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色素値72――清水区だけが死ぬ朝

静岡市清水区、潮乃町。

清水港から吹く潮風が、まだ夜の冷たさを残していた午前五時十七分。巴川の水面は鉛色で、三保の松原へ向かう空だけが、わずかに白みはじめていた。

最初の死体は、古い防潮堤の下で見つかった。

佐伯民子、五十九歳。市役所の清掃員。毎朝、誰より早く町内のごみ置き場を整える女だった。

倒れていた姿は眠っているようだった。傷もない。争った跡もない。ただ、爪の付け根に、薄い青い輪が浮いていた。

その二十分後、清水魚市場で競り人が倒れた。

さらに三十分後、潮乃町商店街の床屋が、開店準備中に鏡の前で崩れ落ちた。

三人に共通していたのは、住所が潮乃町であること。

そして、体内に残る“ある色素”の値が、七十二を超えていたことだった。

清水署の刑事、望月烈は、現場に着いた瞬間、胸の奥が焦げるような匂いを覚えた。

実際に焦げ臭かったわけではない。

それは、故郷が燃えていると知った人間だけが嗅ぐ、記憶の匂いだった。

「また潮乃町か」

鑑識の大石凛が、白い手袋をはめたまま言った。

烈は返事をしなかった。

潮乃町は、烈が生まれた町だった。港で働く父に怒鳴られ、魚臭い路地を駆け回り、台風の夜には近所総出で土嚢を積んだ町。貧しくて、騒がしくて、情が厚くて、逃げ出したいほど狭く、帰ってくると泣きたくなるほど温かい町。

その町で、人が死んでいる。

しかも、原因不明。

「感染症か?」

「分かりません。ただ、妙です」

凛は民子の手をそっと返した。

爪の根元に、青い輪。

「毒物反応は薄い。外傷もない。なのに臓器が一斉に止まってる。まるで、体の中でスイッチを切られたみたいに」

「スイッチ?」

「ええ。しかも、切られる人間と切られない人間がいる」

烈の携帯が鳴った。

県立医療センターの感染症医、北条芽衣からだった。

「望月さん、落ち着いて聞いてください」

「落ち着ける話ならな」

「無理です。これは普通の病気じゃありません」

電話の向こうで、芽衣の声が震えていた。

「亡くなった三人の体内に、同じ人工色素が残っています。仮称でC-72。昔、潮乃町の防潮堤に使われた特殊な青色顔料です」

烈は目を細めた。

防潮堤。

青。

記憶の奥で、少年時代の自分の手のひらが蘇る。

町内会の大人たちと子どもたちで、台風被害からの復興を願って防潮堤に絵を描いた日。

“朝凪ブルー”。

希望の色だと、大人たちは言っていた。

「その色素がどうした」

「一定量を超えた人だけが死んでいます。七十二以上です」

「ふざけるな。色素で人が死ぬか」

「死因そのものはウイルスです」

烈は息を止めた。

芽衣は続けた。

「でも、そのウイルスは誰でも殺すわけじゃない。体内のC-72が一定量を超えた人だけに反応する。仕組みの詳細はまだ言えません。言えるのはひとつだけ」

「何だ」

「これは自然発生じゃない。誰かが、潮乃町の人間を選んで殺している」

その瞬間、清水署の無線が割れた。

「潮乃町中央公園で新たに二名倒れました!」

烈は拳を握った。

「犯人はいるな」

「います」

芽衣の声は、今にも泣きそうだった。

「これは、バイオテロです」

午前八時。

潮乃町は封鎖された。

テレビ局のヘリが港の上を旋回し、ネットには根拠のない噂が溢れた。

“肌の色が濃い人が危ないらしい”

“日焼けしている人間から死ぬ”

“清水区全体が汚染された”

烈は署の会見場に乱入し、マイクを奪った。

「デマを流すな!」

記者たちが一斉に振り向く。

烈は真正面からカメラを睨んだ。

「これは肌の色の話じゃない。人種でも体質でもない。犯人が仕掛けた人工色素だ。潮乃町の復興事業で使われた青い顔料。それを長年浴びたり触れたりした人が狙われている。誰かを差別する材料にした奴は、犯人の片棒を担いだと思え!」

