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長沼駅午前五時十七分、太陽を殺す時刻表

※実在の地名・駅名を舞台の着想として用いたフィクションです。登場人物・事件・団体・設定はすべて架空です。

雨は、線路の匂いを濃くする。

静岡鉄道長沼駅のホームには、夜の雨が斜めに吹き込み、黄色い点字ブロックの上で細かく跳ねていた。最終に近い電車が去ったあとの静けさは、街の静けさとは違う。線路だけがまだ、さっきまで人を運んでいた熱を覚えている。

その熱の残るホームの端に、女の遺体が横たわっていた。

白いブラウス。紺のスカート。胸には、長沼駅の時刻表のコピーが安全ピンで留められている。赤い蛍光ペンで囲まれていたのは、午前五時十七分。

紙の余白には、細い万年筆の字でこう書かれていた。

――次は、太陽が死ぬ。

清水署刑事課の風見烈は、規制線をくぐった瞬間、奥歯を噛み締めた。

「ふざけやがって」

鑑識のライトが雨粒を銀色に照らす。駅員が震えた声で説明した。遺体は近くの商店街で花屋を営む大石路子、五十八歳。毎朝、駅前に小さな花瓶を置いていた女だった。始発を待つ学生に「今日も行ってらっしゃい」と声をかける、そういう人間だった。

風見は知っていた。彼女の店で、妻の命日に白い百合を買ったことがある。

遺体のそばに、小さな目覚まし時計が置かれていた。針は五時十七分で止まっている。だが発見時刻は二十二時四十二分。死亡推定時刻は、二十一時前後。

「五時十七分に意味があるな」

若い部下の牧田が言った。

風見は時刻表を睨んだ。赤く囲まれた数字は、単なる発車時刻ではないように見えた。まるで、犯人が未来の死を予約しているようだった。

そのとき、風見のスマートフォンが鳴った。非通知。出るな、と牧田が目で合図する。だが風見は出た。

「清水署の風見だ」

ノイズ混じりの沈黙。やがて、機械で歪められた声が耳の奥に滑り込んだ。

「刑事さん、時刻表は好きか?」

風見は周囲に目を走らせた。誰も怪しい動きをしていない。

「お前がやったのか」

「違う。時刻表がやった」

「名乗れ」

「クロノス」

声は笑っていた。

「長沼駅の時刻表には、人の命より正確なものがある。電車は遅れない。死も遅れない。君たち警察だけが遅れる」

「必ず捕まえる」

「それまでに、何人乗り遅れるかな」

通話が切れた。

風見はスマートフォンを握り潰さんばかりに握った。雨の向こうで、赤い信号機が滲んでいた。

その赤は、笑っているように見えた。

     *

二人目の遺体は三日後に見つかった。

場所はまた、長沼駅。今度は駅に隣接する古い保守用倉庫の中だった。

被害者は元鉄道職員の牧野修一、六十五歳。退職後は地域の見守り活動をしていた男だ。胸にはまた時刻表。赤く囲まれていたのは、二十一時十二分。

そして警察に送られてきた動画には、拘束された牧野が映っていた。

背景は長沼駅のホーム。駅名標。時刻表。ホーム端の白線。牧野は怯えながら、紙を読まされていた。

「二十一時十二分。下り電車が長沼を発車する。私は、その音を聞いたら死ぬ」

直後、画面の外で発車ベルのような音が鳴る。電車の走行音。牧野の悲鳴。映像は暗転した。

動画の送信時刻は、二十一時十二分ちょうど。

問題は、その時刻だった。

重要参考人として浮上した男がいた。久能隼人。二十七歳。幼少期から天才と呼ばれ、大学では人工知能と交通システムを研究していた。鉄道会社のダイヤ作成支援システムにも関わっていた過去がある。

大石路子の事件現場近くの防犯カメラに、黒いレインコート姿で映っていた。体格も一致する。

だが久能には完璧なアリバイがあった。

二十一時十二分、久能は新清水方面の別駅にいた。改札の入場記録、防犯カメラ、コンビニの電子決済、すべてが一致していた。長沼駅に移動するには、どんなに急いでも間に合わない。

