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山崎行政書士事務所と、黒電話が鳴らしたナポリタン事件

 2050年の静岡市清水区草薙は、朝からたいそう未来っぽかった。

 草薙駅前の空には宅配ドローンが桜えびせんべいを運び、無人バスは「本日も安全運転で参ります」と妙に腰の低い声で告げ、商店街の街灯には富士山型の太陽光パネルがきらきら光っている。

 だが、その一角にだけ、昭和が腰を下ろして茶をすすっているような場所があった。

 山崎行政書士事務所

 木枠のガラス戸には、金色の文字でこう書かれている。

「許認可・相続・遺言・各種申請 紙の書類、まだまだ愛してます」

 戸を開けると、チリン、と錆びた鈴が鳴る。

 中には、花柄の魔法瓶、赤いビニール張りの応接椅子、足の短いちゃぶ台、壁には「努力・根性・申請期限」と書かれた色紙。受付横には、なぜか黒電話が鎮座していた。もちろん2050年である。黒電話など、博物館か、気合いの入った喫茶店か、山崎行政書士事務所くらいにしかない。

 所長の山崎銀次郎は七十二歳。

 白髪を七三に分け、年中くたびれたカーディガンを着ている。電子申請もAI認証も使いこなすが、最後には必ず紙に印刷して、朱肉でぽんと押したがる男だった。

「書類ってのはな、紙にした瞬間、顔が見えるんだよ」

 と、銀次郎はよく言った。

 助手の山崎すみれは二十八歳。銀次郎の孫で、最新式の行政手続AIを使いこなす。だが、そのAIはブラウン管テレビの中に入れられていた。銀次郎の趣味である。

 AIの名は「アオバ」。

 画面には丸い目とへの字口が表示され、仕事中にたまに砂嵐になる。

「所長、また私の処理速度が落ちています。原因はブラウン管筐体の熱暴走です」

「気合いが足りん」

「私は気合いで動作しません」

「昔の家電は叩くと直った」

「叩いたら訴えます」

 そんなやり取りをしている午前九時三分。

 黒電話が鳴った。

 ジリリリリリリリリリリリリリリリリ!

 すみれは思わず魔法瓶を抱えた。

「おじいちゃん! また鳴ってる!」

「おお、懐かしい音だ。心が昭和になる」

「線、つながってないんだよね?」

「うむ。三年前からな」

「じゃあ何で鳴るのよ!」

 銀次郎は湯呑みを置き、黒電話の受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

 受話器の向こうから、ざりざりした音が聞こえた。

 そして、細い老婆の声がした。

『……ナポリタンが、消えたんです』

「ナポリタン?」

『ついでに、うちの店も消されそうなんです』

 通話はそこで切れた。

 すみれは口を半開きにした。

「怪談?」

 銀次郎は眉をぴくりと動かした。

「いや、事件だ」

「ナポリタンが?」

「行政書士の勘だ」

「便利な勘だね」

 それから二分後、ガラス戸の鈴がチリンと鳴った。

 入ってきたのは、小柄なおばあさんだった。紫色のカーディガンに、白い割烹着。手には古びた紙袋。髪はきちんと結われ、目だけがやけにきらきらしている。

「山崎先生、電話、つながりました?」

 銀次郎はうなずいた。

「つながったというより、黒電話が根性で鳴りましたな。内藤ふみさん」

 すみれは驚いた。

「知り合い?」

「草薙横丁の喫茶あかねのママだ。昔からナポリタンがうまい」

 ふみは紙袋から、しわしわの書類を取り出した。

「今朝、市の電子通知が来たんです。うちの喫茶あかねが、廃業届を出したことになってるって」

「廃業届?」

 すみれはすぐに端末を開いた。

 喫茶あかねは、草薙駅から少し歩いたところにある古い喫茶店だった。赤いテント、食品サンプル、クリームソーダ、銀皿のナポリタン。店内にはピンク電話も置かれている。2050年にもなって、店の会計は「おつりは缶から自分で取ってね」という信頼方式だった。