隣で署長が青ざめていたが、烈は止まらなかった。

「怖いのは分かる。俺も怖い。だが、怖さで人を切り捨てたら、犯人の勝ちだ」

会見場が静まり返った。

その直後、清水署に一通のメールが届いた。

件名は、たった三文字。

MAX

本文にはこう書かれていた。

色の濃い者から死ぬ。薄い者だけが朝を見る。次は、赤い王が青い海へ落ちる。

添付されていた画像は、潮乃町の古い集合写真だった。

十二年前、防潮堤に“朝凪ブルー”で絵を描いた住民たち。

写真の隅に、少年時代の烈も写っていた。

そして、赤丸で囲まれた人物が三人。

佐伯民子。

魚市場の競り人。

商店街の床屋。

全員、すでに死んでいた。

凛が低く言った。

「犯人は、次に死ぬ人間を知っている」

烈は写真を凝視した。

「違う」

「え?」

「知っているんじゃない。選んでるんだ」

“赤い王”。

その言葉が指す場所を、捜査本部は清水港の赤灯台だと判断した。

だが烈は納得しなかった。

犯人は頭がいい。メールの名はMAX。県警の解析では、過去に複数の国際数学コンテストで匿名参加し、全問満点を出した人物と同一の癖が見つかっていた。

常人の読みを、そのまま置くはずがない。

「赤い王は灯台じゃない」

烈は潮乃町商店街を走った。

シャッターの降りた店の前で、老婆がひとり、避難所へ向かう子どもたちにおむすびを配っていた。

「ミツ婆!」

おむすび屋の宮田ミツ。烈が子どもの頃、万引きしかけたコロッケを叱りながら、倍の量を食わせてくれた女だった。

「烈ちゃん、刑事になっても顔がうるさいねえ」

「赤い王って何だ? 昔、町でそう呼ばれてたものは?」

ミツは少し考え、ふっと顔を曇らせた。

「赤王丸」

「何だそれ」

「昔、港にいた古い冷凍船だよ。船体が錆びて真っ赤でね。子どもらが赤い王様って呼んでた。今は使われてない。日の出埠頭の外れに係留されてるはずだ」

烈は走り出した。

背後でミツが叫んだ。

「烈ちゃん!」

烈は振り返らなかった。

「死ぬんじゃないよ! あんたの母ちゃんに、あたしはまだ怒られたくない!」

胸が詰まった。

母は十年前に死んだ。

それでも、この町の人間は死者を近所に住まわせている。

烈は、その温かさが好きだった。

そして今、その温かさを利用して人を殺す奴がいる。

許せなかった。

赤王丸は、錆びた巨体を海に沈めかけるように係留されていた。

船内は暗く、潮と鉄と古い油の匂いがした。

烈は拳銃を構え、甲板へ上がった。

「清水署だ! 出てこい!」

拍手が聞こえた。

乾いた、馬鹿にしたような音。

操舵室の上に、黒いコートの男が立っていた。

細い体。白すぎる顔。感情の薄い目。

「望月烈。予想より十三分早い。やはり君は、論理より怒りで走る」

「お前がMAXか」

「人はそう呼ぶ。知能検査の上限を振り切ると、数字ではなく記号になるらしい」

男は微笑んだ。

「九条透真だ」

烈はその名を知っていた。

十二年前、“朝凪ブルー”を開発した九条化学の創業者一族。だが会社は不祥事で潰れた。開発責任者だった九条透真の母は、責任を負わされ、自殺したと報じられていた。

「復讐か」

「復讐?」

透真は首を傾げた。

「そんな低温の言葉で、僕を測るな」

「じゃあ何だ」

「証明だよ」

透真の目が、初めてぎらりと光った。

「あの青は安全だと、町も会社も県も言った。だが、色は体に残った。母は危険性を訴えた。誰も聞かなかった。だから僕は、世界中の誰にも無視できない形で証明した」

烈の指が引き金にかかる。

「人を殺してか」

「数字は死なないと読まれない」

烈は怒鳴った。

「民子さんは数字じゃねえ!」

透真は黙った。

「魚市場の親父も、床屋の爺さんも、みんなこの町で生きてた人間だ。お前の母親が死んだ痛みは分かる。だが、その痛みで他人を切り刻んだ瞬間、お前は母親の無念まで踏みにじったんだ!」

