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陽はまた昇る。ならば、死ね

――東海道新幹線“零秒”連続殺人

※作中の列車番号・時刻・駅構内描写は物語用の架空設定です。

清水署の刑事課に、朝日が差し込む時刻がある。

午前五時四十七分。

窓の外、清水港のクレーンが黒い腕を伸ばし、駿河湾の水面にはまだ夜の色が残っていた。だが、遠くの空だけが薄く裂けて、そこから金色の光がこぼれはじめる。

刑事の朝倉烈は、その時間が嫌いだった。

十五年前、妻の美咲が死んだのも、その時間だったからだ。

「朝倉さん。これ、見てください」

若い女刑事、白石美緒が、息を切らせて捜査一課の部屋へ入ってきた。清水署に配属されて二年目。色白で、静かな目をしている。だが時刻表を前にすると別人になる女だった。

彼女の手には、白い封筒があった。

宛名は活字で印刷されていた。

清水署 朝倉烈刑事殿

烈は眉をひそめ、封を切った。

中から出てきたのは、一枚の時刻表だった。

東海道新幹線。

赤いペンで三つの時刻が囲まれている。

六時〇〇分 東京発六時四十一分 富士川通過六時五十七分 静岡着

そして余白に、細い文字でこう書かれていた。

死体は六時のひかりに乗った。でも、殺したのは六時四十一分だ。君たちの足では間に合わない。――MAX

「悪ふざけか」

烈が吐き捨てた瞬間、内線電話が鳴った。

美緒が受話器を取った。顔色が変わった。

「朝倉さん……静岡駅です。東海道新幹線、ひかり三七二号の八号車で男性が倒れているって」

烈は椅子を蹴るように立ち上がった。

「行くぞ」

「はい」

清水港の朝日が、署の窓にまっすぐ突き刺さった。

その光は妙に冷たかった。

静岡駅の新幹線ホームは、乗客のざわめきで凍っていた。

ひかり三七二号は、東京を六時ちょうどに出た列車だった。静岡着は六時五十七分。封筒の時刻表とぴたり一致していた。

八号車の多目的スペースに、男が座っていた。

いや、座らされていた。

高級そうなスーツ。膝の上には、折り畳まれた時刻表。胸ポケットには一輪の白い菊。

男の名は神崎修一。

清水港再開発を仕切る大手建設会社の専務だった。

死因は、首筋に入れられた細い傷による急性失血死。犯人は必要最小限の動作で、正確に命を奪っていた。

「死亡推定時刻は?」

烈が鑑識に聞く。

「六時半から七時前後。ただ……」

「ただ?」

「被害者のスマホに、六時四十一分の動画通話履歴があります。相手は匿名アカウント。三十秒だけ録画が残っていました」

鑑識がスマホを再生した。

画面の中で、神崎修一は青ざめた顔をしていた。

背後には新幹線の車窓。白く霞んだ富士山が流れている。

神崎は震える声で言った。

「助けてくれ……私は……私は言われた通りに……」

そこで、車内チャイムが鳴った。

つづいて、機械的な声。

「ただいま、富士川を通過いたしました。まもなく静岡です」

画面の端に、時刻が映る。

6:41

次の瞬間、神崎の表情が歪んだ。

映像は途切れた。

美緒が時刻表を開く。

「ひかり三七二号が富士川付近を通過するのは、六時四十一分。封筒と同じです」

「じゃあ、犯人はその時、列車内にいた」

「普通なら、そうです」

「普通なら?」

美緒はホームの先を見た。

「でも、朝倉さん。容疑者候補がもう一人出ています」

彼女がタブレットを見せた。

東京駅の防犯カメラ映像。

午前六時四十分。

黒いコートの男が、改札前で新聞を買っている。顔ははっきり映っていた。

灰原零。

元天才プログラマー。鉄道ダイヤ解析ソフトで巨万の富を得た男。十年前、知能指数測定で上限を振り切り、週刊誌に「IQ MAX」と呼ばれた人物だった。

「灰原は神崎と金銭トラブルがあった。殺害動機あり。でも六時四十一分、東京駅にいた」

「静岡行きの列車の中で殺して、同時に東京にいる?」