牧田が会議室のホワイトボードに線を引きながら唸った。

「無理です。久能が犯人なら、二十一時十二分に長沼にいることができない」

「じゃあ、二十一時十二分に殺してねえんだ」

風見は即答した。

「でも動画が」

「動画を信じるな。人間を信じろ。死体を信じろ。現場を信じろ」

そのとき、会議室の隅に座っていた女性が静かに口を開いた。

「時刻表を信じすぎると、時刻表に殺されます」

水野燈。鉄道会社から捜査協力に来たダイヤ管理担当者だった。三十一歳。黒髪を後ろで束ね、眼鏡の奥の目は、いつも冷静だった。

彼女は長沼駅周辺の設備にも詳しい。動画の背景から「ホームではあるが、角度が妙だ」と最初に指摘したのも彼女だった。

「どういう意味だ」

風見が聞くと、燈はホワイトボードに印刷された時刻表を貼った。

「一般の乗客が見る時刻表は、すべての列車を示しているわけではありません。回送、入換、試運転、保守関係の移動。人の目には電車が走ったように見えても、時刻表には載らないものがある」

「犯人はそれを使った?」

「可能性はあります。でも、それだけでは久能のアリバイは崩れません」

「じゃあ何だ」

燈は少しだけ視線を落とした。

「犯人は、私たちが“時刻を知ったつもりになる瞬間”を利用しています。時計を見るより先に、電車の音で時刻を判断してしまう。その癖を」

風見は彼女を見た。その言葉は、捜査協力者の分析というより、何かを思い出している人間の声だった。

「水野さん。あんた、長沼に詳しいな」

「弟が、昔ここに通っていました」

それ以上、彼女は言わなかった。

     *

三人目の予告は、花屋のシャッターに貼られていた。

――午前五時十七分。――陽はまた沈む。

風見はその文面を見た瞬間、腹の底が冷えた。

「陽?」

牧田が首をかしげる。

「太陽の陽だろ」

「いや」

風見は赤い字を睨んだ。

「人の名前かもしれない」

捜査本部で過去の記録を洗うと、十五年前の事故が浮かび上がった。

長沼駅近くで、当時十歳の少年が死んでいた。名前は水野陽太。

原因は転落事故とされていた。雨の日、駅近くで遊んでいた陽太が足を滑らせ、保守用の敷地内で頭を打った。発見されたのは午前五時十七分。事故処理に関わった者の中に、大石路子、牧野修一、そして三人目の標的と思われる元警察官・吉村郁夫の名があった。

大石は当時、陽太を最後に見た目撃者。牧野は現場管理担当。吉村は事故を処理した警察官。

風見は資料を閉じた。

「復讐か」

牧田が呟いた。

「復讐だけなら、なぜ警察を煽る。なぜ動画を送る。なぜゲームみたいに時刻表を使う」

風見は机を叩いた。

「犯人は、復讐を口実にして殺しを楽しんでる。自分が神にでもなったつもりだ」

部屋の空気が重くなった。

そこへ、風見のスマートフォンが震えた。

また非通知。

「風見さん、出ないでください」

牧田の制止を振り切り、風見は通話を取った。

「クロノスか」

「刑事さん、君は怒ると推理が鈍る」

「お前は喋ると尻尾が出る」

「いいね。熱い。清水署の火の玉刑事。だが火は、時刻表を燃やせない」

機械声が笑った。

「三人目は助けられるかもしれない。午前五時十七分、長沼駅。だが君が一つでも列車を読み違えれば、吉村は死ぬ」

「吉村だけが標的か」

「さあ。時刻表に聞け」

通話が切れた。

その夜、風見は水野燈とともに長沼駅の構内図を見直した。燈は淡々と説明した。一般の乗客が通る場所。駅員しか知らない扉。今は使われていない通路。倉庫。保守用スペース。

