静けさの返事
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 10分

九月の半ばの蒲原は、朝だけ秋の顔をして、そのあとすぐ、夏の名残りをもう一度胸に抱えてしまいます。畦道の草の露は、夜の冷たさをまだ丸い玉のまま持っていて、指先で触ると、すうっと消えていくくせに、消えたあと指の腹にだけ、ひんやりが残りました。みかん畑の葉は重たく、裏の白い粉が、今日はいつもよりはっきり見えます。駿河湾の上は薄い硝子みたいに静かで、波の白い縁取りさえ、どこか遠慮しているようでした。
幹夫は八つ。縁側の前で、靴をそろえる手が、いつもよりゆっくりになっていました。
理由はひとつです。
風が、ない。
風がないと、窓辺のものが鳴りません。 青いガラスの星は、からり、と言わない。 銀の輪も、きん、と言わない。
鳴らないだけなのに、幹夫の胸の奥の空洞は、鳴らないことを大きく聞いてしまいます。空洞は耳が大きいのです。耳が大きいと、音のない音が、いちばん響きます。
幹夫は窓辺を見ました。 青い星は、ただ青いまま揺れていません。 割れた貝の星座の箱は、黙って砂の上の欠片を抱いています。 空の蛍瓶は、透明のまま「返した手触り」を持っています。 虹の海硝子は、光を受けても今日は薄いまま。 竹の短冊も、さらり、と鳴らず、紙の顔で止まっています。 そして銀の輪は――ほんとうに月みたいに、ただそこに掛かっている。
幹夫は、息を吸いました。 吸った息が、どこにも行かず胸の中でとどまり、少しだけ重くなりました。
――父さんの返事が、眠ってる。
そう思った瞬間、すぐ次の自分が言い返しました。
――眠ってるんじゃない。風がないだけ。
分かっているのに、分かっている分だけ、胸がむずむずしました。むずむずは、確かめたい気持ちです。確かめたい気持ちは、糸を引っぱる指になります。引っぱる指は、切れる音を知っています。
朝ごはんの味噌汁の湯気は、秋の入口のはずなのに、まだ夏の匂いを持っていました。祖母が言いました。
「今日は、凪(なぎ)だねえ。海も畑も、息を止めてるみたいだ」
凪、という言葉は、幹夫の胸をちょん、と叩きました。凪は静か。静かは安心のはずなのに、幹夫には少し怖い。静かになると、胸の中の声が大きくなるからです。
「……銀の輪、鳴らない」と幹夫は言ってしまいました。 言ってしまった瞬間、恥ずかしさが頬の裏を熱くしました。鳴らないくらいで、と思われそうで。けれど祖母は、思わない顔をしました。
「鳴らない日もあるよ」と祖母は言いました。「鳴るのは風の仕事。輪の仕事は、ただそこにいることだ」
ただそこにいる――その言い方が、窓辺の青い星と同じでした。星も、鳴らない日がある。それでも星は星で、なくならない。 分かっているのに、幹夫は胸の奥で、まだ小さく抵抗しました。
――“返事”って言ったのに。
返事と約束されると、返事のない日は、余計に空白が目立ちます。空白が目立つと、そこに自分の怖さが勝手に書き込まれます。
学校へ行く道、踏切が――カン、カン、と鳴って、汽車がことことと峠の影へ入っていきました。汽車の音はいつもと同じなのに、今日は音の間がやけに広く聞こえました。風がないと、音はまっすぐ落ちて、余計に輪郭を持つのです。
教室の窓も、今日は開けても紙が揺れませんでした。黒板のチョークの粉が、空気の中に舞わず、板の上で重たく沈んでいます。先生が言いました。
「今日は静かだな。こういう日は字がよく見える」
幹夫は、先生の“静かだな”に、胸の奥がひゅっと冷たくなるのを感じました。静かは、よく見える。よく見えると、見たくないものも見える。
休み時間、こういちが窓のところで言いました。
「幹夫、今日は風、ないね」「うん……」 幹夫は答えながら、思わずこういちの手首を見ました。麦茶色になった手首は、今日もちゃんとここにあります。その“ある”が、少し救いでした。
「銀の輪、鳴らない?」とこういちが聞きました。 言い方が慎重で、薄い硝子に触れるみたいでした。
「……鳴らない」 幹夫は言ってしまってから、胸がきゅっとなりました。鳴らない、と言うたび、鳴らないことが本当の顔で立ち上がってしまう。
こういちは少し考えて、それから言いました。
「鳴らない日ってさ……返事をためてる日かもしれない」「ためる?」「うん。蛍もさ、ずっと光ってるわけじゃない。消えてるときに、次の光を作ってる」
蛍。 その言葉が、幹夫の胸の奥の棚に、すっと置かれました。消えている時間が、次の光の時間。そう思うと、鳴らない時間も、ただの空白ではなくなる。
けれど、そう思っても、胸はまだむずむずしました。むずむずは止まらない。止まらないなら、扱い方を探すしかありません。
