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静岡駅、死体は七分遅れて発車した

※本作はフィクションです。作中の列車時刻・駅設備・捜査内容は創作上の設定です。

午前五時十七分。

JR静岡駅の一番線に、朝一番の冷たい光が差し込んだ。

発車ベルが鳴った瞬間、改札内の大型時刻表の下で、清掃員の女が短く悲鳴を上げた。駅員が駆け寄る。通勤客が足を止める。ホームへ向かう階段の上で、誰かがスマートフォンを落とした。

時刻表の真下に、男が座っていた。

眠っているように見えた。だが、胸元に挟まれた切符には、赤いペンでこう書かれていた。

「5:17 発車済」

男のスマートフォンが、突然震えた。

画面に表示された差出人名は、たった三文字。

MAX

駅員が恐る恐る再生すると、スピーカーから若い男の声が流れた。

「おはよう、清水署の刑事さん。人間は遅れる。電車は遅れない。死体はもっと正確だ」

その声は笑っていた。

「次は、二番線。二十時四十四分。時刻表を信じて走れ」

清水署強行犯係の望月烈は、静岡駅のコンコースに着くなり、拳を握りしめた。

「ふざけやがって……」

背広の下で肩が盛り上がる。短く刈った髪、日に焼けた顔、声は大きい。熱血という言葉を貼りつけたような刑事だった。だが、その目だけは違った。怒りの奥に、眠れない夜を何度も越えてきた者の乾いた静けさがあった。

