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黒電話はナポリタンの匂いで時を越える

―草薙・山崎行政書士事務所 昭和直通相談室―

2040年、静岡市清水区草薙。

山崎行政書士事務所の玄関には、なぜか平成の終わり頃から時間が止まったような空気が流れていた。

入口の横には、少し色あせた観葉植物。受付カウンターには、まだ現役の招き猫。壁には「書類は早めに、人生はゆっくり」と書かれた手作りポスター。そして応接スペースには、誰が置いたのか分からない黒電話が一台。

丸いダイヤル式の、重たくて、妙に威厳のある電話だった。

2040年の事務所では、電話はほとんど使われない。相談予約も、書類確認も、本人確認も、だいたいスマートグラスか音声AIで済む。

それでも代表の山崎は、その黒電話を捨てなかった。

「こういうのはな、置いてあるだけで相談者さんが安心するんだよ」

と、山崎はいつも言った。

職員のさくらは、毎回それを聞くたびに笑った。

「先生、それ、安心というより骨董品です」

「骨董品じゃない。平成レトロだ」

「黒電話は昭和です」

「じゃあ昭和平成ハイブリッドレトロだ」

そんな調子で、事務所の一日はいつも少しゆるく始まる。

その日も、草薙の空はよく晴れていた。夏の終わりの午後、窓の外では遠くの踏切音がかすかに聞こえ、事務所の冷蔵庫には誰かが買ってきたプリンが三つ冷えていた。

問題は、そのプリンが四人分ではなかったことだ。

「これは事件です」

職員のりなが、冷蔵庫の前で厳粛に言った。

「また先生が食べたんですか」

さくらが山崎を見る。

山崎は首を横に振った。

「私は食べていない。食べたとしても、それは不可抗力だ」

「食べたんですね」

「いや、プリンがこちらを見ていた」

「先生、行政書士がプリンに責任転嫁しないでください」

その瞬間だった。

ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。

応接スペースの黒電話が鳴った。

全員が黙った。

事務所には最新型の通信端末がある。黒電話は回線につながっていない。そもそもコンセントすら入っていない。

それなのに鳴っている。

ジリリリリリリリリリリリリ。

山崎は、プリンの空き容器を机の下へ隠しながら言った。

「……誰か、出て」

「先生が出てください」

「私はいま、事務所の代表として現場を指揮している」

「ただ怖いんですよね」

「怖くはない。慎重なだけだ」

りなが眼鏡を直し、黒電話の前に立った。

「では、私が出ます」

彼女が受話器を持ち上げた。

「はい、山崎行政書士事務所です」

受話器の向こうから、ザーッという遠い波のような音が聞こえた。

そして、か細い声。

『……もしもし』

りなが固まった。

「どちら様でしょうか」

『あんた、哲央さんとこの人かね』

りなは受話器を押さえ、山崎を見た。

「先生の名前、知っています」

山崎の顔から、プリンを食べた者特有の余裕が消えた。

「ど、どちら様ですか」

りなが受話器を渡す。

山崎は恐る恐る耳に当てた。

「もしもし……」

『ああ、哲央かい?』

山崎は目を丸くした。

その声には、覚えがあった。直接聞いた記憶はない。けれど、幼い頃に家族から何度も話を聞かされた、写真の中の人の声に似ていた。

「……ひいおばあちゃん?」

『なんだね、いきなり年寄り扱いして。私はまだ四十七だよ』

事務所の全員が息を止めた。

山崎は震える声で言った。

「そちらは……昭和何年ですか?」

受話器の向こうで、少し間があった。

『昭和三十九年だけど』

山崎は思わず椅子に座り込んだ。

昭和三十九年。

遠すぎる過去。テレビの中でしか見たことのない時代。家族写真の端に、白黒で残っていた時間。

さくらが小声で言った。

「昭和とつながってる……?」

りながすぐにメモを取り始めた。

「通信経路、原因、再現性、証拠保全……」

山崎が手で制した。