 近所の老人も、学校帰りの子どもも、AI清掃ロボットの充電待ちの技師も、なぜかみんなそこに集まる。

 ふみはその喫茶あかねを、亡き夫と五十年近く守ってきた。

「私は出してません。なのに、電子署名も委任状も揃ってるって」

 アオバがブラウン管の中で唸った。

「該当データを確認します。提出時刻は本日午前二時十七分。代理提出者は……山崎行政書士事務所」

 事務所の空気が、花柄の魔法瓶ごと凍った。

 すみれが銀次郎を見た。

「おじいちゃん、夜中にナポリタン食べながら申請した?」

「わしは九時には寝た。九時十分には夢で富士山と将棋していた」

「証拠能力が弱すぎる」

 アオバが続けた。

「添付された委任状には、山崎行政書士事務所の職印データ、および内藤ふみ氏の電子署名が付与されています」

 ふみは震える手で紙袋を握った。

「店を閉めるつもりなんか、ありません。あそこはね、私の店ってだけじゃないんです。近所の子が宿題をして、おじいちゃんたちが将棋して、誰かが泣いたらクリームソーダを出して……そういう場所なんです」

 銀次郎は静かに立ち上がった。

 古い木の机の引き出しを開け、朱肉と職印を取り出そうとした。

 しかし。

「……ない」

「え?」

「わしの職印が、ない」

 すみれが叫んだ。

「密室ハンコ消失事件じゃん!」

 アオバが淡々と言った。

「事件名としては古臭いですが、当事務所の内装には適合しています」

 銀次郎は背筋を伸ばした。

「すみれ、アオバ。今から喫茶あかね廃業届偽造事件を調べる」

「行政書士事務所なのに探偵ごっこ?」

「行政書士はな、街の書類の番人だ。書類が嘘をついた時は、紙の裏まで見る」

「電子申請だけどね」

「心で紙にするんだ」

 すみれは一瞬だけ呆れた顔をしたが、すぐに端末を抱えた。

「了解。まずは提出データの差し止め申立てと、本人非関与の上申書を準備する。処理確定は今日の十七時。間に合う」

 ふみが頭を下げた。

「お願いします。あの店、まだ終わらせたくないんです」

 銀次郎は笑った。

「終わらせませんよ。少なくとも、今日のナポリタンを食べるまでは」

     *

 喫茶あかねは、草薙横丁の奥にあった。

 表通りでは、自動運転タクシーが音もなく走り、空中広告が「未来型再開発・クサナギスカイアーケード計画」を派手に映している。

 その計画では、古い横丁一帯を取り壊し、全天候型ショッピングモールとドローン物流拠点を作るらしい。

 すみれは広告を見上げた。

「これ、喫茶あかねの場所も含まれてるね」

 銀次郎は鼻を鳴らした。

「なるほど。ナポリタンの上に未来を建てる気か」

「言い方はかわいいけど、けっこう物騒」

 店に入ると、カランコロンとドアベルが鳴った。

 中は昭和そのものだった。赤い椅子、木目のカウンター、壁には古いプロ野球選手のサイン色紙。テーブル型のゲーム機は、今も百円でインベーダーが遊べる。ただし、画面の隅には「量子チップ搭載」と小さく書かれていた。

