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線の字

 朝の風が、軒下の貝殻を起こした。

 ちい。 ちい。

 眠った音。 眠った音は、刺さらない。 刺さらない音は、家の中の角を丸くする。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 軒の先――燕の巣の前に張った貝殻の糸が、風で小さく揺れている。 揺れるものは、不安も揺らす。 でも、揺れるものは、守りも揺らす。

 父が、その糸の“端っこ”を指でなぞっていた。 なぞる指は荒くない。 荒くないのは、息が通っている指だ。

 父がぽつり。

「……糸、ゆるんだな」

 ゆるんだ。 ゆるむのは、悪いだけじゃない。 でも、守りの糸は、ゆるみすぎると隙になる。

 父の肩が、風の音でふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……風の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 ふう……。

 父は糸をいきなり引っぱらない。 引っぱると結び目が固まる。 固まると、解けなくなる。 解けなくなると、胸も固まる日がある。

 父は結び目のところで、ほんの少しだけ“戻した”。 戻して、余地を作る。 余地があると、糸は息をする。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。

「父ちゃん、今朝は“線”だに。……そこ、まっすぐに見えて、まっすぐじゃないとこ」

 線。 その言葉が、幹夫の胸の中で細く鳴った。

 ――いき。

 父がふっと息を吐く。

 ふう……。

「……まっすぐに見えて、まっすぐじゃない。……糸、みてぇだな」

 母が小さく笑わない笑いをした。

「そうだに。……糸も線も、まっすぐにしようとすると、かえって切れる」

 切れる。 切れるのは、終いの匂い。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「切れる前に線を引け。……“ここまで”を引け。腹が荒れん」

 ここまで。 許の夜の言葉。 守の朝の言葉。

 父は、縁側の端から小さな白いものを取り出した。 チョークのかけら。 白いのに刺さらない白。

 父が縁側の板に、そっと白い線を一本引いた。 力を入れない。 でも、消えないように。

 すっ。

 音がしない線。 音がしないのに、胸に届く線。

「……みき坊。……ここまでだ」

 父が言った。 昨日の「ここまで」と同じ言い方。 でも今日は、烏のためじゃなく――幹夫のための線だった。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……線、あると……わかる」

 父は少し間を置いて、幹夫を見た。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで見る目。

「……わかると……守れる」

 守れる。 線は守りの形。

 母が、小さく言った。

「線はな、分けるだけじゃない。……つなぐ道にもなるだに」

 つなぐ道。 線路。 便りの道。 糸の道。

 幹夫は首の袋を押さえて、胸の中で言った。

 ――いき。

 学校へ行く道で、線路の音が先に来た。

 がたん。 がたん。

 遠い音。 遠い音は、胸の奥を探ってくる日がある。 でも今日は、遠い音が“道”に聞こえた。

 ――いき。

 線路は、まっすぐに見えて、まっすぐじゃない。 少し曲がって、海のほうへ寄って、また戻る。 曲がる線は、逃げ道がある線だ。 逃げ道があると、胸が潰れにくい。

 正夫が角から走ってきた。

「みきぼー! きょう、なに書くんだっけ!」

 走る声。 走るのに刃じゃない。

 幹夫の胸がぽん、と鳴って、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……先生、きのう……“次は線”って」

 正夫が目を丸くする。

「線! せん! えんぴつの線! けんけんぱの線!」

 線がいっぱい出てくる。 正夫の口は、線を増やす口。

 幹夫は少し笑いそうになって、笑う前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……線、いっぱいある」

 ふたりで歩く道も、ひとつの線みたいに見えた。 隣の線。 ぴったり重ならない線。 でも離れすぎない線。

 教室はチョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、字の角を立てやすい。

 先生が黒板に大きく字を書いた。

 

 きゅっ、きゅっ。

 白い線が、黒に乗る。 黒の上の白は、刺さらない。

「今日は“線”。読めるな」

 教室が声を出す。

「せん!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 先生が言った。

「線はな、糸みたいなもんだ。糸はつなぐ。線もつなぐ。だけど、線は“ここまで”も作る。列をそろえる線、道を決める線、守る線」

 ここまで。 父のチョークの線。 ぴたり、と胸の中で合った。

 先生は黒板の左側を指でとん、と叩いた。

「左は糸へん。糸だな。右は泉。湧く水だ。線は、糸が泉みたいに続く字だ、と覚えろ」

 泉。 水が湧く。 続く。 切れても、またつながる。

 幹夫の鉛筆が、白い継ぎ目で光った。 白い継ぎ目。 続いた印。

 ――いき。

 そのとき、休み時間に、教室の外から声がした。

「線ふんだら負けだぞ!」

 廊下に、誰かがチョークで線を引いている。 子どもの線。 遊びの線。

 正夫がすぐ言った。

「みきぼー、やろ! 線の上だけ歩くやつ!」

 幹夫は立ち上がりかけて、いちど止まった。 止まった「間」に、息。

 ――いき。

 線の上を歩くのは、怖いときがある。 落ちたら負け。 負け、が胸を尖らせる日がある。

 でも今日は、父の言葉が胸にあった。

 線があると、わかる。わかると、守れる。

 幹夫は小さく頷いた。

「……うん。……ここまで、で」

 正夫が首を傾げる。

「ここまで?」

 幹夫は廊下へ出て、チョークの線の前で足を止めた。 止めた場所が、端。 端は逃げ道。

 ――いき。

 線の上を歩く子が、ふらり、と揺れて落ちそうになる。 周りが笑う空気が、少しだけ立った。 笑いは、刃になるときがある。

 幹夫の胸がきゅっとなって、息を入れた。

 ――いき。

 幹夫は、線の横に、もう一本、短い線を引いた。 “ここまで”の線。 落ちたら負け、じゃなくて、落ちても戻れる線。

 正夫が目を丸くする。

「みきぼー、それなに!」

 幹夫は小さく言った。

「……戻る線」

 戻る線。 その言葉が、廊下の空気を少しやわらかくした。

 線の上を歩いていた子が落ちて、でも幹夫の引いた“戻る線”のところで止まって、笑った。

「……セーフ、ってことにしてくれ」

 誰かが、うん、と言った。 声が丸い。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 正夫が、にっと笑った。