被害者は雨宮浩一。旅行雑誌の元編集者。鉄道時刻表の記事を書いていた男だった。

県警本部の捜査員が淡々と状況を説明する。

「死亡推定時刻は午前五時前後。ただし、正確には幅があります。争った形跡は少ない。スマホには犯人からのメッセージが残されていました」

「MAXってのは?」

「自称です。匿名掲示板に、昨夜から書き込みがあります」

望月は端末をのぞいた。

05:17 静岡駅。警察は時刻表に負ける。人間の推理は、乗り換え案内より遅い。

望月は画面を閉じた。

「殺しを遊びにしてる」

隣で若い刑事、榛原紬が小さくうなずいた。冷静な女だった。声を荒らげることはないが、一度見た矛盾を忘れない。

「次の予告は二十時四十四分。二番線。場所も時刻も指定しているのに、挑発が強すぎます」

「罠か」

「罠です。でも行くしかありません」

望月は時刻表を見上げた。数字の列が、冷たい目のように光っていた。

その瞬間、駅構内放送が流れた。

「まもなく、一番線に――」

ただの案内放送だった。だが望月には、それが犯人の笑い声に聞こえた。

二十時四十四分。

静岡駅二番線には、私服警官が散っていた。ベンチ、階段、柱の陰。改札にも、トイレ前にも、売店にも捜査員がいる。

望月はホーム中央に立ち、腕時計を見た。

二十時四十三分五十秒。

発車ベルが鳴る。

十秒。

九秒。

八秒。

ホームの端で女子高生が笑う。サラリーマンがイヤホンを外す。旅行客がキャリーケースを引く。

五秒。

四秒。

三秒。

望月の無線が鳴った。

「異常なし」

二秒。

一秒。

二十時四十四分。

何も起こらなかった。

その瞬間、望月の携帯に非通知着信が入った。

「望月刑事、走って」

合成音声ではない。あの声だった。MAX。

「時刻表に従う犬みたいに、二番線で待っていたんだね。偉いよ。でも本当の乗り場は、いつだって裏側にある」

電話が切れた。

榛原が叫ぶ。

「駅ビル側のコインロッカーで通報!」

望月は走った。

改札階へ駆け下りる。人の流れを裂く。自動改札の電子音が、やけに遠く聞こえた。

コインロッカー脇の通路に男が倒れていた。

被害者は松尾英介。医師。胸元にはまた切符。

「20:44 発車済」

スマホには動画が残っていた。画面の中で松尾は怯えた顔をしている。背後では駅の案内放送が響いていた。

「二番線、二十時四十四分発――」

その時刻、望月たちは二番線にいた。だが松尾は、そのすぐ近くの通路で死んでいた。

さらに厄介なことに、監視カメラには一人の男が映っていた。

黒いコート。細い体。涼しい顔。

時任数馬。

二十九歳。元鉄道系システム会社の天才エンジニア。大学時代、数理パズルの国際大会で優勝。乗換案内アプリのアルゴリズム設計に関わっていた男。

そして事件の一週間前、雨宮と松尾に接触していた。

「こいつがMAXか」

望月は写真を握りつぶしそうになった。

だが時任には、完璧すぎるアリバイがあった。

二十時三十七分、時任は静岡駅から下り列車に乗っている。監視カメラに姿がある。二十時四十八分、清水駅の改札を出た記録がある。松尾の動画に残された案内放送は、二十時四十四分発の列車を示していた。

つまり松尾が生きていた時、時任は静岡駅にいなかった。

榛原が言った。

「時刻表どおりなら、不可能です」

望月は唇を噛んだ。

「だったら、時刻表が嘘をついてる」

翌日、時任数馬は自宅マンションで任意同行された。

取り調べ室に入った時、彼は怯えも怒りも見せなかった。むしろ、観光に来たような顔で椅子に座った。

「望月烈さん。清水署の熱血刑事。噂どおり、声が大きいですね」

望月は机を叩いた。

「雨宮と松尾を殺したな」

時任は微笑んだ。

「時刻表は読めますか?」

「質問に答えろ」

「答えていますよ。読めない人には、世界がいつも遅れて見える」

榛原が資料を置いた。

「あなたは二十時三十七分に静岡駅を離れ、二十時四十八分に清水駅へ出ています。松尾さんの動画では、二十時四十四分発の案内が入っている。あなた自身が、自分のアリバイを作った」