烈は鼻で笑った。

「幽霊でも雇ったか」

その時、神崎のスマホが鳴った。

烈は画面を見た。

発信者名は、たった三文字。

MAX

烈は通話ボタンを押した。

『朝倉烈刑事』

声は若い男のようで、老人のようでもあった。加工され、温度がなかった。

『時刻表は美しいだろう。人間の人生より、ずっと正直だ』

「おまえが殺したのか」

『違う。僕は時刻を守っただけだ』

「ふざけるな」

『次は十一時二十三分。新富士駅。こだま五二九号。遅れるなよ、熱血刑事』

通話は切れた。

烈は歯を食いしばった。

「美緒」

「はい」

「時刻表を全部洗え。灰原の動きもだ。あいつが東京にいたなら、東京にいた証拠ごと壊してやる」

美緒は静かにうなずいた。

だがその横顔は、なぜか泣き出しそうに見えた。

第二の死体は、予告通り新富士駅で見つかった。

午前十一時二十三分。

こだま五二九号が新富士駅に到着し、乗客が降りた直後、九号車の最後列で女が発見された。

被害者は久我谷早苗。

元裁判官。

七年前、清水市内で起きた大型バス横転事故の裁判を担当し、整備会社と建設会社の過失を認めず、運転手一人に責任を負わせた人物だった。

その事故で、園児八人が死んだ。

清水では、今も忘れられていない事件だった。

烈も覚えていた。

雨の朝だった。

海沿いの道で、保育園の遠足バスが横転した。道路工事の仮設標識が倒れ、運転手が避けようとしてハンドルを切った。だが裁判では、標識の設置不備はなかったとされた。

資料を作ったのは、神崎修一の会社。

判決を書いたのが、久我谷早苗。

「復讐か」

烈はつぶやいた。

久我谷の膝にも、時刻表が置かれていた。

赤丸で囲まれていたのは、三つの時刻。

十時五十八分 三島発十一時十一分 新富士着十一時二十三分 発見

そして余白。

裁いた者は、裁かれる席に座れ。――MAX

美緒が硬い声で言った。

「灰原零ですが、十一時二十一分に京都駅のカフェでカード決済しています」

「またか」

「映像もあります。本人に見えます」

「見える、か」

烈は久我谷の足元を見た。

座席下に、小さな折り紙が落ちていた。

太陽の形に折られている。

美緒がそれを拾おうとした。

「触るな」

烈が制した。

美緒は手を止めた。

「すみません」

「いや……」

烈は折り紙を見つめた。

その折り方を、彼は知っていた。

十五年前、妻の美咲が病室で折っていた。入院中の子どもたちを笑わせるために、太陽の折り紙を作っていた。

「朝倉さん?」

「なんでもない」

だが胸の奥に、嫌な棘が刺さった。

その時、駅のスピーカーから発車ベルが鳴った。

こだま五二九号のドアが閉まる。

烈はホームの端に目をやった。

黒いコートの男がいた。

灰原零。

映像と同じ顔。

同じ薄い笑み。

「灰原!」

烈が叫ぶ。

男は笑った。

そして、人波の中へ走った。

烈は追った。

新富士駅の改札へ向かう階段。観光客の悲鳴。スーツケースが倒れ、子どもが泣く。

灰原は振り返りもせず走った。

烈は欄干を飛び越え、階段の途中へ着地した。膝に衝撃が走る。かまわず駆ける。

灰原が駅ビルの裏手へ出た。

そこには業務用の搬入口があった。

烈が角を曲がった瞬間、灰原の腕が伸びた。

細い金属棒が、烈の喉を狙う。

烈は上体を反らし、灰原の手首をつかんだ。男の力は細い体に似合わず強かった。

「おまえがMAXか!」

灰原は笑った。

「MAX? いい名前だ。だが、名前に縛られるのは凡人だよ、刑事さん」

烈は男の腹に膝を入れた。

灰原がよろめく。

だが次の瞬間、灰原は搬入口のシャッター脇へ身を翻し、何かを押した。

非常ベルが鳴った。

周囲が赤く点滅する。

烈が一瞬ひるんだその隙に、灰原は配送トラックの陰へ消えた。

追いかけようとした烈の前に、美緒が飛び込んできた。

「朝倉さん、ダメです!」