放課後、幹夫は家へ急いで帰りました。急いだのは、鳴らない輪を早く確かめたいからです。確かめたい、という気持ちが、靴を速くします。
縁側へ上がると、窓辺は朝と同じでした。青い星も銀の輪も、黙ったまま。
幹夫は、胸の中で何かがこげつくような感じがしました。こげつきは怒りの芽です。怒りは熱いから、胸の冷たさを隠してくれます。隠してくれるけれど、隠したままだと、いつか胸の中が煙でいっぱいになります。
幹夫は、台所から団扇(うちわ)を持ってきました。祖母が煽いでくれる、古い団扇。 団扇で風を起こせば、輪は鳴るだろうか。
幹夫は銀の輪の前に立ち、団扇をそっと振りました。 ぱた、ぱた。 空気が動いて、紙の短冊が一枚、ほんの少しだけ揺れました。
けれど、銀の輪は、鳴りませんでした。
幹夫は、団扇をもう少し強く振りました。 ぱた、ぱた、ぱた。 青い星がかすかに揺れて、からり……と言いそうで、言いません。
銀の輪も、鳴りません。
幹夫の胸の奥の空洞が、すとん、と底へ落ちました。底は冷たい。冷たいと、今度は涙が来そうになります。涙は熱い怒りより手前の水です。水が来ると、胸の中の煙が薄くなる。でも幹夫は、水が出るのが恥ずかしくて、喉の奥で我慢しました。
我慢すると、団扇を振る手が、つい強くなります。
ぱたっ。ぱたっ。
そのとき、銀の輪が、ほんの小さく震えました。震えただけで、鳴りません。鳴らない震えは、返事の形に似ているのに、返事じゃない。返事じゃないのに、返事を欲しがる自分がそこにいます。
幹夫は、団扇を止めました。
止めたとき、胸の中で、別の音がしました。 ぷつん、ではありません。 こつん、でもありません。 もっと小さく、ざらり、とした音です。
――ぼく、引っぱってる。
糸電話の糸を切ったときと同じ。 灯籠の火を守りたくて、手を伸ばしたときと同じ。 返事を、無理やり鳴らそうとしている。
幹夫は、団扇を膝に置きました。置くと、掌の汗が冷えて、指先が少しだけ落ち着きました。
そのとき、祖母が縁側に出てきました。針箱を持って、網を直す途中です。祖母は幹夫の団扇を見て、何も叱らず、ただ言いました。
「幹、風はね、呼ぶものじゃないよ。通るものだ」「……でも、鳴らない」「鳴らないなら、鳴らない音を聞けばいい」
鳴らない音。 幹夫は、その言葉を胸の中で何度も転がしました。転がすと、少しだけ意味が出てきます。鳴らない音は、静けさ。静けさの中の、別の小さな音。
祖母が続けました。
「今日は凪だ。凪の日は、遠い音がよく聞こえる。波の底の音とかね」
幹夫は、ふっと外へ出たくなりました。家の中の“鳴らない”に、息が詰まりそうだったのです。外へ出れば、鳴らないものの代わりに、鳴る別のものが見つかるかもしれない。
「……海、行ってくる」 幹夫は言って、靴を履きました。
「こういちも呼んでおいで」 祖母はそう言いました。押すでも引くでもなく、道を広げる言い方でした。
こういちと合流して、二人はみかん畑の縁を通り、浜へ向かいました。畦道の草は、昼の暑さで少ししなっていました。赤とんぼが一匹、すっと横切って、空の鰯雲の骨の間を縫いました。
浜へ出ると、海は本当に静かでした。波が寄せては返す、そのいつもの呼吸が、今日は浅い。しゅう……ざあ……が小さく、まるで海が寝息をひそめているようでした。
「凪だね」とこういちが言いました。「うん」と幹夫は言いました。 凪の海は、鏡のようで、鏡のようなものを見ると、胸の中も映ってしまう気がして、幹夫は少しだけ視線を下げました。
二人は石の帯のところへ行き、しゃがみました。石は昼の熱をまだ持っていて、手のひらを置くとぬるい。ぬるさが、胸の冷えを少しだけ和らげました。
幹夫は、小さな石を一つ拾って、海へ投げました。 ぽちゃん。 凪の水面に丸い輪ができ、輪は輪を生んで広がっていきます。輪は、風がなくてもできる。 幹夫は、その輪が、銀の輪に似ていると思いました。銀の輪も、風がなくても、そこにある。そこにあるだけで、“返事の形”を持っている。
「……鳴らないときってさ」と幹夫は言いました。 言葉を言う前に、胸がきゅっとなりました。言うと、言葉が自分を追いかけてくるからです。
「うん」とこういちが言いました。 うん、は、言葉の梯子でした。
「鳴らないとき、ぼく、なんか……父さんが遠くなる気がする」 幹夫は、やっと言いました。
言った瞬間、胸の奥の空洞がひゅっと風を吹きました。風は冷たいのに、同時に、息も通りました。言うと、苦しいだけじゃなく、息が通るときもある。息が通ると、言葉は溺れずに浮かびます。
こういちは、石を握ったまま、少し考えてから言いました。