その言葉に、透真の表情がわずかに崩れた。

だが次の瞬間、船内に警報音が鳴り響いた。

透真が指を鳴らす。

甲板の扉が一斉に閉まり、船が古いエンジン音を立てた。

「次の標的は避難バスだ」

烈の血が凍った。

「何?」

「色素値の高い住民だけを、行政が親切にも一か所に集めてくれた。恐怖は人間を合理的にする。合理的な人間は、とても操りやすい」

烈は悟った。

封鎖も検査も避難も、犯人は計算に入れていた。

町を守るための仕組みが、町を殺す檻に変えられている。

「九条!」

烈は階段を駆け上がった。

透真は身軽に飛び退き、錆びたクレーンへ移った。

烈も追う。

港の上空をヘリが飛ぶ。海は黒く、朝日はまだ昇らない。

クレーンの鉄骨の上で、二人は向かい合った。

透真はナイフを抜かなかった。

拳銃も持っていなかった。

ただ、烈の動きを読んでいた。

烈が踏み込む。

透真は半歩ずれてかわす。

烈が殴る。

透真は肘で軌道を逸らす。

まるで烈の筋肉の動きまで先読みしているようだった。

「君は右肩を壊している。高校時代の喧嘩か?」

「うるせえ!」

「怒ると左足の踏み込みが浅くなる。次は大振り。次は掴み。次は――」

烈は大振りした。

透真が笑う。

だが烈は、空振りの勢いで自分から鉄骨の外へ落ちた。

「何――」

透真の予測が止まった。

烈は落ちながら、下段のワイヤーを掴んだ。掌が裂け、血が飛んだ。反動で体を振り上げ、透真の足首を掴む。

「計算できたか、天才」

透真の体が崩れた。

二人は鉄骨に叩きつけられ、転げるように落ちた。烈は背中を強打し、息が止まった。それでも透真の襟を掴んで離さなかった。

「避難バスはどこだ!」

透真は血を吐きながら笑った。

「もう遅い」

そのとき、烈の無線が鳴った。

凛の声だった。

「望月さん! バスは止めました!」

烈は目を見開いた。

「どうやって」

「あなたが会見で言ったでしょう。怖さで人を切り捨てるなって」

凛の声が震えていた。

「ミツさんたち町内会が、避難者名簿の不自然な並びに気づいたんです。高色素値の人だけが同じ便に集められていた。住民が運転手を止めました。警察より早く」

烈は透真を見た。

透真の顔から笑みが消えていた。

「馬鹿な……住民が統計の歪みに気づくはずがない」

烈は荒い息で笑った。

「統計じゃねえ。近所付き合いだ」

ミツ婆が気づいたのだ。

「あの人とこの人が同じバスなんて変だ。昔、防潮堤を一緒に塗った人ばかりじゃないか」

そんな、天才の計算に入らない、台所の会話みたいな直感で。

透真は初めて、恐怖の顔をした。

逮捕直前、透真は小さな端末を海へ投げ捨てようとした。

烈はその腕を掴んだ。

「まだ何かあるのか!」

「これは母の記録だ」

透真は低く言った。

「C-72の真実。ウイルスを止めるために必要なデータも入っている」

「ならなぜ捨てる!」

「君たちが僕を怪物として終わらせれば、世界は安心する。だが真実はまた埋まる。僕が死ねば、怪物の遺言になる。君が拾えば、刑事の証拠になる」

烈は固まった。

「お前……最初から捕まるつもりだったのか」

透真は笑わなかった。

「僕の色素値は九十一だ」

烈の背筋が凍った。

透真の爪の根元にも、青い輪が浮かびはじめていた。

「母が死んだ日、僕は防潮堤に青を塗った。母の色だと思って。誰よりも濃く、何度も、何度も」

「馬鹿野郎……」

烈は透真を抱え起こした。

「医者を呼ぶ! 死ぬな!」

「なぜ助ける。僕は君の町を殺した」

「殺した奴を死なせたら、残された人間は何を裁けばいい」

透真の瞳が揺れた。

それは天才の目ではなかった。

母を失った子どもの目だった。

「望月烈……君は非合理だ」

「よく言われる」

「だから、僕は負けたのか」

「違う」

烈は血まみれの手で端末を握りしめた。

「お前が人間を数字にしたから負けたんだ」

透真は何かを言おうとした。

だが声にならなかった。

清水港の向こう、三保の松原の上に、朝日が昇りはじめた。

その光を浴びて、透真の爪の青い輪が、静かに濃くなった。

事件は終わらなかった。

九条透真は逮捕後、病院で死亡した。

死者は二十七名。

潮乃町の封鎖は続き、清水区には長い沈黙が落ちた。

ニュースは犯人を“天才バイオテロリスト”と呼んだ。

だが烈は、その言葉が嫌いだった。

天才。

怪物。

復讐鬼。

どれも便利すぎる。

それを言えば、人は考えなくて済む。

なぜ町の小さな声が無視されたのか。

なぜ“希望の青”が危険の印になったのか。

なぜ、痛みを抱えた子どもが、人を殺す大人になったのか。

烈は退院後、潮乃町の防潮堤に立った。

青い絵は、いまも残っていた。

魚。

富士山。

サッカーボール。

不器用な太陽。

その端に、少年時代の烈が描いたらしい、歪んだ朝日があった。

隣にミツ婆が来た。

「烈ちゃん、色素値いくつだった」

烈は黙った。

検査結果は七十一・九。

死の境界とされた七十二の、わずか下。

医者は偶然だと言った。

だが烈は知っていた。

子どもの頃、防潮堤を塗って帰るたび、母が怒って烈の手を何度も洗った。

「爪の間まで洗いなさい。色が残るでしょう」

その小言が、烈を生かした。

世界を救うのは、英雄の決断だけではない。

母親の小言。

婆さんのおむすび。

近所の違和感。

刑事の無茶。

そういう小さなものが、怪物の計算を狂わせる。

「ミツ婆」

「何だい」

「朝って、こんなに眩しかったか」

ミツは防潮堤の青を見つめた。

「眩しいよ。死んだ人にも、生きてる人にも、同じように当たるからね」

烈は目を伏せた。

むなしさは消えない。

絶望も消えない。

救えなかった名前は、これからも胸の中で重く沈む。

それでも、潮乃町の避難所では、子どもたちが紙に太陽を描いていた。

青ではなく、赤でもなく、それぞれの好きな色で。

烈は朝日に向かって歩き出した。

清水港の海が、ゆっくりと光を返す。

陽はまた昇る。

だがその光を、もう二度と、当たり前だとは思わない。

 
 
 

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