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死因欄に「朝日」と書け

―清水区連続自然死事件―

清水港に朝が来ると、海はいつも一瞬だけ白く燃える。

巴川の河口から見える富士は、雲の向こうで眠っているようだった。三保松原の黒い松並みはまだ夜を引きずり、港のガントリークレーンだけが、怪物の骨のように朝焼けへ突き刺さっている。

その防潮堤の上で、十三歳の少年が死んでいた。

名前は、朝倉湊。

清水区立入江中学一年。小柄で、走るのは禁止されていた。先天性の不整脈があり、激しい運動をすれば心臓が止まる可能性があると、母親は何度も学校に伝えていた。

司法解剖の結果は、急性心停止。

外傷なし。毒物反応なし。争った痕跡なし。

死因欄には、機械で打ったような冷たい字でこう記された。

自然死。

清水署刑事課の赤堀玄司は、その二文字を見た瞬間、机を叩いた。

「ふざけんな」

鑑識の伏見七緒が、眼鏡の奥でまばたきをした。

「赤堀さん。医師の判断です」

「医師が神様なら、刑事はいらねえ」

赤堀は四十二歳。背広より作業着が似合う刑事だった。港湾労働者だった父親譲りの太い腕、喧嘩で折った鼻、怒ると声が二階まで響く。署内では“清水署の火薬庫”と呼ばれていた。

七緒は端末を操作しながら言った。

「ただ、気になる点はあります」

「言え」

「死亡推定時刻の直前、湊くんは清水署に三回電話しています。どれも通話は成立していません。最後の一回だけ、留守番メッセージに五秒ほど音声が残っています」

七緒が再生した。

ざあ、と風。遠くで海鳥。そして、少年のかすれた声。

――死んだ人たちは、自然に死んでない。

その後、電子音のような女の声が混じった。

――おはようございます。今日は、いい朝です。

録音はそこで切れた。

赤堀の背筋を、港の冷気より冷たいものが撫でた。

「……今、何て言った」

七緒が画面を止める。

「湊くんの声ではありません。スマート見守り端末の合成音声に近いです」

「おはようございます、だと?」

「はい」

赤堀は窓の外を見た。清水の街に、本物の朝が広がっていた。

それなのに、彼にはその朝が、誰かの喉に指をかけて笑っているように見えた。

湊の母、朝倉志保は、清水銀座の古い惣菜屋で働いていた。

赤堀が訪ねると、店先にはまだ開店前の札が下がっていた。志保は白い割烹着の袖を握りしめ、何度も同じことを言った。

「あの子、走っちゃだめだったんです。先生にも、本人にも、何度も……。でも湊は、誰かが困ってると、止まれない子で」

台所の壁には、湊が描いた清水港の絵が貼ってあった。クレーン、船、富士山。絵の端に小さく、母親と自分が手をつないでいる。

「湊くんは、最近何か調べていましたか」

志保の顔がこわばった。

「自由研究だって言ってました。変なことを。自然死って、本当に自然なのかなって」

「自然死?」

「新聞の切り抜きを集めていました。近所で亡くなった人のことばかり。私、気味が悪くて、やめなさいって叱ったんです。そしたらあの子……」

志保は涙を落とした。

「『死んだ人を、死んだままにしちゃだめだ』って」

湊の部屋は、十三歳の少年らしく狭く、乱雑で、そして驚くほど几帳面だった。

机には古い新聞の切り抜きが並べられていた。

元小学校校長、心不全。元町内会長、入浴中の急死。内科医、低血糖による急性心停止。訪問看護師、喘息発作。元市議秘書、脳卒中。

いずれも清水区内で起きた死亡事案。いずれも事件性なし。いずれも、自然死として処理されていた。

七緒が切り抜きを見比べる。

「死亡時期はばらばらです。三年前、一年前、半年前、二か月前……」

赤堀は湊のノートを開いた。

子どもの字で、びっしりと書き込みがある。

――全員、死ぬ前に同じ声を聞いている。――「おはようございます。今日は、いい朝です」――でも死んだ時間は、朝じゃない人もいる。――朝じゃないのに朝が来た。――自然死は密室じゃない。密室に自然を入れただけ。