 厨房から、ふみの孫娘である咲良が出てきた。

 高校二年生。黒髪を短く切り、エプロン姿がよく似合う。目元には少し疲れがあった。

「山崎先生……来てくれたんですね」

「咲良ちゃん、店は開けてるかい?」

「はい。でも、ばあちゃん、朝から動揺してて」

 ふみは厨房で、鍋を見つめていた。

「ナポリタンのケチャップ、どこに置いたかしら」

「ママ、そこ。目の前」

「あらやだ」

 ふみは笑ったが、その笑いにはかすかな不安が混じっていた。

 銀次郎は店内を見回した。

「すみれ、まず聞き込みだ」

「はいはい。アオバ、提出データの添付ファイル解析お願い」

 ブラウン管AIは、すみれの携帯端末に接続されて文句を言った。

「モバイル環境は揺れます。私はデリケートです」

「昭和ブラウン管のくせに」

「筐体差別です」

 まず怪しかったのは、常連の堀田理容店の店主、堀田徳三だった。

 徳三は喫茶あかねの端の席で、朝からコーヒーを飲んでいた。白衣のような理容服を着て、丸眼鏡をかけている。

「わしゃ知らんぞ。廃業なんてとんでもない。あかねがなくなったら、わしはどこでサボればいいんだ」

「仕事しなさいよ」

 すみれが突っ込むと、徳三は胸を張った。

「理容師にとって休憩も技術のうちだ」

「名言っぽく言わないで」

 次に怪しかったのは、再開発会社の営業担当、鏑木だった。

 ちょうど店の前で、銀色のスーツに身を包み、ホログラム資料を浮かべながら近所の人に説明していた。

「皆さま、未来は待ってくれません。クサナギスカイアーケードが完成すれば、この街は東海随一のスマート商業地に――」

 銀次郎が近づくと、鏑木はにこりとした。

「ああ、山崎先生。ご無沙汰しております」

「鏑木さん。喫茶あかねの廃業届について、何かご存じかな」

「廃業届? さあ。ですが時代の流れというものはありますからね。古いものは、時に美しい退場を――」

「美しい退場は本人が決める。ケチャップの量と同じだ」

 鏑木は笑顔を崩さなかった。

「先生は相変わらず、比喩が胃もたれしますね」

 すみれは小声で言った。

「この人、怪しさがスーツ着て歩いてる」

「だが怪しすぎる者は、だいたい途中退場のミスリードだ」

「おじいちゃん、推理小説読みすぎ」

 店に戻ると、アオバが解析結果を出した。

「添付された委任状画像に不自然な点があります」

「どこ?」

「紙面右下、山崎行政書士事務所の職印部分。朱肉のかすれ方が、事務所保管の過去データと一致しています。ただし、最新の印影ではありません。七年前のものです」

 銀次郎の目が細くなった。

「七年前……」

「さらに、委任状の文面に誤字があります。『草薙横丁』が『草難木横丁』になっています」

 徳三がコーヒーを吹いた。

「草難木って何だ。草が難しくて木になるのか」

 ふみも少し笑った。

「昔、うちの人がよく間違えてたわ。字が下手でねえ」

 銀次郎はふみを見た。

「ご主人が?」

「ええ。あの人、草薙の『薙』が苦手で、よく『難木』って書いてました。私がいつも直して……」

 店内が静かになった。

 咲良が、皿を落としそうになった。

 すみれはその反応を見逃さなかった。

「咲良ちゃん?」

「……何でもないです」

 銀次郎はカウンターの上に置かれた古い写真立てを見た。

 ふみと亡き夫、そして小さな咲良が写っている。三人ともナポリタンの皿を前に笑っていた。

 その写真の端に、小さな赤い印鑑ケースが映っていた。

 銀次郎は尋ねた。

「ふみさん、ご主人の古い書類は残っていますか」

「奥の物置に、段ボールで」

 物置は、昭和の宝箱だった。

 古い帳簿、紙の領収書、手書きのメニュー、カセットテープ、町内会の祭りのポスター。銀次郎は一枚一枚めくった。

 すみれは端末でスキャンしながらぼやいた。

「この物量、昭和どころか紙の地層だよ」

「歴史はだいたい埃をかぶっている」

「名言製造機」

 やがて銀次郎は、一冊の古いノートを見つけた。

 表紙には、震える文字でこう書いてあった。

「喫茶あかね 引き継ぎ帳」

 ふみの夫が亡くなる前に書いたものらしい。

 その中に、一枚の古い委任状の下書きが挟まっていた。

 宛名は、山崎行政書士事務所。

 内容は、こうだった。

「妻ふみの体がつらくなった時、店を無理に続けさせないでください。 けれど、あかねの灯りだけは、できれば町に残してください」