「どけ!」

「罠です!」

直後、トラックの荷台から白煙が噴き出した。

催涙煙だった。

烈は咳き込み、膝をついた。

灰原の声だけが、煙の向こうから聞こえた。

「時刻表を信じすぎるな。だが、疑いすぎても遅れる」

美緒が烈の肩を支えた。

「朝倉さん!」

烈は煙の中で叫んだ。

「逃がすか……!」

だが灰原は消えていた。

残っていたのは、一枚の切符だけだった。

ひかり四四四号静岡十七時二十三分発東京行

裏には赤い文字。

最終問題。陽が沈む前に、最後の嘘を殺す。――MAX

清水署へ戻った烈は、古い事件記録をひっくり返した。

七年前のバス横転事故。

死んだ園児八人。

その中に、一人だけ、妙に目を引く名前があった。

白石晴斗。

当時五歳。

烈は背筋が冷たくなった。

白石。

「美緒」

彼女は資料室の入口に立っていた。

「はい」

「おまえ、あの事故で弟を亡くしているのか」

美緒の表情は変わらなかった。

「はい」

「なぜ言わなかった」

「捜査に私情を入れたくありませんでした」

「そんなことで済む話か」

「朝倉さんなら、私を外します」

烈は黙った。

確かに外しただろう。

美緒は静かに言った。

「でも私は、MAXを捕まえたいんです」

その声は震えていなかった。

震えていないからこそ、烈は怖かった。

「弟は、朝が好きでした」

美緒は窓の外を見た。

「毎朝、太陽が昇ると、『今日も世界が始まった』って言っていました。五歳のくせに、変な子でした」

「美緒……」

「事故のあと、みんな言いました。つらくても、陽はまた昇るって」

彼女は笑った。

「でも、昇るのは太陽だけでした。弟は昇らなかった」

烈は何も言えなかった。

その沈黙を破ったのは、鑑識からの電話だった。

第一、第二の現場映像の解析結果。

烈は受話器を握りしめる。

「何?」

彼の目が鋭くなった。

「もう一度言え」

美緒が振り向く。

烈は通話を切り、彼女に言った。

「映像の富士山だ」

「富士山?」

「第一の動画。六時四十一分、ひかり三七二号の車内から富士山が映っていた。だが、光の当たり方がおかしい」

美緒の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。

烈は続けた。

「六時四十一分なら、朝日は東から低く差す。ところが映像の富士山は、南西から光を受けていた。あれは朝じゃない。午後だ」

美緒は小さく息を吸った。

「つまり動画は……」

「録画だ。少なくとも前日の午後に撮られた」

烈は机の上の時刻表を叩いた。

「神崎は六時四十一分に殺されていない。殺害時刻そのものが嘘だ」

「でも、車内チャイムと案内放送は?」

「録音だ。時刻表に合わせて流せば、誰でも信じる。俺たちは列車を見たんじゃない。列車らしい音を聞いただけだ」

美緒は目を伏せた。

「では、灰原のアリバイは……」

「殺害時刻が嘘なら、アリバイも意味がない」

烈は立ち上がった。

「犯人は時刻表で移動したんじゃない。俺たちの頭の中で移動したんだ」

その瞬間、署内の大型モニターが勝手に点灯した。

画面に文字が浮かんだ。

正解に近づいた。だが、まだ遅い。

次に映ったのは、新幹線の車内だった。

ひかり四四四号。

十七時二十三分、静岡発。

座席に老人が縛られている。

元整備会社社長、椎名義臣。

七年前の事故で、バスの点検記録改ざんを疑われながら不起訴になった男だった。

老人の隣には、黒いコートの人物。

声が流れる。

『最後の嘘を殺す。陽が沈む前に』

烈は机を蹴った。

「全員動け! 静岡駅へ急げ!」

美緒も走り出した。

だが烈は、その背中を見ていた。

一つだけ、引っかかっていた。

モニターに映ったひかり四四四号の座席。

黒いコートの人物の足元。

そこに、梅干しの包み紙が落ちていた。

烈が今朝、美緒に渡した弁当のものだった。