最後のページには、大きくこう書かれていた。

犯人は、人を殺していないふりをしている。

赤堀はノートを閉じた。

「伏見」

「はい」

「この子は刑事だった」

七緒は静かにうなずいた。

「私たちより先に、事件を見つけていました」

最初に掘り返したのは、二か月前に死んだ訪問看護師、河合美枝の件だった。

死亡場所は、清水区梅田町の古いアパート。死因は喘息発作。部屋は内側から鍵がかかっていた。吸入器は枕元にあり、薬も切れていなかった。

ただし、部屋には市の高齢者見守り事業で配布された端末があった。

商品名は、MAX-LIFE

体温、心拍、室温、服薬時間を管理し、異常があれば家族や業者へ通知する。声で挨拶し、照明やエアコンとも連動する。清水区の独居高齢者を中心に広く導入されていた。

端末を開発したのは、真木朔夜という男だった。

三十一歳。清水区生まれ。幼少期から知能検査で上限値を叩き出し、周囲から“MAX”と呼ばれていた天才。東京の大学を飛び級同然で出て、医療AI企業を立ち上げ、数年前に地元へ戻ってきた。

資料の顔写真は、凍った水のように整っていた。笑っているのに、目が笑っていない。

赤堀は真木の会社を訪ねた。

清水港を見下ろす白いビルの最上階。ガラス張りのオフィスには無駄なものが一つもない。社員たちは音を立てずにキーボードを叩き、壁一面のモニターには心拍数の波形が都市の夜景のように流れていた。

真木朔夜は、白いシャツの袖をまくって現れた。

「刑事さんが僕に何の用でしょう」

声は柔らかかった。だが赤堀は、その柔らかさにぞっとした。熱を持たない声だった。

「朝倉湊という少年を知ってるか」

「ニュースで」

「湊くんは死ぬ前、あんたの端末の声を聞いている」

真木は眉をわずかに上げた。

「それは不思議ですね」

「不思議で済ませるな」

「端末は何万台もあります。ログを確認しましょう」

「確認される前に消えるログなんざ、ログじゃねえ」

真木は薄く笑った。

「刑事さんは、ずいぶん感情で物を言う」

赤堀は一歩近づいた。

「人が死んでる時に、感情を抜く奴の方が信用できねえ」

真木の目が、一瞬だけ赤堀を値踏みするように細くなった。

「自然死という言葉を、刑事さんは嫌っているようですね」

「ああ、嫌いだ」

「僕は好きです。人間の体は最初から壊れるようにできている。心臓は止まる。肺は詰まる。血管は破れる。誰もが、自分の中に死因を飼っている」

「だから?」

「外から殺す必要なんて、本当はないんです。人は、自分の体に殺される」

赤堀の拳が震えた。

七緒が小さく言った。

「赤堀さん」

真木は微笑んだまま続けた。

「もちろん、一般論です」

赤堀はその場では殴らなかった。

だが、確信した。

この男は、死体を見ても脈を測るだけで、涙を測らない。

事件は一気に動いた。

七緒が湊のスマートフォンから削除済みの動画を復元した。

映っていたのは、半年前に死亡した元内科医、蜂須賀辰雄の自宅だった。湊は窓の外から、スマートフォンを差し入れるようにして室内を撮影していたらしい。

夜十一時二十七分。

部屋は暗い。老人がソファに座っている。机の上にはMAX-LIFE端末。

突然、端末が光った。

――おはようございます。今日は、いい朝です。

次の瞬間、照明が点き、カーテンが開いた。窓は閉まっている。エアコンが暖房に切り替わる。薬の保管ケースが電子ロックされた。

老人が立ち上がろうとする。ふらつく。手を伸ばす。倒れる。

動画の最後、湊の息が震えた。

「やっぱり……」

さらに小さな声で。

「次は、誰?」

赤堀は動画を止めた。

「これは殺人だ」

七緒は青ざめながら言う。

「でも直接触れていません。毒も、凶器もない。端末が生活環境を変えただけです」

「環境を変えて死なせたなら殺人だ」

「立証が難しいです。犯人は被害者の持病を知っていて、その人が死にやすい条件だけを整えています。喘息の人には埃と冷気、糖尿病の人には薬へのアクセス遮断、心臓の弱い人には温度差と警告音……」