 下には、草難木横丁、と誤字のある住所。

 そして七年前の山崎事務所の印影のコピー。

 すみれが息を呑んだ。

「これを使って、偽造した?」

 その時、物置の入口で小さな声がした。

「……私です」

 咲良だった。

 ふみが振り返った。

「咲良?」

 咲良は唇を噛み、エプロンの裾を握りしめていた。

「廃業届、出したの、私です」

 店内の空気が重くなった。

 徳三は黙って帽子を取った。

 ふみは信じられないように孫娘を見た。

「どうして……」

 咲良の目から涙がこぼれた。

「ばあちゃん、最近、火をつけっぱなしにしたり、注文忘れたりしてるでしょ。病院の検査も、ひとりで行ったって言ってたけど、本当は怖くて行ってないでしょ」

 ふみは何も言えなかった。

「再開発の人が言ってたの。今なら補償金が出るって。店を閉めたら、ばあちゃんは楽になるって。私も、進学のお金を心配しなくていいって」

 咲良は震える声で続けた。

「でも、ばあちゃんに言ったら絶対いやだって言うから。じいちゃんの引き継ぎ帳を見つけて、これなら……じいちゃんも、無理するなって言ってたから……」

「職印は?」

 すみれが尋ねた。

 咲良はポケットから、小さな赤い印鑑ケースを出した。

「山崎先生の本物じゃないです。七年前に先生がくれた、書類確認用のゴム印見本です。昔、じいちゃんが『かっこいいから記念に』ってもらってて……それをスキャンしました」

 銀次郎は深く息を吐いた。

「なるほど。見本印か。わしの管理が甘かった」

 すみれが首を振った。

「でも電子署名は?」

 咲良は泣きながら言った。

「ばあちゃんの古い端末、暗証番号が、じいちゃんの誕生日のままだったから……」

 ふみは椅子に座り込んだ。

「咲良……」

「ごめんなさい。私、ばあちゃんを守りたかっただけなの。でも、やってる途中で怖くなって。取り消そうと思ったけど、どうしたらいいかわからなくて。黒電話にかけたの」

 すみれは眉をひそめた。

「黒電話に?」

「昔、ばあちゃんが言ってたんです。困ったら山崎先生に電話しなさいって。店の奥にある古い電話帳に番号があって……」

 銀次郎がぽんと手を打った。

「それか!」

 喫茶あかねのピンク電話は、古い地域回線の保存事業で、非常時だけ旧式交換機に接続される特別な端末だった。山崎事務所の黒電話も同じ事業の対象機器だった。

 普段は鳴らない。

 だが、古い電話から古い電話へだけ、たまに気まぐれのようにつながる。

「つまり黒電話は幽霊ではなく、昭和の根性だったわけだ」

 アオバが言った。

「技術的には災害用アナログバックアップ回線です」

「夢がないね、アオバ」

「私は現実的AIです」

 ふみは、咲良の前に立った。

 咲良は叱られると思って身を縮めた。

 だが、ふみは孫娘を抱きしめた。

「ばかだねえ」

「ごめんなさい……」

「本当に、ばかだねえ。私に相談しなさいよ。ナポリタンのケチャップが足りない時だって、一人で悩んだら焦げるんだから」

 咲良は声を上げて泣いた。

「ばあちゃん、店、やめたくない?」

「やめたくない。でも、あんたに心配ばっかりさせる店なら、続け方を変えなきゃね」

 銀次郎は、ゆっくりとうなずいた。

「そこからが、行政書士の出番ですな」

     *

 十七時まで、残り三時間。

 山崎行政書士事務所は、久しぶりに戦場となった。

 銀次郎は古いワープロで上申書を打った。キーを叩く音が、まるで小さな祭りの太鼓のように響く。

 すみれは電子申請システムに異議申立てを送信し、本人非関与の事情説明書、廃業届撤回申請、電子署名不正利用の報告書を作成した。

 アオバはブラウン管の中で発熱しながら、添付資料を整理した。

「処理負荷が高いです。冷却を要求します」

 銀次郎はうちわで扇いだ。

「昔ながらの水冷ならぬ風冷だ」

「非効率ですが、心意気は認めます」

 ふみは署名をした。

 咲良は、経緯書を書いた。何度も泣きながら、何度も書き直した。

 徳三はなぜか焼きそばパンを差し入れた。

「腹が減っては書類は書けん」

 すみれが笑った。

「それ、戦だよ」

「書類も戦だ」

 銀次郎は最後の一枚を読み上げた。

「喫茶あかねは、今後、営業日を週四日に縮小。火の管理は自動遮断装置を導入。地域食堂としての利用申請を新たに行い、咲良さんは学業優先で運営補助。ふみさんについては、任意後見契約と見守り協定を検討」