「犯人は鉄道を知りすぎている」

風見が言うと、燈はわずかに笑った。

「鉄道を愛している人間ほど、鉄道を武器にできます」

「物騒なことを言うな」

「事実です」

二人は始発前の駅に向かった。

夜明け前の長沼駅は、昼間より広く見えた。ホームの蛍光灯が雨に濡れた線路を白く照らしている。遠くで街が眠っている。

吉村元警部は、駅裏の古い事務室で拘束された状態で見つかった。首元にはタイマー。そばには時刻表。赤く囲まれていたのは、やはり五時十七分。

「爆発物ではない。ただの脅しです」

燈が即座に言った。

だが次の瞬間、ホームの反対側で悲鳴が上がった。

小学生くらいの男の子が、ホーム端で立ちすくんでいた。線路の向こうに、黒いレインコートの人影がいる。

風見は走った。

「牧田、吉村を確保! 俺は追う!」

黒い人影は風見を見て、ゆっくりと手を振った。挑発だった。

風見は階段を駆け下り、連絡通路を抜け、駅外へ飛び出した。雨上がりのアスファルトが靴底を滑らせる。黒い人影は自転車置き場を抜け、細い路地へ入った。

「止まれ!」

返事はない。

風見は全力で追った。肺が焼ける。心臓が暴れる。視界の端で、信号が赤から青へ変わる。

黒い人影は陸橋の階段を駆け上がった。風見も追う。頂上で追いつき、肩を掴んだ。

もみ合いになった。相手は細身だが、動きが鋭い。風見の鳩尾に肘が入り、息が詰まる。だが風見は倒れない。相手の腕を取り、欄干に押しつける。

フードが外れた。

久能隼人ではなかった。

若い男でもなかった。

顔を隠したマスクの奥で、女の目が光っていた。

その女は、笑った。

「遅い」

女は小さな発煙筒を足元に落とした。白煙が噴き上がる。風見が一瞬目を閉じた隙に、女は欄干を乗り越え、非常階段へ飛び移った。

逃げ足は、地図を持っている者の動きだった。

風見が駅に戻ると、吉村は助かっていた。だが彼は震えながら、同じ言葉を繰り返していた。

「陽太くんは、事故じゃない……俺たちは、知っていた……」

風見はその場にしゃがみ込んだ。

「何を知っていた」

吉村は泣いていた。

十五年前、陽太は転落したのではなかった。

当時、駅近くの保守用倉庫で、子どもたちがいたずらをしていた。大人たちはそれを知りながら、面倒を恐れて見て見ぬふりをした。陽太は倉庫の中に閉じ込められた。雨で音がかき消され、誰も助けなかった。

大石は最後に助けを求める声を聞いていた。牧野は鍵の管理ミスを隠した。吉村は「鉄道会社と地域の混乱を避けるため」事故として処理した。

風見は拳を握った。

「それでも、殺していい理由にはならない」

吉村は顔を覆った。

「わかっている……わかっているんだ……」

その背中は、小さく、醜く、哀れだった。

     *

久能隼人は翌朝、任意同行された。

取調室で、久能は笑っていた。整った顔。感情のない目。IQが高いことを誇る人間特有の、退屈そうな瞬き。

「僕がクロノス? 面白いですね」

風見は机越しに睨んだ。

「お前は鉄道システムに詳しい。事件現場にもいた。犯人からの音声を解析したら、お前の研究室で使われていた音声変換ソフトの痕跡があった」

「それで?」

「三人が死にかけた」

「一人は助かったでしょう」

「お前がやったのか」

久能は肩をすくめた。

「風見刑事。あなたは熱血だけど、少し古い。いまどき天才犯人なんて、わざわざ自分の手を汚しません」

「じゃあ誰だ」

久能は笑みを深くした。

「時刻表を作る人間ですよ」

その言葉に、風見の背筋が凍った。

久能は続けた。

「僕は協力しただけです。音声変換と偽装送信。面白そうだったから。彼女はすごいですよ。列車の時刻、人間の行動、警察の心理、全部を一枚の紙に収める。あれは芸術だ」

「彼女?」

「おや」

久能はわざとらしく目を見開いた。

「まだ気づいていなかった?」

風見は椅子を蹴って立ち上がった。

取調室を出ると、牧田が駆け寄ってきた。

「風見さん、水野燈がいません。携帯も切られています」

風見は走り出した。

彼の頭の中で、燈の言葉が蘇る。

――時刻表を信じすぎると、時刻表に殺されます。――鉄道を愛している人間ほど、鉄道を武器にできます。――弟が、昔ここに通っていました。

水野燈。水野陽太の姉。

     *

風見は資料室に飛び込み、事件動画をもう一度見た。

牧野が映っている。背景は長沼駅。駅名標。時刻表。ホーム端の白線。だが風見は今度、違うものを見た。

駅名標の下に貼られた小さな注意書き。現行のものではない。時刻表の紙質も古い。雨の日の映像なのに、足元の水たまりに揺れがない。そして何より、発車音のあとに聞こえる電車の走行音が、遠すぎる。