赤堀は吐き捨てた。

「自然の手を借りた殺し屋か」

七緒は湊のノートをもう一度開いた。

「湊くんは、死亡者の共通点も見つけています」

「何だ」

「十年前の事故です」

ページの真ん中に、湊の字で書かれていた。

三保あさひ自然教室 女児急死事故

十年前、三保の海沿いにあった民間の自然教室で、八歳の少女が急死した。名前は、真木陽菜。

真木朔夜の妹だった。

当時の報告書では、陽菜は先天性の心疾患による急性心不全とされ、自然死として処理された。

事故調査委員会の関係者の名前が、湊の切り抜きと一致していた。

元校長。元町内会長。内科医。訪問看護師。元市議秘書。

みな、陽菜の死を自然死と結論づけた人間たちだった。

赤堀は低く言った。

「復讐か」

七緒は首を振った。

「でも、湊くんのノートにはこうあります」

彼女は最後の方のページを見せた。

――真木陽菜ちゃんの死も、自然死じゃない。――でも、犯人が思っている話とも違う。――真木さんは、嘘を一つだけ信じている。

その下に、震えた字で書かれていた。

真木さんを止めないと、まだ死ぬ。

次の標的は分かっていた。

十年前の事故調査委員会で、最後に生き残っている男。元清水署地域課の警察官、海野勝。

皮肉なことに、赤堀が新人だった頃の教育係だった。

海野は今、清水区草薙の古い家で一人暮らしをしていた。心臓に持病があり、MAX-LIFEを導入している。

赤堀は海野の家へ走った。

「海野さん!」

玄関を叩く。返事がない。

窓の向こうで、端末が青白く光っていた。

――おはようございます。今日は、いい朝です。

赤堀は迷わず窓ガラスを肘で割った。

七緒が叫ぶ。

「赤堀さん!」

「令状は後だ!」

室内は異様に暑かった。エアコンは暖房三十度。ガスストーブまで点いている。海野は浴室の前で倒れていた。顔は紫色に変わりかけている。

赤堀は海野を抱き起こし、心臓マッサージを始めた。

「死ぬな、じいさん! あんたには喋ってもらうことがある!」

七緒が救急車を呼び、端末の電源を引き抜く。

その瞬間、端末から別の声が流れた。

真木朔夜の声だった。

――赤堀刑事。あなたは予測より七分早い。

赤堀の手が止まりかけた。

――熱血漢は単純ですが、単純だから速い。勉強になります。

「真木!」

――海野勝を助けたければ助ければいい。彼は真実を語らない。語れない。人は罪悪感で死ぬ時も、自然死と呼ばれるんですよ。

通信が切れた。

海野は一命を取り留めた。

だが意識を戻した彼は、病室で赤堀の手を握り、泣きながら言った。

「俺たちは、陽菜ちゃんを殺したんじゃない」

「じゃあ何を隠した」

海野は唇を震わせた。

「守ったんだ」

「誰を」

海野は答えなかった。

代わりに、枕元の引き出しから古い封筒を取り出した。中には、小型のメモリーカードが入っていた。

「湊くんが……うちに来た。これを見つけたって。真木に渡す前に、警察へ持って行くって言って……走って行った」

赤堀の胸が詰まった。

湊は、自分の心臓が危ないと知っていた。それでも走った。

誰かを止めるために。

誰かを、これ以上死なせないために。

メモリーカードには、十年前の音声が残っていた。

赤堀と七緒は、病室の隅でそれを聞いた。

幼い少女の泣き声。

――お兄ちゃん、暑い。出して。

幼い少年の声。

――まだだめ。実験中だから。何分で助けを呼ぶか、見たいんだ。

少女の声。

――お兄ちゃん、苦しい。

少年の声。

――泣けば大人が来る。だから泣かないで。これは、僕たちだけのゲームだよ。

赤堀は息を忘れた。

その後、足音。大人たちの叫び。誰かが言う。

――真木朔夜がやったなんて言えない。あの子は天才だ。未来がある。――陽菜ちゃんは心臓が弱かったことにする。自然死だ。――みんな、今日のことは墓まで持っていく。

録音はそこで終わっていた。

七緒が震える声で言った。

「真木朔夜は、妹の死の真犯人を知らない」