「ぼくも、前の川のこと、思い出すとき……音がないときのほうが、こわい」「……音がないとき」「うん。川の音が聞こえないと、ほんとに消えたみたいで」
幹夫は、胸の中で、銀の輪の“きん”を思いました。きんがないと、父が消えるみたいに感じる。こういちの川も、音がないと消えるみたいに感じる。
けれど海は凪でも、消えていませんでした。 凪は、海がいないことではない。 凪は、海が息を整えていること。
幹夫は、凪の水面を見ながら、少しずつそのことを胸に入れました。胸に入れるのは、飲みこむことと違います。飲みこむと喉が痛い。胸に入れると、棚に置けます。
「……凪って、海が休んでるみたい」と幹夫が言いました。「うん」とこういちが言いました。「休んでるときも、海だね」
“休んでるときも海だ” その言葉が、幹夫の胸に小さく灯りました。父も、返事がないときも父だ。返事の鈴が鳴らない日も、父の心が消えたわけじゃない。
幹夫は、もう一度石を投げました。 ぽちゃん。 輪が広がる。輪は、消えていくけれど、消える前に水面に道を作る。道が作られた跡は、目には見えない。でも、作られたことは嘘じゃない。
夕方、家に帰ると、空の色が少しだけ薄くなっていました。凪のままだった空気が、ほんのひとひら、動きました。みかん畑の葉が、ひとつだけ裏返って白い粉を見せ、それから元に戻りました。
縁側に上がると、窓辺のものたちは、まだ黙っていました。けれど幹夫の胸は、朝より少しだけ落ち着いていました。落ち着いているのは、鳴らないことに慣れたからではなく、鳴らないことを“海の凪”として置けたからです。
祖母が言いました。
「夕方は、風が起きるときがあるよ。起きなくてもいい。起きたら、聞けばいい」
幹夫は、団扇をもう持ちませんでした。持たないで、窓辺の前に座りました。座って、ただ待ちました。待つのは苦しい。けれど今日は、待ち方を少しだけ知っていました。暗室の白い紙みたいに。蛍が消えている時間みたいに。
そのとき、薩埵峠のほうから、ほんの細い風が降りてきました。 どっどど――と呼ぶほどではなく、ただ、ひとさし指で頬を撫でる程度の風。
青い星が、かすかに揺れて――
からり。
遅れて、銀の輪が――
きん。
音は、昨日より小さかった。小さすぎて、聞き間違いかもしれないほど。けれど幹夫の胸は、ちゃんとそれを受け取りました。受け取った瞬間、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通った筒になりました。
からり。 きん。
二つの音は、ほんとうに短い。短いのに、幹夫にはそれが“十分な返事”に聞こえました。十分なのは、音が大きいからではありません。今日一日、鳴らない時間を抱えたあとで、ほんの少しの音が、ちゃんと“返ってきた”と分かったからです。
幹夫は、口の中で小さく言いました。
「……とうさん」
声は誰にも届かない。でも、銀の輪のきんは、父から届いた言葉の形でした。言葉の形があると、胸の中の言葉も、倒れずに立っていられます。
こういちが門のところで、手を振って帰っていきました。夕方の影が長く伸びて、こういちの影は、少しだけ頼もしく見えました。影は薄くても、足がちゃんと地面についている。
夜、幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。
「とうさん」 「きょうは かぜが ありませんでした」 「でも うみは いました」 「ゆうがた きん と なりました」 「ちいさい きん でした」 「ちいさいのに ちゃんと きこえました」
書き終えると、喉の奥のざらつきが、少しだけ減っていました。減ったぶん、胸の中の空洞の縁が、柔らかくなった気がしました。
布団に入ると、鈴虫が、りん……りん……と、夜の布を細い糸で縫っていました。遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波は凪のまま小さく、しゅう……ざあ……を、遠慮がちに繰り返しました。
幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。
――返事は、いつも鳴るわけじゃない。 ――鳴らない日があるから、鳴った日が、本当に返事になる。 ――凪の海も、ちゃんと海だった。
窓辺で、青い星がごく小さく揺れました。 銀の輪は鳴りませんでした。 でも幹夫の胸は、鳴らないことを、今夜は怖がりませんでした。
鳴らない静けさの中にも、ちゃんと“返事の形”がある――そう思える夜でした。




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