「ホームじゃない」

風見は呟いた。

牧田が画面を覗いた。

「え?」

「これは長沼駅じゃない。長沼駅に似せた場所だ」

水野燈は、警察が時刻表を見ている間に、場所まで偽装していた。

古い研修用設備。廃材。駅名標。過去の時刻表。長沼駅を知る人間なら、長沼駅の幻を作れる。

動画は“二十一時十二分に長沼駅で撮られた”のではない。もっと前に、別の場所で撮られていた。

殺害時刻は時刻表が証明していたのではない。時刻表が、殺害時刻を嘘にしていた。

風見はホワイトボードを見た。三つの時刻。五時十七分、二十一時十二分、五時十七分。赤い印を縦にたどる。

駅名。列車番号。余白に残された文字。全部を重ねると、一つの場所を示していた。

長沼駅、旧保守倉庫、五番扉。

そして時間は、翌朝五時十七分。

「最後の殺人か」

牧田が青ざめた。

風見は首を振った。

「違う」

赤く囲まれた時刻表の余白には、細い字で一文字だけ残されていた。

燈。

「最後の標的は、水野燈自身だ」

     *

夜明け前、長沼駅は静かだった。

空はまだ黒い。だが東の端だけが、わずかに青い。

風見は単独で旧保守倉庫に入った。牧田には応援を呼ばせている。だが、待っていたら間に合わない。

倉庫の奥には、長沼駅のホームがあった。

本物ではない。だが本物と見紛うほど精巧だった。

古い駅名標。白線。ベンチ。時刻表。スピーカー。小さな照明に照らされた偽物のホームは、死者のために作られた祭壇のようだった。

その中央に、水野燈が立っていた。

黒いコート。手には時刻表。足元には、小さな花束。

「来ると思っていました」

燈は穏やかに言った。

風見は一歩進んだ。

「終わりだ、水野」

「終わり? いいえ。ようやく正しい時刻に戻るんです」

「久能は喋った」

「でしょうね。彼は天才ですが、空っぽです。ゲームしか見ていない」

「お前は違うのか」

燈は微笑んだ。

「最初は違いました。弟の声を誰にも聞いてもらえなかったから、聞かせたかった。ただそれだけだった」

「大石も、牧野も、吉村も罪を犯した。だが裁くのはお前じゃない」

「裁き?」

燈の目が急に冷えた。

「裁きなんて、十五年前に終わっていたんです。弟は事故で片づけられた。泣いた母は壊れた。父は黙って死んだ。私は、毎日電車の時刻を見ていました。五時十七分が来るたびに、陽太がまた死んだ」

彼女は時刻表を胸に当てた。

「だから私は、時刻表を作る側になった。時刻を支配すれば、あの日を戻せると思った」

「戻らなかっただろ」

燈の唇が震えた。

「ええ。戻らなかった」

一瞬だけ、彼女の顔から殺人者の仮面が剥がれた。そこにいたのは、十五年前の朝に弟を失った少女だった。

だが次の瞬間、彼女は笑った。

「でも、人が私の決めた時刻に怯える顔は美しかった。警察が走り回る姿も。久能が“これは芸術だ”と言ったとき、私は思ったんです。陽太を奪った世界を、ようやく私の手の中に置けたって」

風見は拳を握った。

「それが、お前の弟の望みか」

燈は黙った。

風見は懐から、一通の古い封筒を取り出した。旧保守倉庫の五番扉の裏で見つけたものだった。事件の暗号を解く途中、風見はその存在に気づいていた。

封筒には、子どもの字でこう書かれていた。

――おねえちゃんへ。

燈の表情が崩れた。

「それを……どこで」

「陽太くんが残した手紙だ。あの日、倉庫に閉じ込められる前に、ここに隠したんだろう」

燈は手を伸ばしかけ、止めた。

「読むな」

「読む」

風見は封筒を開いた。

紙は古く、端が黄ばんでいた。字は拙い。ところどころ滲んでいる。

《おねえちゃんへ。ぼくは電車のじこくをぜんぶおぼえたいです。おねえちゃんみたいにすごくなりたいです。おねえちゃんはいつもおこるけど、ほんとはやさしいです。ぼくが大きくなったら、朝いちばんの電車で海を見にいこう。おねえちゃんが泣いてたら、ぼくがわらわせます。だから、おねえちゃんはずっと生きてください。陽太》

