駿河湾から新茶の星がのぼる
- 山崎行政書士事務所
- 1 時間前
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五月の夜明け前、駿河湾はまだ眠っていた。
眠っているといっても、海はほんとうには眠らない。闇の中で、波は低く寄せては返し、砂利浜の小石をかすかに鳴らしている。遠くの漁船の灯が、黒い水の上に小さく揺れ、空にはまだ星が残っていた。
幹夫は父の隣に立ち、胸に小さな茶包みを抱えていた。
今年の一番茶だった。
昨夕、製茶場から戻ってきたばかりの、まだ若い香りを持つ新茶。祖母が和紙に包み、赤い糸で結んでくれた。包みは小さかったが、幹夫にはそこに五月の茶畑が全部入っているように思えた。
朝露を抱いた若葉。
父の荒れた指。
祖母が湯を冷ます手つき。
白い蒸気を吐く製茶場。
そして、母がいない茶畑の静けさ。
幹夫は十二歳だった。
人より少しだけ、心の膜が薄い少年だった。人の言葉の端に隠れた寂しさや、笑い声の中の小さな刺や、夕暮れの空が赤くなりすぎる日の胸苦しさを、すぐに感じ取ってしまう。
父はそんな幹夫に、ときどき言った。
「お前は、何でも胸に入れすぎる」
責めているのではない。心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど、胸へ入ってくるものをどうすれば止められるのか、幹夫には分からなかった。
茶の若葉だって、光を拒まない。
露を拒まない。
風に触れられれば揺れる。
朝が来れば、透ける。
幹夫の心も、その若葉に似ていた。
母は、そのことを弱さだとは言わなかった。
母が生きていたころ、五月の茶摘みのあとには、決まって駿河湾へ行った。まだ幹夫が幼く、父の背中より母の手の温かさばかり覚えていたころのことだ。
夜明け前、母は小さな新茶の包みを持って海へ向かった。山の茶畑から、海まで。幹夫は眠い目をこすりながら母の手を握り、父は少し離れて歩いた。
「どうして海へ行くの」
幼い幹夫が聞くと、母は笑った。
「新茶はね、山だけでできるんじゃないのよ」
「茶畑でできるんじゃないの?」
「そう。でも茶畑には、海から来た風も届くでしょう。駿河湾の湿り気も、遠い波の音も、知らないうちに若葉へ混じっているの」
母はそう言って、砂浜に立った。
そのころ、東の空にはまだ夜が残っていた。湾の上には星があり、波の先にも小さな光が散っていた。
「見ていてごらん、幹夫」
母は新茶の包みを両手で包み、海の方を見た。
「もうすぐ、駿河湾から新茶の星がのぼるから」
新茶の星。
幹夫はその言葉をずっと覚えていた。
母は去年の冬に亡くなった。
雪の降らない、ただ空気だけが冷たい日だった。病院の白い壁、消毒液の匂い、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。
ありがとう。
行かないで。
また茶畑へ行こう。
また駿河湾で、新茶の星を見よう。
どの言葉も喉の奥で凍ってしまった。
その年の五月、父がふいに言った。
「明日の朝、海へ行く」
夕食のあとだった。祖母が淹れた新茶の香りが、畳の上にまだ残っていた。仏壇の前にも、小さな湯呑みが置かれ、母の写真の前で白い湯気が揺れていた。
「駿河湾へ?」
幹夫は尋ねた。
「ああ」
父は短く答えた。
それ以上の説明はなかった。
祖母は何も言わず、一番茶を少し和紙に包んだ。そして幹夫に手渡した。
「母さんが好きだった朝だよ」
その声は静かだった。
それで、幹夫は分かった。
父も覚えていたのだ。
母が言った、新茶の星のことを。
だから今、幹夫は父と二人、駿河湾の夜明け前に立っていた。
空の色はまだ濃い藍だったが、東の端には薄い白さがにじみ始めていた。湾の水面は黒く、けれど遠くの波頭だけが時々銀色に光った。背後には日本平の山影があり、その斜面のどこかに、幹夫たちの茶畑が眠っている。
山の茶畑から海へ。
海から空へ。
そのあいだを、新茶の香りが静かに渡っている気がした。
「寒いか」
父が言った。
「少し」
幹夫が答えると、父は自分の上着を幹夫の肩にかけた。
その手は大きく、少し不器用だった。けれど茶の若葉に触れるときと同じように、力を加減していることが幹夫には分かった。
「お父さん」
「なんだ」
「お母さん、新茶の星って言ってたの、覚えてる?」
父は海を見たまま、少し黙った。
「ああ」
「本当に見たことある?」
父は答えに困ったようだった。
「俺には、星なのか朝日なのか、よく分からなかった」
幹夫は小さく笑いそうになった。
父らしい答えだった。