「りなさん、今それを行政文書化しないで」

受話器の向こうで、ひいおばあちゃんが言った。

『それで、あんた誰だね。哲央なんて、うちにはまだいないよ』

「未来の……あなたのひ孫です」

『まあ』

一拍置いて、ひいおばあちゃんは言った。

『未来は電話代が高いのかね? 声が妙に遠いよ』

山崎は泣きそうになった。

「ひいおばあちゃん……」

『何を泣きそうな声を出してるんだね。男が電話口で泣くんじゃないよ。お腹が空いてるのかい』

「いえ、そういうわけでは」

『なら、味噌汁を飲みなさい』

「いきなり昭和のアドバイスが強い」

さくらが吹き出した。

その時、受話器の向こうで別の声がした。

『おい、誰からだ』

低くて、少し不機嫌そうな男の声。

山崎は息をのんだ。

「ひいおじいちゃん……?」

『なんだ、私はまだ三十七だぞ。誰がひいおじいちゃんだ』

さくらが机に突っ伏して笑いをこらえた。

「全員、若い時代につながってる……!」

山崎は受話器を握り直した。

「そちらに、子どもの……お母さんはいませんか?」

『子ども? ああ、いま庭で泥団子を作ってるよ』

山崎の胸がぎゅっとなった。

母が、子ども。いつも強くて、少し口うるさくて、でも誰より心配性だった母が、庭で泥団子を作っている。

受話器の向こうで、ひいおばあちゃんが呼んだ。

『こっち来なさい。電話だよ』

遠くから、幼い声が聞こえた。

『だれー?』

山崎は何も言えなくなった。

さくらも、りなも、黙っていた。

山崎はようやく声を絞り出した。

「もしもし」

『もしもし。おじちゃん、だれ?』

「……未来から来た、親戚です」

『未来? ロボットいる?』

「いるよ。掃除もするし、話もする」

『えー! いいなあ!』

幼い母の声は、明るかった。

山崎は笑った。

「でもね、未来でも、プリンを勝手に食べる大人は怒られる」

さくらが横から言った。

「先生、いま自白しましたね」

受話器の向こうで、幼い母が大笑いした。

『おじちゃん、怒られてるの?』

「うん。かなり」

『じゃあ、ごめんなさいしなきゃ』

山崎は受話器を持ったまま、深々と頭を下げた。

「プリンを食べてごめんなさい」

さくらとりなは拍手した。

『えらい!』

幼い母の声に褒められた山崎は、代表としての威厳を完全に失った。

その日から、黒電話は時々鳴るようになった。

毎日ではない。決まった時間でもない。鳴るのは、事務所の誰かが少し困っている時だった。

相続の相談で、家族同士が険悪になった日の夕方。黒電話が鳴った。

『財産はね、分ける前に、まず仏壇に手を合わせなさい』

ひいおばあちゃんはそう言った。

「法的には遺産分割協議が必要ですが」

りなが冷静に補足する。

『難しいことは若い人に任せるよ。でもね、紙より先に、ありがとうを言うんだよ』

山崎はその言葉を、相談者にそのまま伝えた。すると、険しかった兄弟の顔が少しだけ緩んだ。

契約書の相談で、若い起業家が「とにかく早く進めたい」と焦っていた日の夜。黒電話が鳴った。

今度はひいおじいちゃんだった。

『急ぐ時ほど、印鑑は最後に押せ』

山崎は笑った。

「それ、今でも通じます」

『未来でも人は焦るのか』

「かなり焦ります」

『なら未来も大して変わらんな』

2040年の事務所では、電子契約が当たり前だった。けれど、ひいおじいちゃんの言葉は、紙の契約書より重かった。

そして、ある雨の日。

山崎行政書士事務所に、一人の女性が訪れた。七十代くらいの、背筋の伸びた人だった。

彼女は古い封筒を持っていた。

「父の遺品を整理していたら、こんなものが出てきまして」

封筒の中には、昭和の時代に書かれた手紙があった。

宛名はなかった。差出人も、はっきりしない。ただ、最後にこう書かれていた。

――未来の家族へ。困ったら、声を聞きなさい。

山崎はその文字を見て、胸がざわついた。

その夜、事務所には山崎だけが残った。雨が窓を叩いていた。平成レトロの置時計が、妙に大きな音で秒を刻んでいる。

ジリリリリリリリリリ。

