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雨と霧の国書(くにぶみ)—日本建国、風土の記憶


序章 紙より先に、雨が降る

雨は、紙より先に降る。

屋根瓦を打つ音が、まだ薄暗い庭の石を叩き、叩いて、叩いて、やがて叩くことに飽きたみたいに間をあける。間をあけたと思ったら、また思い出したように強くなる。雨はいつだって、こちらの都合に合わせない。

硯の水は冷たく、指先が季節を知る。墨を摺る音は、雨の音に少し似ている。いや、似ているのは音ではなくて、しつこさの方だ。黒は黒になるまで何度も何度も磨り減って、やっと言葉の形を借りる。

私は、編纂局の朝の匂いが好きだった。湿った木の匂い、乾きかけの墨の匂い、紙の匂い。それらが混ざって、ひとつの国の鼻先みたいな匂いになる。

廊下の向こうで、誰かがくしゃみをした。春のくしゃみではない。寒気が鼻をつつく、冬のくしゃみだ。建国の話を書き始める日に限って、空気は細く冷たい針を持っている。

「おい、摺りすぎだ。墨が濃すぎると、神が怒るぞ」

声の主は、同じ部屋の端に座る同僚——若いのに目の下に墨のような隈を作っている、史生のナガタだ。彼は紙束を抱えたまま、肩で息をしている。抱えているのが紙束なのか、ため息の束なのか、どちらか分からない。

「神は、濃い墨より薄い墨で怒ると思うが」私が言うと、ナガタは紙束から顔だけを出して、嫌な笑いをした。

「どっちでも怒る。要するに、神はよく怒る」

その時、戸が乱暴に叩かれた。雨を避けて走った足音が、廊下にぬめった跡を残すような勢いで近づく。

「史官殿! お達しです!」

若い使いの者が、肩から雨を滴らせて入ってきた。彼の髪から落ちる雫が畳に小さな黒い点を作り、それがじわじわ広がっていく。雨はこうして、勝手に地図を描く。

使いの者は、濡れた袖で懐を探り、封じられた木簡を取り出した。封の紐はぴんと張っている。つまり、急げという合図だ。急げと言われたところで、雨は急がないのに。

「上より。至急、御前へ」

木簡の角を受け取った瞬間、指先が冷えた。木が冷たいのではなく、命令の温度がないのだ。命令はいつも、人の熱を借りずに歩いてくる。

私は封を解き、短い文を読んだ。

——来たる節目の日に際し、国の始まりを、よく分かる形で整えよ。異伝は整理せよ。人心を乱すことなきように。急げ。

読み終えた瞬間、部屋の空気が少し重くなった。墨の匂いが濃くなった気がした。ナガタが紙束を床に置き、紙の角を丁寧に揃えながら、ぽつりと言った。

「節目の日、だとさ」「節目の日、とは何だ」「知らない。上が“節目”と言えば節目だ。魚が跳ねる日かもしれないし、鹿が増える日かもしれない」「ふざけるな」「ふざけていない。むしろ真面目だ。人は節目が好きだ。節目に何かを言い切って、言い切ったことにしたがる」

彼の言葉は軽いが、軽さが悪いのではない。軽さの裏に、疲れが貼り付いている。

編纂局の私たちが書いているのは、『国の本』だ。誰もが口にするが、誰もが最後まで読まない本。だが、読まないからこそ怖い。読まれないまま、言葉だけが独り歩きする。言葉が独り歩きするとき、足音は大きくなる。

私は立ち上がり、袖で手を拭いてから、木簡を机の上に置いた。雨の音が一段強くなった。まるで、空が「さあ、やれ」と言っているみたいに。

「異伝は整理せよ、だそうだ」私は言った。「整理できると思いますか」

ナガタは紙束から一枚抜き、ひらりと空に向けた。紙は薄い白で、朝の光を少しだけ透かした。紙の上には、同じ事件について書かれた別々の文が並んでいる。端には、あの便利で腹立たしい言葉が何度も踊っている。

——一書曰く。

「“一書曰く”が多すぎるんですよ、この国は」ナガタは苦笑した。「一書って、どの書だ。誰の書だ。どこに置いてある。貸し出しはできるのか。返却期限はあるのか。……って、そういう話じゃない」「それが話なんだ」

