別方向からも、別の捜査員が近づいていた。

白石は振り返った。

「なぜ」

水城は答えなかった。

代わりに、澪が自分のスマートフォンを掲げた。

通話はつながったままだった。

水城が澪に真実を告げた電話は、そのまま捜査本部にも転送されていた。白石が語った言葉も、すべて聞かれていた。

犯人は時刻だけで世界を動かそうとした。

だが最後に、彼を止めたのは時刻ではなかった。

声だった。

白石はしばらく動かなかった。

やがて、笑おうとして失敗したような顔になった。

「そんなもので、私の勝ちが消えると?」

「勝ち負けじゃない」

水城は言った。

「お前は、誰の声も聞かなかった。それだけだ」

白石律は逮捕された。

列車は次の駅に停まった。アナウンスはいつもどおり穏やかで、乗客の大半は何が起きたのか知らないまま眠っていた。発車ベルが鳴り、扉が閉まり、車体は再び夜へ滑り出した。

ホームに残された水城と澪の間に、長い沈黙があった。

以前の沈黙とは違っていた。

ガラスのように冷たいものではなかった。割れたあとの、痛みを含んだ沈黙だった。

「許したわけじゃないから」

澪が言った。

「うん」

「でも、聞いた」

水城は頷いた。

「ありがとう」

澪は少しだけ眉を寄せた。

「それ、私が言うことじゃない」

「そうだな」

二人は並んでホームを歩いた。

遠くで、新幹線の尾灯が小さくなっていく。赤い光は闇の中で、まるで遅れて届く返事のように揺れていた。

後日、「こだまポスト」に残されていた音声は、事件の証拠として押収された。

すべてが遺族や関係者に渡されたわけではない。渡すべきではない声もあった。聞かされることで、また誰かを傷つける声もあった。

それでも、いくつかの声は、遅れて届いた。

小松修一の息子は、父の謝罪を聞いて泣かなかった。ただ、長い時間、再生画面を見つめていた。

寺田直子の妹は、姉の声を最後まで聞いたあと、「遅いよ」とだけ言った。

柳沼大の同僚の家族は、録音を受け取らなかった。受け取らないこともまた、ひとつの返事だった。

水城はそれでいいと思った。

声は、出せば必ず許されるものではない。

後悔は、誰かに届けば消えるものでもない。

だが、声にしないままでは、何も始まらない。

東海道新幹線は、その日も定刻どおり走っていた。

東京から新大阪へ。新大阪から東京へ。

秒単位で管理された鉄の流れは、人間の迷いや痛みを待たない。乗り遅れた者のために、列車は戻らない。言えなかった言葉のために、時刻表は書き換わらない。

それでも人は、遅れて声を出す。

何年も遅れて。

何駅も通り過ぎて。

もう届かないかもしれない場所へ向けて。

水城は、捜査本部に残された最後の予告カードを見た。

二十三時十七分

その時刻は、もう犯人のものではなかった。

彼はカードを裏返した。

真っ白だった。

水城はそこに、ペンで小さく書いた。

聞いた。

そして、引き出しを閉じた。


 
 
 

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