母なら、星と言えば星なのよ、と言っただろう。父は、星か朝日かを分けようとする。父はそういう人だった。けれど今朝、父はその分からないものを見に来ている。
それだけで、幹夫の胸は少し温かくなった。
波が寄せた。
小石が鳴った。
幹夫は茶包みを胸に抱いた。
「僕ね」
幹夫は小さく言った。
「新茶の香りがすると、お母さんを思い出す」
父は黙っていた。
「でも、思い出すと、お母さんがいないことも分かる。だから、うれしいのか悲しいのか分からなくなる」
風が吹いた。
海からの風だった。少し冷たく、潮の匂いを含んでいる。その中に、幹夫の胸元の新茶の香りが混じった。
「俺もだ」
父は低い声で言った。
幹夫は父を見た。
父の横顔は暗くてよく見えなかった。けれど、その声は波よりも静かで、深かった。
「母さんの話をすると、苦しい。しないでいると、遠くなる」
父はそう言った。
「どっちにしても、楽ではない」
幹夫の胸が痛んだ。
父も同じだった。
母のことを話さないのは、忘れたからではない。感じていないからでもない。話すと、胸の中の何かが崩れてしまうのを恐れているのかもしれない。
「お父さんも、寂しい?」
幹夫は尋ねた。
父はすぐには答えなかった。
波が三度、寄せて返った。
それから父は言った。
「寂しい」
たった三文字だった。
けれどその中には、母のいない台所も、茶畑で一人立つ父の背中も、夜中に仏壇の前で立ち止まる沈黙も、全部入っているようだった。
幹夫は何も言わなかった。
言葉よりも、父の隣に立っていることの方が大事な気がした。
空が少しずつ明るくなっていった。
駿河湾の向こうに、朝の細い光が滲む。星はひとつ、またひとつと薄れていく。けれど、水平線近くに一つだけ、まだ強く光っている星があった。
明けの星なのかもしれない。
漁船の灯なのかもしれない。
波に映った町の光なのかもしれない。
でも幹夫には、それがだんだん緑がかって見えた。
ほんのわずかに。
新茶の若葉のような、淡い緑の光。
「お父さん」
幹夫は息をひそめて言った。
「あれ」
父も目を凝らした。
海の上の光は、波に揺れながら少しずつ高くなるように見えた。実際には動いていないのかもしれない。けれど、幹夫の目には、駿河湾から小さな星がのぼってくるようだった。
「新茶の星……」
幹夫はつぶやいた。
父は何も言わなかった。
ただ、同じ方を見ていた。
その光が、朝の海の中でふるえた。
幹夫は胸の奥に、母の声を聞いた気がした。
――見ていてごらん、幹夫。駿河湾から新茶の星がのぼるから。
その瞬間、幹夫の目に涙が浮かんだ。
泣くつもりはなかった。
けれど涙は自然にこぼれた。頬を伝い、父の上着の襟に落ちた。幹夫は慌てて拭おうとしたが、父は何も言わなかった。
代わりに、父の手が幹夫の肩に置かれた。
重くて、温かい手だった。
「泣いていい」
父が言った。
その声は低く、少し不器用だった。
「俺も、泣けなかった」
幹夫は父を見た。
父は海を見ていた。目元は朝の光に照らされていたが、涙があるのかないのか分からなかった。
「母さんが亡くなったとき、泣く暇もないと思っていた。畑も、家も、お前も、祖母さんもあったから」
父はゆっくり言った。
「でも、泣かなかった涙は、どこかへ消えるわけじゃないんだな」
幹夫は頷いた。
「どこへ行くのかな」
父は少し考えた。
「茶の根にでも入るんじゃないか」
幹夫は涙の中で、少し笑った。
「お父さんも、変なこと言う」
「そうか」
「うん。でも、いい」
父もほんの少し笑った。
駿河湾の光は、朝の明るさに溶け始めていた。
星なのか、船の灯なのか、朝日の前触れなのか、もう分からなかった。けれど幹夫には、それでよかった。分からないものを、無理に一つの名前へ閉じ込めなくてもよかった。
母が見た新茶の星。
父にはよく分からなかった星。
今朝、幹夫と父が一緒に見た光。
それが大切だった。
祖母が持たせてくれた小さな湯筒を、父が鞄から出した。
「祖母さんが入れてくれた」
中には湯があった。父は小さな急須も取り出した。慣れない手つきで、新茶の包みを開く。
青い香りが、朝の海風の中へふわりと広がった。
幹夫は息を吸い込んだ。
茶畑の香りがした。
日本平の風がした。
祖母の手の匂いがした。
母が白い手ぬぐいを結んでいた朝の匂いがした。
父が湯を注ぐ。
急須の中で茶葉がほどける。
海の前で淹れた新茶は、いつもと違う音を立てているように幹夫には思えた。山で育った若葉が、海の風に再会している音。駿河湾から来た湿り気を、今度は香りとして返している音。
父は湯呑みを二つ用意した。
そして、三つ目の小さな湯呑みを取り出した。
母の分だった。
幹夫は胸がいっぱいになった。