「戻る線、いい! それ、守りだ!」

 守り。 守の字が、廊下に来た。

 帰り道、線路の音がまた遠くで鳴った。

 がたん。 がたん。

 遠い音。 でも今日は、遠い音が“続く道”に聞こえる。

 ――いき。

 正夫が言った。

「線ってさ、まっすぐじゃなくても線だよね」

 幹夫は少し考えてから、息を入れて言った。

 ――いき。

「……うん。……曲がっても……道」

 正夫が嬉しそうに言った。

「曲がる道、好き! だって、逃げられる!」

 逃げられる。 逃げるのは悪いことじゃない。 逃げ道があるから、守れる。

 家に帰ると、縁側のチョークの線が、朝のまま白く残っていた。 白い線は、消えていない。 消えていないと、胸が落ち着く。

 幹夫は靴を脱いで、線の手前で止まった。 止まると、線が線になる。

 ――いき。

 父が縁側の端で、貝殻の糸を見ていた。 糸が揺れて、ちい、と鳴る。 眠った音。

 父がぽつりと言った。

「……今日、線、書いたか」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……戻る線、引いた」

 父の眉が少しだけ上がって、それからすとん、と戻った。 戻る眉。 戻ると、顔がやわらかい。

「……戻る線」

 父がその言葉を口の中で転がして、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……いい。……線は、戻れるほうが強い」

 強い。 父の強いは、殴らない強さ。

 母が台所から、欠けた椀――塩の皿――を持ってきた。 塩の白が、線みたいに見えた。

「塩はな、少しずつ引くんだに。線みたいに。……多すぎると刺さる」

 刺さる。 塩も言葉も、線も。

 祖母が淡々と言う。

「線引け。……塩も言葉も、ここまでだ」

 ここまで。 今日の家の決まりが、また座る。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 線

 幹夫はその字を見た瞬間、縁側の白いチョーク線と、廊下の“戻る線”と、線路のがたんがたんが一本に重なった。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……糸へん」

 糸。 続の糸。 結の糸。 解の端っこの糸。

 母は右側をなぞった。

「こっちは泉だに。……湧く水。止まらん水」

 止まらん水。 続く水。 続くなら、線も続く。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「線ってのはな……糸みたいに続いて、泉みたいに流れる道だに。まっすぐじゃなくてもええ。曲がってもええ。……でも、ここまでって境目も作れる。守る線、戻る線。線があると、人の心も座れるだに」

 座れる。 線が床になる感じ。

 母は続けた。

「線を引くって、冷たく分けるだけじゃない。……刺さらんように、余地を作ることだに。みきが今日引いた“戻る線”みたいに」

 父が新聞紙の「線」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、線を引くの……悪いことだと思ってた」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……線引きは、拒むみたいに見えるでな。でもな、線は守りだに。ここまで、って言えると、怒りも怖さも刺さらん。……家の中の線は、家を守る」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「線がなけりゃ腹が荒れる。……荒れたら全部が飛び出る。線引け」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……線、引けるようになりたいな。……胸にも」

 胸にも。 父が言った。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 線を書く。

 一回目の「線」は、糸が細くて、泉が難しくて、字がふらふらした。 ふらふらは、道がまだ細い顔。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「ふらついたらな……糸を太らせりゃええ。線は“気持ち”だに。気持ちを置くと太くなる。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「線」は、糸が少し座って、泉も落ち着いた。 落ち着くと、道の字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「線」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……線が“ここまで”で止まるな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……止まれる線が、いちばん守りだに」

 母は「線」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、貝殻の丸みたいに見えた。

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

あさえんがわ に せんここまでみきぼうせん の てまえ で とまれたがっこう線 を かいたもどる せんいい線みちここまでむね に もせんいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……線を引くの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、戻れる線なら……こわくない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……戻れる線……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、線は刺さらん。……線は道だに」

 祖母が淡々と言う。

「道がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 線が続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

せん(線)っていと と いずみ の じ なんだねきょうぼくもどる せん ひいたとうちゃんえんがわ にここまで の せん ひいたせん が ある とむね が すわるいき

 最後に、小さく「線」。 丸をひとつ。 貝殻の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは廊下で線を引くときの熱さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

線 はみち で ありここまで の まもり で ありもどる ため の せん でも あるうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうもどる せんいい なせん を ひく の はつめたい んじゃ なくまもり だ線 って じすこしおれ の むねすわるありがとう

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――短い白いチョークのかけら。 麻紐がひと巻きだけ結ばれていて、ほどける余地を残してある。刺さらない結び。 チョークのそばに、父の震える字で小さく、

ここまで

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はそのチョークを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 線。 糸みたいに続く道。 泉みたいに流れる気持ち。 そして、“ここまで”を作って守る境目。 戻れる線があると、胸は走らずにすむ。

 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、縁側の白い線と、廊下で引いた戻る線は届いた。 届いた道を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、自分の胸の中に、刺さらない“ここまで”をそっと引いていった。

 
 
 

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