静岡駅は夕方のラッシュでごった返していた。

ひかり四四四号は、発車二分前。

烈は改札を強行突破し、ホームへ駆け上がった。駅員の制止も、乗客の怒号も、耳に入らない。

美緒が後ろから叫ぶ。

「朝倉さん、八号車です!」

二人は八号車へ飛び込んだ。

発車ベル。

ドアが閉まる。

列車がゆっくり動き出す。

烈は車内を走った。

八号車。

老人、椎名義臣が座席に縛られている。

隣の黒いコート。

烈は飛びかかった。

男は振り向く。

灰原零だった。

「遅かったな、刑事」

烈は灰原の胸倉をつかみ、通路へ叩きつけた。乗客が悲鳴を上げる。

灰原は笑いながら、袖から小型の刃を出した。

烈は腕を払う。

刃が座席の肘掛けを裂いた。

灰原は身軽だった。通路を後ろ向きに逃げ、デッキへ出る。烈が追う。

デッキで二人は激突した。

列車が加速する。

窓の外を、夕暮れの静岡が流れていく。

灰原の拳が烈の頬に入る。烈は倒れない。灰原の腹を殴る。灰原が吐きそうな顔をする。

「おまえがMAXか!」

烈が怒鳴る。

灰原は血の混じった唾を吐いた。

「まだそれを聞くのか。頭が固いな、刑事」

「答えろ!」

「MAXは、僕より賢い」

その言葉で、烈の中の何かが凍った。

灰原は笑った。

「僕はただの出演者だ。天才役のね」

烈は灰原を床に押さえつけ、手錠をかけた。

その瞬間、車内放送が流れた。

『ただいま、富士川を通過いたしました』

烈の顔から血の気が引いた。

この列車はまだ富士川に達していない。

早すぎる。

録音。

同時に、椎名義臣の座席から電子音が鳴った。

烈は八号車へ戻ろうとした。

だが八号車に、美緒はいなかった。

椎名の姿もない。

「美緒……!」

烈は車両を走った。

九号車、十号車、十一号車。

乗客の間を押し分ける。

グリーン車のデッキで、彼女は待っていた。

白石美緒。

その足元に、椎名義臣が倒れていた。生きている。だが意識はない。

美緒の手には、細い刃物。

もう片方の手には、太陽の折り紙。

「やっぱり、朝倉さんは来ましたね」

その声は、いつもの美緒だった。

静かで、丁寧で、少し寂しそうな声。

烈は足を止めた。

「おまえが……MAXか」

美緒は微笑んだ。

「MAXなんて、週刊誌が灰原につけた名前です。借りただけです。警察は天才の顔が欲しい。世間は怪物の名前が欲しい。だから用意しました」

「灰原は?」

「自分が物語の主人公だと思っている哀れな人です。犯罪ゲームだと信じさせました。彼は人を殺していません。殺したと思って酔っていただけ」

烈は拳を握った。

「神崎も、久我谷も、おまえが殺したのか」

「はい」

迷いのない返事だった。

列車の揺れが、妙に大きく感じられた。

美緒は続けた。

「神崎は弟たちの死を、道路工事の偶然にしました。久我谷はそれを判決にしました。椎名は点検記録を消しました。みんな言いました。時刻表通りにバスは出た。標識は規定通りに立っていた。記録上、何も問題はなかった」

彼女の目に、初めて涙が浮かんだ。

「記録上、弟は死んでも仕方なかったんです」

烈は一歩進んだ。

「だから殺したのか」

「はい」

「楽しんだのか」

美緒は笑った。

それは、烈が見たことのない笑みだった。

「最初は怖かったです。でも、神崎が命乞いした時、思ったんです。ああ、この人にも怖いものがあったんだって。弟がバスの中で感じた恐怖を、この人もやっと知ったんだって」

「美緒!」

「それを楽しいと言うなら、私は楽しかった」

烈の胸に、怒りより先に悲しみが来た。

彼女は続けた。

「時刻表アリバイは簡単でした。人は時計を信じます。列車の音を信じます。案内放送を信じます。映像の端に時刻を出せば、真実だと思い込む。神崎は出発前に殺しました。久我谷は発見時刻のずっと前に殺しました。死亡時刻は、録画と音で作りました」