父は何も言わず、その小さな湯呑みにも新茶を注いだ。白い湯気が朝の海風に揺れた。湯気は海へ向かい、やがて見えなくなった。
「お母さんにも、届くかな」
幹夫が言うと、父は静かに答えた。
「届くと、思って淹れた」
その言葉は、父にしては珍しくやわらかかった。
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
一口飲む。
最初に、若い苦みが舌に触れた。
母がいない五月の苦み。
言えなかった言葉の苦み。
父と母の話をする怖さの苦み。
けれどそのあと、甘みが戻ってきた。
ゆっくりと、胸の奥へ。
幹夫は目を閉じた。
茶の中に、駿河湾の夜明けがあった。
海からのぼる緑の星があった。
父の「寂しい」があった。
母の「新茶の星」があった。
祖母の和紙の包みがあった。
そして、自分の涙が茶の根へ戻っていくような、不思議な温かさがあった。
「どんな味だ」
父が尋ねた。
幹夫は少し考えた。
「海から山へ帰る味」
父は眉を寄せた。
「分かるような、分からんような」
幹夫は湯呑みを見つめた。
「新茶は山でできるけど、海の風も入ってるって、お母さん言ってたでしょう。だから、海で飲むと、茶葉が生まれた場所を思い出すみたい」
父は黙って聞いていた。
そして、低い声で言った。
「母さんは、そういうことをよく言っていたな」
「お父さんは、分からなかった?」
「分からなかった」
父は正直だった。
「でも、今朝は少し分かる」
幹夫は微笑んだ。
それだけでよかった。
全部分かってもらえなくてもいい。少しだけ同じ光を見て、少しだけ同じ香りを吸って、少しだけ同じ寂しさを言葉にできるなら。
それだけで、胸の中の暗いところに風が通る。
朝日がのぼり始めた。
駿河湾の水面が、少しずつ明るくなっていく。さっきの新茶の星は、もう見えなかった。光の中へ溶けたのだろう。けれど幹夫は、消えたとは思わなかった。
見えなくなっただけ。
新茶の香りの中に残っている。
湯呑みの温かさに残っている。
父と並んで泣いた朝の記憶に残っている。
母も、そうなのかもしれない。
幹夫は胸の中で、母へ言った。
お母さん、見たよ。
今年も、駿河湾から新茶の星がのぼったよ。
声に出さなかった。
けれど、届く気がした。
その日の夕方、幹夫は机に向かった。
白い紙を出し、鉛筆を握った。手は少し震えていた。けれどその震えを消そうとは思わなかった。震える字には、駿河湾の風が入っている。朝の涙が入っている。父と分け合った沈黙が入っている。
幹夫は書き始めた。
――今朝、駿河湾から新茶の星がのぼりました。
――それは星だったのか、船の灯だったのか、朝日の前触れだったのか、分かりません。
――でも、僕には新茶の星に見えました。
――母が昔、そう呼んだ光です。
窓の外では、茶畑が夕風に揺れていた。
幹夫は続けた。
――父と一緒に見ました。
――父も寂しいと言いました。
――僕は、父も母に言えなかった言葉を持っているのだと知りました。
――新茶の香りは、山から海へ行き、海からまた山へ戻る手紙のようでした。
――母への言葉も、遠くへ行ったきりではなく、僕たちの胸へ戻ってくることがあるのかもしれません。
幹夫は一度、目を閉じた。
朝の海が浮かんだ。
黒い水面。
緑がかった小さな光。
父の手。
母の湯呑みの湯気。
最後に、こう書いた。
――僕の心は、すぐ涙をためます。
――でも涙は、茶の根に入るかもしれないと父が言いました。
――もしそうなら、僕の悲しみもいつか若葉にのぼり、香りになって、誰かの朝を少し温めるかもしれません。
――駿河湾からのぼった新茶の星は、そのことを教えてくれました。
書き終えると、幹夫は紙を畳まずに机の上へ置いた。
夜になった。
窓を開けると、茶畑の方から新茶の香りが流れ込んできた。遠い海は見えない。駿河湾も、今朝の星も、ここからは見えない。
けれど幹夫には分かった。
海はある。
星もある。
母の言葉も、父の涙になれなかったものも、どこかでまだ光っている。
幹夫は空を見上げた。
一番星が出ていた。
それは駿河湾からのぼった星とは違うかもしれない。けれど、幹夫には少しだけ緑色に見えた。
新茶の星だ。
そう思うと、胸の中が静かに温まった。
幹夫は小さく微笑み、窓辺で手を合わせるように茶畑の方を見た。
山の若葉と、海の風と、空の星。
そして、そのあいだにいる自分。
小さく、傷つきやすく、すぐ胸がいっぱいになる自分。
けれど今夜は、その胸の中にも一粒の星がのぼっていた。
駿河湾からのぼった、新茶の香りをまとった星が。





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