時任は両手を軽く広げた。

「すばらしい。警察が僕の無実を証明してくれる」

望月はにらみつけた。

「楽しそうだな」

「楽しいですよ。人間が自分の信じたいものに飛びつくのを見るのは。あなたたちは血よりも、悲鳴よりも、時刻表を信じる」

その時、取り調べ室の外が騒がしくなった。

榛原の無線が鳴る。

「静岡駅で第三の遺体発見! 被害者は大島悟、元建設会社役員! 時刻は二十二時九分!」

望月は時任を見た。

二十二時九分。

その時、時任は取り調べ室の目の前にいた。

机の向こうで、時任が笑った。

「ほら。時刻表は止まらない」

望月は初めて、背筋に氷を入れられたような寒気を覚えた。

第三の被害者、大島悟は、静岡駅南口の使われていない倉庫区画で発見された。

胸元の切符には、同じ赤字。

「22:09 発車済」

動画もあった。

暗い画面の中で大島は椅子に縛られ、必死に何かを訴えている。背後では駅の案内放送が流れていた。

「まもなく、二番線に――」

榛原が映像を何度も巻き戻した。

「変です」

「何が」

「音です。案内放送の反響が、倉庫の広さと合いません。それに、この放送……」

榛原は駅員に確認した。すると、駅員は首をかしげた。

「二十二時九分のその列車なら、昨日から四番線扱いです。夜間工事の都合で。二番線の案内は流れていません」

望月は映像を止めた。

大島の後ろ、ほんの一瞬、柱が映る。

そこには何も貼られていなかった。

望月はその柱を見に行った。実際の倉庫区画そばの柱には、小さな猫のシールが貼られていた。

清掃員の女が言った。

「あ、それ……うちの子が貼ったんです。昨日の夕方。怖いことがあったから、駅が少しでも明るくなればって」

その子、陽太は母親の後ろに隠れていた。小さな手で、望月に折り紙の猫を差し出した。

「おじさん、犯人つかまえる?」

望月はしゃがみ、猫を受け取った。

「捕まえる」

「じゃあ、駅を嫌いにならないでね。お母さん、ここで働いてるから」

その言葉は、望月の胸に刺さった。

駅は数字ではない。

駅は、働く人間の場所だ。帰る人間の場所だ。誰かを待つ人間の場所だ。

犯人はそれを、時刻表の盤面に変えた。

望月は立ち上がった。

「榛原。全部ひっくり返すぞ」

「はい」

「犯人は二十時四十四分に殺してない。二十二時九分にも殺してない。殺した後で、時刻だけを走らせたんだ」

榛原の目が細くなった。

「録音と録画で、被害者がその時刻まで生きていたように見せた」

「ああ。時任のアリバイは、アリバイじゃない。殺した後、堂々と列車に乗っただけだ」

望月は時刻表を見た。

「七分だ」

「七分?」

「松尾の死亡推定、映像の時刻より少し早い。大島も同じ。雨宮も。あいつは犯行後、七分後の列車時刻に合わせて“死体を発車”させている。自分はその七分で現場を離れ、カメラに映り、列車に乗る」

榛原が息をのんだ。

「時刻表アリバイではなく、時刻表死亡時刻偽装……」

「違う」

望月は低く言った。

「あいつにとっては、どっちでもいいんだ。警察に時刻表を信じさせれば勝ち。人間を見なければ負ける」

三人の被害者には、共通点があった。

十年前、静岡駅周辺で起きた雑踏事故。

台風の日。駅構内の一部設備トラブルと誘導ミスが重なり、利用客が将棋倒しになった。直接の死者は一名。駅案内係だった若い女性、時任琴音。

事故後、責任は曖昧にされた。

雨宮は当時、事故の取材を途中で打ち切った。松尾は救命処置の時刻について、不自然な証言をした。大島は改修工事を請け負った会社の役員だった。

そして時任琴音は、時任数馬の姉だった。

望月は胸の奥に、重いものが沈むのを感じた。

復讐。

だが、それだけならまだ人間の地獄だった。時任数馬は違った。彼は復讐を、ゲームに変えた。姉の死を、殺人の美学に変えた。警察を笑い、被害者を駒にし、駅を盤面にした。

その夜、清水署に新しいメッセージが届いた。

最終列車は、夜明け前。静岡駅、一番線。05:17。次に発車するのは、子どもだ。

添付されていた写真には、陽太の折り紙の猫が映っていた。

望月は椅子を蹴って立った。

「時任!」

榛原が叫ぶ。

「身柄は?」

「釈放直後です。第三の事件時に署内にいたことで、令状がまだ――」

望月は走り出した。

理屈は後でいい。

子どもが狙われている。

それだけで、足は動いた。

午前四時五十分。

静岡駅はまだ夜の底にあった。

シャッターの下りた売店。眠たげな照明。ホームに溜まる冷気。遠くで作業員の声が響く。

望月は一番線へ走った。

ホーム端に、時任数馬が立っていた。

黒いコートが風に揺れている。足元には、陽太のリュック。中から折り紙の猫が一枚、はみ出していた。

「子どもはどこだ」

望月の声は震えていた。

怒りではない。恐怖だった。

時任は嬉しそうに目を細めた。

「いい顔だ。ようやく時刻表ではなく、人間を見た」

「どこだ!」

「探せば? 五時十七分までに」

駅のスピーカーから、ノイズが走った。案内放送ではない。時任が仕込んだ録音だ。

「まもなく、一番線に――」

望月は音の反響を聞いた。榛原の声が無線から飛ぶ。

「望月さん、南側倉庫の音源はダミーです! 反響が浅い。もっと狭い場所――」

望月はホーム下の非常通路を見る。

「清掃用具室か」

時任の笑みが消えた。

望月は走った。

時任が追う。いや、待ち構えていた。

階段の踊り場で、時任が金属製の棒を振り下ろした。望月は腕で受け、鈍い痛みに歯を食いしばった。反撃の拳が時任の肩をかすめる。時任は細身なのに、動きが速い。まるで時刻表の秒単位で体を動かしているようだった。