黒電話が鳴った。

山崎はすぐに受話器を取った。

「もしもし」

『哲央かい』

ひいおばあちゃんの声だった。

でも、いつもより遠い。波の向こうから聞こえてくるようだった。

「はい」

『今日は、伝言を預かってほしいんだよ』

「伝言?」

『未来のあんたから、昔の私たちへもらったものをね、今度はあんたに返す番なんだ』

山崎は眉をひそめた。

「どういうことですか」

ひいおじいちゃんの声が割り込んだ。

『お前、未来から何度も電話してきたろう』

「それはこちらから掛けた覚えはありません」

『細かいことを言うな。未来の人間は理屈っぽい』

山崎は苦笑した。

その時、幼い母の声が聞こえた。

『未来のおじちゃん』

山崎は思わず背筋を伸ばした。

「はい」

『お母さんになる私は、元気?』

山崎は言葉に詰まった。

母は、もうこの世にいなかった。

けれど、その声はまだ子どもで、未来をまっすぐ信じている。

山崎は静かに言った。

「元気でした。とても。よく怒って、よく笑って、誰より人の心配をする人でした」

『そっか』

幼い母は、少し照れたように笑った。

『じゃあ、私、大人になってもちゃんとしてるんだね』

「はい。ちゃんとしすぎて、息子はよく怒られました」

『それは、おじちゃんが悪いんじゃない?』

「たぶん、そうです」

山崎は笑いながら、涙をこぼした。

ひいおばあちゃんが言った。

『哲央、聞きなさい』

「はい」

『未来がどんなに便利になっても、人の困りごとは、人の声でしかほどけない時がある』

雨音が静かになった。

『書類を作る仕事でも、判子を見る仕事でも、決まりを説明する仕事でもない。あんたたちは、人が次の朝を迎えるための手伝いをしているんだよ』

山崎は受話器を握りしめた。

「はい」

『それから』

「はい」

『プリンは人数分買いなさい』

山崎は涙を拭きながら吹き出した。

「そこも伝言なんですね」

『大事なことだよ。未来はプリンも足りなくなるのかい』

「未来は便利ですが、プリン問題だけは解決していません」

『情けないねえ』

受話器の向こうで、家族の笑い声が重なった。

昭和の台所。庭の泥。若いひいおばあちゃん。不機嫌そうで優しいひいおじいちゃん。子どもの母。

見えないはずの景色が、山崎の胸の中に灯った。

翌朝。

山崎行政書士事務所の冷蔵庫には、プリンが人数分どころか十二個入っていた。

さくらが驚いた。

「先生、どうしたんですか」

山崎は胸を張った。

「事務所の福利厚生を改善した」

りなが冷静に数えた。

「十二個あります」

「未来への投資だ」

「先生が六個食べる未来しか見えません」

その時、玄関のチャイムが鳴った。

新しい相談者だった。少し不安そうな顔をした若い夫婦。手には、家族のことで悩んでいるらしい書類。

山崎は立ち上がった。

「どうぞ。まずはお話を聞かせてください」

応接スペースの黒電話は、黙ってそこにあった。

昭和と2040年をつなぐ、不思議な電話。でも本当につないでいたのは、時代ではなかったのかもしれない。

困った時に、誰かの声を聞きたい気持ち。間違えたら謝ること。焦ったら深呼吸すること。そして、プリンは人数分買うこと。

それだけは、昭和でも、平成でも、2040年でも、きっと変わらない。

その日の夕方、黒電話が一度だけ小さく鳴った。

ジリリ。

山崎が受話器を取ると、向こうから幼い母の声がした。

『未来のおじちゃん、今日も怒られてる?』

山崎は事務所を見渡した。

さくらは笑い、りなは書類を整え、相談者は少し安心した顔をしていた。

山崎は答えた。

「今日は、まだ怒られてないよ」

すると受話器の向こうで、幼い母が明るく言った。

『じゃあ、いい日だね』

山崎は笑った。

「うん。いい日だ」

黒電話は、ぷつりと切れた。

窓の外では、草薙の夕焼けが、少しだけ昭和色に見えた。

 
 
 

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