「警察を笑っていたのか」

「警察じゃありません。記録を笑っていました」

「同じだ!」

烈は叫んだ。

「おまえは弟を殺した連中と同じことをした! 数字で人を消したんだ!」

美緒の顔が歪んだ。

「違う!」

「違わない!」

列車が大きく揺れた。

デッキの自動扉が開き、風の音が響く。

美緒は刃物を椎名の首元へ向けた。

「これで終わりです」

「やめろ」

「終わらせてください、朝倉さん」

「やめろ!」

「陽はまた昇るって、みんな言いました」

美緒の涙が頬を伝った。

「でも、朝が来るたびに思うんです。弟のいない世界が、また始まってしまったって」

烈は動けなかった。

彼女は、彼の相棒だった。

弁当を食べる時、いつも梅干しを最後に残す女だった。

徹夜の捜査で、眠る若い巡査にそっと毛布をかける女だった。

被害者遺族の子どもに、太陽の折り紙を渡した女だった。

その手が、人を殺した。

世界は、そんなふうに壊れる。

「美緒」

烈は声を落とした。

「俺の妻も、朝に死んだ」

美緒の刃が止まった。

「知っています」

「俺も嫌いだった。陽はまた昇るなんて言葉が。ふざけるなと思った。昇るなら、美咲を連れてこいと思った」

烈はゆっくり近づいた。

「でもな、美緒。陽が昇るのは、許すためじゃない」

「……」

「生き残った人間に、今日を押しつけるためだ。どれだけ嫌でも、どれだけ虚しくても、今日を生きろってな」

美緒の肩が震えた。

「そんなの、残酷です」

「ああ。残酷だ」

烈はうなずいた。

「でも、おまえが殺した人間の家族にも、明日は押しつけられるんだ」

美緒の顔が崩れた。

その一瞬を、烈は逃さなかった。

彼は踏み込んだ。

美緒が刃を振る。

烈の腕に赤い線が走った。

だが烈は止まらない。

刃物を握る手首をつかみ、壁へ叩きつける。美緒が呻く。烈は彼女を抱えるように押さえ込んだ。

美緒は暴れた。

「放して!」

「放すか!」

「私には、もう何もない!」

「だったら俺が見てやる!」

烈は叫んだ。

「おまえが何もない場所から、どう生きるかを、俺が見てやる!」

美緒の力が抜けた。

その瞬間、列車が急減速した。

非常停止。

乗客の悲鳴。

デッキのガラスに、夕陽が砕けたように広がった。

美緒は烈の腕の中で泣いた。

子どものように。

「弟に……会いたい……」

烈は何も言わなかった。

ただ、手錠をかけた。

それが刑事の役目だった。

それが、彼にできる唯一の優しさだった。

夜明け前、清水港に戻った烈は、一人で海を見ていた。

事件は終わった。

神崎修一、久我谷早苗は死亡。

椎名義臣は命を取り留めたが、七年前の事故資料改ざんについて再捜査が始まった。

灰原零は殺人幇助ではなく、脅迫と偽計業務妨害の容疑で取り調べられた。彼は最後まで、自分が天才犯罪者の物語に選ばれたのだと信じていた。

白石美緒は、黙秘していた。

ただ一つだけ、烈に伝言を残した。

朝倉さん。陽はまた昇るのですね。それが罰でも。

烈はその紙を、何度も読み返した。

清水港の空が白みはじめる。

海鳥が鳴く。

市場では、もう人が働きはじめている。

誰かが魚を運び、誰かが湯気の立つ味噌汁をすすり、誰かが今日の売上を心配している。

世界は、何事もなかったように動き出す。

それが烈には、たまらなく虚しかった。

死んだ者は戻らない。

裁きがあっても、失われた朝は戻らない。

美緒の弟も、烈の妻も、二度と朝日を見ない。

それでも、東の空は赤く燃えた。

烈は腕の傷を押さえながら、ゆっくり息を吐いた。

背後から、小さな声がした。

「刑事さん」

振り向くと、神崎修一の娘、結衣が立っていた。

事件後、事情聴取で何度か会った少女だった。

彼女は烈に、折り紙を差し出した。

不器用な太陽だった。

「白石さんが、前に折り方を教えてくれました」

烈は受け取った。

「そうか」

「お父さんは悪いことをしたんですか」

烈は答えられなかった。

子どもに言える真実と、言えない真実がある。

だが嘘は言えなかった。

「悪いことをしたかもしれない」

少女の目が揺れた。

烈は続けた。

「でも、君がお父さんを好きだったことは、悪いことじゃない」

結衣は唇を噛み、やがて小さくうなずいた。

朝日が、二人の足元に伸びた。

烈は折り紙の太陽を見た。

美緒が殺した。

美緒は泣いた。

灰原は笑った。

神崎は死んだ。

久我谷も死んだ。

椎名は生き残った。

七年前の子どもたちは戻らない。

答えは、どこにもない。

それでも、朝は来る。

罰のように。

祈りのように。

烈は少女の肩に、そっと手を置いた。

「帰ろう」

「どこへ?」

「今日へ」

結衣は少しだけ首をかしげた。

そして、泣きながら笑った。

清水港の向こうで、陽が昇った。

東海道新幹線の高架を、一筋の光が走っていく。

まるで、死者たちの時刻表を焼き切るように。

 
 
 

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