「あなたは遅い」

時任が笑う。

「熱血だけでは、秒針に勝てない」

望月は血の混じった唾を吐いた。

「秒針なんかに、人間を殺させるか」

二人は通路を転がるようにぶつかった。壁に肩が当たる。非常灯が赤く揺れる。遠くで始発準備の音がする。

五時十三分。

榛原が合流し、清掃用具室の鍵を開けた。

中に陽太がいた。口を塞がれ、泣きながらも生きていた。

母親が駆け込み、陽太を抱きしめる。親子の泣き声が、冷たい通路に満ちた。

時任はそれを見て、舌打ちした。

「予定が狂った」

望月は時任に飛びかかった。

二人はホームへもつれ出た。空が青白くなり始めている。線路の向こう、静岡の町の輪郭が、夜から剥がれていく。

時任はホーム端に立ち、両手を広げた。

「撃てばいい。僕を殺せば、あなたも時刻表の一部になる。五時十七分、犯人死亡。美しい結末だ」

望月は拳銃を構えた。

指が震える。

殺せば終わる。

この男は笑いながら人を殺した。子どもまで使った。姉の死さえ、殺人の飾りにした。

だが背後で、陽太が泣きながら言った。

「おじさん、駅を嫌いにならないで……」

望月は銃を下ろした。

そして突進した。

時任の目が見開かれる。

「何を――」

望月の拳が、時任の腹に入った。時任は崩れ、ホームに倒れた。榛原が手錠をかける。

五時十七分。

始発列車のベルが鳴った。

だがその朝、発車は遅れた。

人命救助と警察対応のため、列車は数分遅れで静かに停まっていた。

時任はホームに伏せたまま、かすれた声で笑った。

「日本一正確な朝を、あなたが遅らせた」

望月は息を切らしながら答えた。

「人が生きてるなら、遅れていいんだよ」

事件は解決した。

少なくとも、犯人は捕まった。

だが、真相はそこで終わらなかった。

雨宮浩一の仕事部屋から、一通の封筒が見つかった。宛先は、県警と報道各社。差出人は、第一の被害者である雨宮本人だった。

中には、十年前の雑踏事故に関する証言資料が入っていた。

雨宮、松尾、大島。三人は事件の前日、そろって会う予定だった。

目的は、時任琴音の名誉回復。

十年前、彼女は責任を押しつけられた。だが実際には、彼女は最後まで利用客を逃がそうとしていた。事故の隠蔽に関わった者たちが、ようやく真実を公表しようとしていた。

時任数馬は、それを知らずに殺した。

復讐の名で。

真実を語ろうとしていた人間を。

姉の名誉を回復するはずだった証言者を。

取り調べ室でそれを聞かされた時、時任は初めて笑わなかった。

「嘘だ」

「資料がある」

「嘘だ」

「お前が殺したんだ。人だけじゃない。お前の姉さんに届くはずだった朝まで、殺した」

時任の顔から血の気が引いた。

望月は机の上に、折り紙の猫を置いた。

「お前は時刻表に勝ったつもりだった。でも、お前が負けたのは時間じゃない。人間だ」

時任は黙った。

その沈黙は、どんな笑い声よりも空っぽだった。

数日後。

静岡駅の一番線に、朝日が差していた。

事件の痕跡は消えかけていた。新しいポスターが貼られ、売店は開き、通勤客は急ぎ足で改札を抜ける。駅はまた、いつもの駅に戻ろうとしていた。

だが完全には戻らない。

雨宮も、松尾も、大島も、生き返らない。時任琴音の十年も戻らない。陽太の夜の恐怖も消えない。望月の腕には、まだ打撲の痛みが残っていた。

清掃員の女が、望月に缶コーヒーを差し出した。

「息子が、刑事さんにって」

缶には折り紙の猫が貼られていた。

望月は受け取った。

「陽太くんは?」

「今日も駅に来るって言ってます。怖いけど、ここはお母さんの仕事場だからって」

望月はホームを見た。

列車が入ってくる。扉が開く。人が降りる。人が乗る。

誰かが誰かを待っている。

誰かがどこかへ帰っていく。

時刻表は、ただの数字ではなかった。

人が生きるための約束だった。

望月は缶コーヒーを握りしめ、朝日に目を細めた。

世界はむなしい。正義は遅れる。真実は、届く前に壊されることもある。

それでも。

発車ベルが鳴った。

陽はまた昇る。

望月烈は、静岡駅の朝の中で、静かに言った。

「次は、遅れずに守る」

列車はゆっくりと動き出した。

今度は、死体ではなく、生きている人間を乗せて。

 
 
 

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