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雨のバス停・時刻の方程式(舞台:静岡市清水区 御門台)

 幹夫青年は、御門台の坂を下りきったところの、小さなバス停の屋根の下に立ってゐました。 屋根は低く、板は薄く、しかし雨を受けるには十分です。 雨は、強くはありません。けれど、やめる気もありません。

 ぽつ。 ぽつ。 たた。

 屋根に当たる雨の音は、板の厚さで少し変はります。 薄い板は、雨をそのまま教へます。 ――いま、落ちた。 ――いま、また落ちた。 音が短いから、言ひ訳が入りこめません。

 幹夫が息を吐くと、白い息がふうっと出て、雨の湿り気に触れて、すぐほどけて消えました。 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。

 (ことばも、白い息みたいならいい。  出て、消えて、でも少しあたたかい。)

 けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。

 ――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」

 そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。

 バス停の柱に、時刻表が貼ってありました。 透明なカバーの中で、数字が並んでゐます。 雨粒がそのカバーを伝って、縦の線になり、数字の上をゆっくり滑りました。 数字が濡れても、数字は変はりません。 変はらないものがあると、人は少し落ち着きます。

 幹夫は、時刻表の数字を見ました。 次のバスまで、あと何分。 “あと何分”といふのは、時計の上ではただの差です。 けれど雨の中では、その差に温度がつきます。 寒い差。 あたたかい差。 待つといふことが、皮膚の上に出るからです。

 雨は舗道にも落ちてゐました。 雨粒がアスファルトへ当たり、いちどだけ白い点になって、それからすぐ闇へ溶けます。 点はたくさん落ちるので、やがて地面の上に、見えない方眼紙が出来ていくやうに思へました。 点が打たれれば、座標ができる。 座標ができれば、式が書ける。

 (舗道が、方程式を受け取ってゐる。)

 幹夫は、そう思ひました。 方程式は、叱りません。 ただ「成り立つかどうか」を静かに示すだけです。 胸の裁判官の机の音は、いつも叱りの音なので、幹夫は、式の静けさが好きでした。

 そのとき、バス停の向うから、傘の骨が少し歪む音がしました。 見れば、学生らしい女の子が、小さな傘を持って走って来ます。 走ると、雨が透明な粉になって跳ね、靴のまはりに小さな輪を作りました。

「……すみません、次、来ますか」

 女の子の声は、雨の音に少し削られて、短く届きました。 削られると、余計な飾りが落ちます。 落ちた声は、まっすぐです。

 幹夫は、時刻表を見て、指で数字をなぞりました。 雨粒が指先に当たり、冷たいのに、冷たいだけではありません。 冷たいものは、いまをはっきりさせます。

「……あと、七分です」

 言ってしまったあとで、幹夫は少し驚きました。 自分の声が、きちんと外へ出たからです。 でも、その驚きは白い息みたいにすぐ消えました。

 女の子はほっとして、白い息を吐きました。

「よかった……遅れたら、終わりで」

 終わり。 その言葉が、幹夫の胸に小さな火花を作りました。 幹夫も、返事が遅れたら終わりみたいに思ってゐたのです。 でも、雨は終わらない。 点が落ちて、消えて、また落ちる。 消えるのに、続く。

 幹夫は、ふいに理科の授業の黒板を思ひ出しました。 速さは、距離を時間で割る。 v = d / t そんな式が、白いチョークで書かれてゐました。

 (待つ時間 t は、ただの t ぢゃない。) (雨の温度と、息の白さと、胸の重さが混ざった t だ。)

 でも、式はやっぱり式です。 混ざってゐても、どこかで整理できる。 整理できれば、一本だけ残る。

 女の子が、傘の縁から落ちる雨を見ながら言ひました。

「雨って、時間の音みたいですね」

 幹夫は、その言葉に、こくりとうなづきました。 雨は、秒針です。 秒針は短い。短いから、言ひ訳が入りこめません。 だから、雨の中では、いまがよく見えます。

 やがて、遠くから、バスのエンジンの低い音が来ました。 音は、見えないのに近づきます。 近づくと、雨の音の粒が、少しだけそろって聞こえました。 まるで、方程式の右辺と左辺が、ぴたりと合はさる瞬間みたいに。

 バスが停まり、ドアが開くと、あたたかい空気が一すじ流れ出ました。 その一すじに押されて、幹夫の白い息がふわりと曲がり、すぐ消えました。 消えるのに、あたたかい。 あたたかいのに、残らない。 残らないから、重くならない。

 女の子は「ありがとうございます」と言って、先に乗りました。 幹夫はその背中を見送りながら、胸の中の裁判官の机の音が、いま、ひどく遠いのに気づきました。 雨の点が机の上にまで落ちて、机の輪郭を曖昧にしてしまったのです。

 幹夫は、バスに乗りませんでした。 乗らないのは、強がりではありません。 ただ、いまはこの屋根の下で、式が一つ解けた気がしたからです。

 幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど、雨粒がガラスの上に点を打つのを見ると、その白さが少しやわらぎます。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 雨は点で十分です。 点が集まれば、道になる。 なら、ことばも一行でいいのです。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「御門台の雨のバス停。雨が時間の方程式みたいで、胸がほどけた。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、雨の点が地面に落ちて円を広げるみたいに、ことばが一つ、外へ広がったのです。

 雨はまだ降ってゐます。 降ってゐるのに、幹夫はもう「困った」とは思ひませんでした。 雨は答へをくれません。 けれど雨は、時間を点にして、式の形にして、御門台の舗道へ置いてくれます。 式になれば、次に何をすればいいかが、すこしだけ分かります。

 幹夫青年は、御門台の雨のバス停で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、雨の点と時刻表の数字を見て、ひとこと送っただけです。 けれど、その“一行”は、雨の点と同じやうに、確かに落ちて、どこかの心の舗道に、小さな円を広げるかもしれません。

 
 
 

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