倉庫の中で、偽物の発車ベルが鳴り始めた。

五時十七分が近づいていた。

燈は膝から崩れ落ちた。声にならない声が喉から漏れる。

「やめて……そんなの……今さら……」

「陽太くんは、お前に生きてほしかった」

「私は生きてない!」

燈は叫んだ。

「十五年前から、私は五時十七分に止まってる!」

彼女は立ち上がり、倉庫の奥へ走った。そこには本物の線路に通じる保守用扉がある。

風見も走った。

扉の先は、夜明けの長沼駅だった。空が青くなり始めている。始発前の線路は冷たく光っていた。

燈はホーム端に立った。遠くから、始発電車の接近音が聞こえる。

「水野!」

風見が叫ぶ。

燈は振り返った。涙で濡れた顔に、笑みが浮かんでいた。

「これで最後です。最後の遺体は犯人。時刻表は完璧になる」

「ふざけるな!」

風見は飛びかかった。

燈は抵抗した。二人はホームの上でもつれた。燈の手には小さな刃物があった。風見の頬を掠め、血が飛ぶ。風見は彼女の手首を掴み、必死に押さえた。

「死なせねえ!」

「なぜ! 私を憎めばいい!」

「憎んでる!」

風見は叫んだ。

「お前が殺した人たちのことも、あいつらが隠した罪も、全部許せねえ! でもな、死んで終わりにするな! 生きて、自分の罪を背負え!」

燈の力が一瞬抜けた。

その瞬間、ホームの端で小さな声がした。

「お花屋さんのおばちゃん、もういないの?」

あの夜、ホームで立ちすくんでいた少年だった。母親とはぐれ、駅員に保護されたはずの子が、なぜか戻ってきていた。

燈は少年を見た。少年の手には、大石路子の花屋で買ったらしい黄色い花が握られていた。

「おばちゃん、朝はお花に水をあげるって言ってた」

燈の顔から血の気が引いた。

遠くの電車の光が近づく。

少年が一歩、黄色い線の外へ出た。

風見より先に、燈が動いた。

彼女は少年に飛びつき、ホームの内側へ突き飛ばした。その勢いで自分の体が外へ流れる。

風見は燈の腕を掴んだ。

「離して!」

「離すか!」

電車の警笛が朝を裂いた。風見は全身の力で燈を引き上げた。肩が外れそうになる。足元が滑る。だが離さない。

牧田と駅員が駆けつけ、二人をホームに引き戻した。

電車が目の前を通過していく。風と音がすべてを奪う。

その轟音の中で、燈は子どものように泣いた。

「陽太……ごめん……ごめん……」

風見は血の滲む頬を拭い、荒い息を吐いた。

「謝る相手は、まだ大勢いる」

始発の音が遠ざかる。空が白み始めていた。

     *

水野燈は逮捕された。

久能隼人も共犯として逮捕された。吉村は十五年前の隠蔽を証言した。大石と牧野の死は戻らない。陽太の死も戻らない。

新聞は事件をこう呼んだ。

長沼駅時刻表連続殺人。

だが風見には、その名前がひどく軽く思えた。

時刻表が人を殺したのではない。人が、人を殺した。そして人が、人を見捨てた。その結果だけが、十五年かけて正確に到着した。

数日後の朝、風見は長沼駅を訪れた。

ホームにはいつものように人がいた。眠そうな学生。仕事へ向かう会社員。手をつないだ親子。駅前には、小さな花瓶が置かれていた。大石路子の店を継いだ娘が置いたものだという。

黄色い花が、朝日に照らされていた。

牧田が隣に立った。

「風見さん」

「何だ」

「こういう事件のあとでも、電車って普通に来るんですね」

風見は線路の先を見た。

「来るさ」

「むなしくないですか」

「むなしいよ」

風見は答えた。

「でも、来なきゃ困る人がいる。朝が来なきゃ、生きられない人がいる」

電車の接近音が聞こえた。

風見はポケットから、陽太の手紙のコピーを取り出した。原本は証拠品として保管されている。

《おねえちゃんはずっと生きてください。》

その一文を見て、風見は目を閉じた。

どれだけ恐ろしい夜でも。どれだけ人間が愚かでも。どれだけ正義が遅れても。

電車は来る。朝は来る。

長沼駅のホームに、始発が滑り込んだ。

扉が開く。人々が乗り込む。

風見烈は、昇り始めた太陽を見た。

それは、誰にも殺せなかった。

 
 
 

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