私は紙を覗き込む。そこには、同じ神の同じ行為が、少しずつ違う言い方で並んでいる。まるで雨粒が、同じ瓦を叩いているのに、一粒ごとに音色が違うように。

「異伝は、乱れではない」私はつぶやいた。「異伝は、土地の癖だ」

私たちが書き留めようとしているのは、単なる出来事ではない。出来事の“残り香”であり、言い回しの“湿り気”であり、聞いた人の舌の上に残る“塩味”だ。ひとつにまとめるほどに、薄まってしまうものがある。

しかし、上は言う——よく分かる形で整えよ。人心を乱すことなきように。

分かりやすさのために、複雑さを切り捨てる。混ざり合いを分けて、瓶に詰め直す。そうして出来た透明な水は、確かに澄んでいるが、魚が住めない。澄んでいるのに、生き物がいない。

戸口に立っていた使いの者が、恐る恐る言った。

「史官殿、御前へは……」「行く」私は答えた。「だが、その前に」

私は硯の水面を見た。小さな波紋が立っている。誰も触れていないのに。雨の音が、硯の水にまで届いているのだ。つまり、外の天気は部屋の中にまで入り込んでいる。国とは、こういうことだと思った。境界はあるが、完全ではない。湿り気は勝手に越境する。

「ナガタ、紙を守れ」「守るって、何から」「神からだ」「無理だよ」「無理でもやれ」「上からも神からも、無理しか来ないんだな」

ぼやきながらも、ナガタは紙束に布を掛けた。布の端を文鎮で押さえる仕草が、まるで祭の準備のように丁寧だった。紙は軽い。軽いから、風に負ける。軽いから、言葉が飛ぶ。軽いから、国になる。

私は草履を履き、戸を開けた。

外は、白い雨の幕だった。雨粒が空から降りるのではなく、空そのものがほどけて落ちてくるような雨。庭の石は黒く光り、苔はいつもより深い緑になっている。小さな水たまりの縁で、落ち葉がゆっくり回っていた。葉は自分の意思で回っているのではない。水の流れに回されている。それでも、回っている姿はどこか誇らしげだった。

廊下を渡ると、足袋が湿った。湿り気は、ただの不快ではない。湿り気は、生き物の側にある。乾き切ったものは、もう生きていない。

ふと、風が吹いた。

雨の幕が一瞬だけ斜めになり、その向こうに、山の輪郭が見えた。山はいつも同じ場所にあるのに、こうして隙をついて姿を現すと、初めて会った人みたいに新鮮だ。山は言葉を持たないが、決して黙ってはいない。輪郭で語る。雪の線で語る。木の色で語る。雲の低さで語る。

——国のはじまりは、言葉より先に、地形が書いている。

私はそう思った。

御前で求められるのは、整えられた物語だろう。一本の道のように見える物語。迷いのない物語。誰もが安心して「そうか」と頷ける物語。

しかし、私がこれから書かなければならないのは、雨みたいな物語だと思った。

雨は、まっすぐ落ちることもある。斜めに打ちつけることもある。霧みたいに漂うこともある。突然やむこともある。突然始まることもある。人はそれを不安定だと言う。だが、雨がなければ米は育たない。雨がなければ川は流れない。雨がなければ苔は生きられない。つまり、雨はこの国の“続き方”なのだ。

私は、袖で顔の雨を拭いながら、歩いた。土の匂いが立ち上がり、鼻の奥まで入ってきた。土は言う。「ここは私の国だ」と。土は威張らない。ただ、事実としてそこにいる。

編纂局の門が見える。門の向こうに、御前へ続く道がある。道の両脇の草は雨に打たれて、少し頭を下げている。だが折れてはいない。しなっている。しなるというのは、折れないための技だ。

私はその草のしなり方を見て、決めた。

上が求める“整った物語”を出すのは、こちらの仕事だ。だが、それだけでは足りない。国は、整いすぎた言葉だけでは持たない。湿り気と、矛盾と、異伝のざわめきがあって、初めて息をする。

だから私は、書く。

神々の名を借りて、土地の声を書く。英雄の歩みを借りて、地形の癖を書く。勝利の宣言を借りて、雨の匂いを書く。

雨は、紙より先に降る。

私たちの国は、たぶん、そうやって始まったのだ。

門をくぐるとき、背後でまた一つ、くしゃみがした。誰かが笑った気配もした。雨の中の笑いは、火のない焚き火みたいにあたたかい。私はその音を、今日の最初の注釈として心に書き留めた。

——一書曰く、雨の日の笑いは、国を少しだけ長持ちさせる。

 
 
 

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