 ふみが目を丸くした。

「そんなにいろいろできるんですか」

「できます。店を守る方法は、店を無理に続けることだけじゃない」

 咲良が小さく言った。

「私、ばあちゃんの店を残したい。でも、ばあちゃんにも元気でいてほしい」

「なら、その気持ちをちゃんと書類にしましょう」

 銀次郎は職印を取り出した。

 今度は、机の奥から見つかった本物の職印だった。犯人は猫のミケ課長だった。朝、朱肉の匂いにつられて引き出しを開け、職印を座布団の下に隠していたのである。

「ミケ課長、あなたが黒幕だったのね」

 すみれが言うと、三毛猫は事務所の座布団でふてぶてしく丸くなった。

 アオバが判定した。

「動機は不明。ただし猫なので不起訴相当です」

 銀次郎は朱肉をつけ、ぽん、と押した。

 赤い印影が、紙の上に咲いた。

 すみれが送信ボタンを押したのは、十六時五十二分だった。

 八分後。

 市のシステムから通知が来た。

「廃業届処理保留。本人申出により調査開始。営業継続可」

 すみれが両手を上げた。

「通った!」

 徳三が拍手した。

 ふみは泣き笑いした。

 咲良はふみの手を握った。

 銀次郎は湯呑みを持ち上げた。

「では、事件解決を祝して――」

「お茶?」

「ナポリタンだ」

     *

 その夜、喫茶あかねには人が集まった。

 徳三、近所の子どもたち、無人バスの整備士、再開発に反対でも賛成でもないがナポリタンは好きな人々。店の外では未来型広告が光っていたが、店内では古い蛍光灯がじんわり明るかった。

 ふみは銀皿にナポリタンを盛った。

 ケチャップの香りが、店いっぱいに広がる。

 銀次郎は一口食べ、目を閉じた。

「うむ。これは営業継続すべき味ですな」

 すみれも食べた。

「行政判断に私情入りすぎ。でも、おいしい」

 咲良は、厨房でふみの横に立っていた。

「ばあちゃん、焦げそう」

「あらやだ」

「だから言ったじゃん」

「はいはい、助かりますよ、未来の店長さん」

 咲良は照れて、鍋をかき混ぜた。

 その時、店のピンク電話が鳴った。

 ジリリリリリリリリ。

 全員が固まった。

 ふみがおそるおそる受話器を取った。

「はい、喫茶あかねです」

 しばらくして、ふみは笑った。

「山崎先生、事務所からです」

 銀次郎が受話器を受け取った。

『こちらアオバです。所長、事務所の黒電話が勝手に発信状態になっています。原因不明です』

「おお、黒電話もナポリタンを食べたかったのか」

『違います。あと、ミケ課長が申請書の上で寝ています』

「それは重要案件だ。すぐ戻る」

 銀次郎が受話器を置くと、店中が笑った。

 2050年の草薙の夜。

 ドローンは空を飛び、AIは書類を処理し、街は少しずつ未来へ変わっていく。

 それでも、古い喫茶店の赤い椅子に座れば、誰かが「大盛りにする?」と聞いてくれる。困ったら、少し変な行政書士事務所が、紙と朱肉と妙な勘で駆けつけてくれる。

 山崎行政書士事務所の黒電話は、今日も線がつながっていない。

 けれど時々、誰かの困りごとだけは、ちゃんと鳴らしてくれるらしい。

 ジリリリリリ。

 昭和みたいに。

 未来みたいに。

 そして、ナポリタンの湯気みたいに、あたたかく。

 
 
 

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