赤堀は拳を握った。

「違う」

「え?」

「知ってる。でも忘れたんだ。自分が耐えられる形に、記憶を作り替えた。だから復讐してる。妹を自然死にした大人たちに」

七緒は唇を噛んだ。

「でも本当は……」

赤堀は言った。

「あいつ自身が、最初の“自然死”を作った」

真木から連絡が来たのは、その夜だった。

場所は、清水港の冷凍コンテナヤード。

指定時刻は午前三時四十四分。

七緒が端末を見て言った。

「罠です」

「分かってる」

「応援を待ちましょう」

「待ってる間に誰か死ぬ」

「赤堀さん」

七緒は強い声で呼んだ。

「あなたも死にます」

赤堀は少し笑った。

「俺は簡単には死なねえよ。自然に逆らって生きてきたからな」

午前三時四十四分。

港は黒かった。巨大なコンテナが迷路のように積まれ、冷凍機の低い唸りが夜を震わせている。遠くで波が岸壁を叩き、クレーンの警告灯が赤く点滅していた。

赤堀が一人で踏み込むと、スピーカーから真木の声が流れた。

――ようこそ、赤堀刑事。

「出てこい」

――あなたの行動パターンは解析済みです。怒る。走る。守る。殴る。だから扱いやすい。

「御託はいい」

――伏見刑事は優秀ですね。彼女は僕のサーバーにかなり近づいた。

赤堀の顔色が変わる。

「伏見に何をした」

一台の冷凍コンテナのランプが点いた。中から、かすかな叩く音が聞こえる。

赤堀は駆け出した。

扉には電子ロック。温度表示はマイナス十八度。酸素濃度も落ちている。中に七緒がいる。

――彼女はあと九分で意識を失います。あなたがロックを破ろうとする確率は九十八パーセント。その間に、背後のクレーンが動く。

頭上で金属が軋んだ。

巨大なコンテナが、赤堀の背後へ落ちてくる。

赤堀は横へ飛んだ。肩を地面に打ちつけ、息が抜ける。落ちたコンテナが火花を散らし、出口を塞いだ。

真木が暗がりから現れた。

白いコート。手にはタブレット。顔には、悲しみではなく、完成した数式を見るような静けさ。

「人間は予測できる。特に正義感の強い人間は」

赤堀は立ち上がった。

「妹も予測したのか」

真木の目が初めて揺れた。

「何の話です」

「陽菜ちゃんだ」

「黙れ」

「十年前、おまえは妹を閉じ込めた」

真木の口元が引きつった。

「違う」

「大人たちは隠した。おまえの未来を守るために」

「違う」

「おまえは、妹を殺した奴らを殺してるつもりだった。でも最初に妹を殺したのは――」

「黙れ!」

真木がタブレットを振る。クレーンが再び動いた。赤堀の頭上を鉄の塊が唸りながら通過する。

赤堀は走った。

真木は逃げない。逃げる必要がないと思っている。床に仕込まれたライトが点滅し、コンテナの扉が自動で開閉する。赤堀の進路を読むように、障害物が次々と立ちはだかる。

右へ行けば閉じ込められる。左へ行けばクレーンの死角。真木は赤堀の歩幅、速度、癖まで読んでいた。

「あなたは左膝をかばう。三秒後に減速する」

真木が言う。

「そこに落とす」

頭上で警告音。

赤堀は左膝を踏み込んだ。

激痛。だが、減速しなかった。

真木の目が見開かれる。

赤堀は痛みに叫びながら加速した。予測を外すためだけに、壊れかけた膝をさらに壊した。

「人間なめんなあああっ!」

赤堀は真木に体当たりした。

二人は鉄階段を転げ落ち、岸壁近くの作業通路へ倒れ込んだ。真木のタブレットが滑り、海へ落ちかける。

真木が拾おうとする。赤堀が腕を掴む。真木は細い体からは想像できない力で赤堀の喉を押さえた。

「僕は殺していない」

真木は歯を剥いた。

「僕は条件を整えただけだ。死因は彼ら自身の体だ。僕は自然を正しく配置しただけだ」

赤堀は喉を絞められながら、真木の顔を睨んだ。

「じゃあ……湊は何だ」

真木の力が一瞬止まる。

「湊くんは、自然死だ」

赤堀はポケットから小型レコーダーを取り出した。再生ボタンを押す。

幼い少女の声が、港の闇に流れた。

――お兄ちゃん、暑い。出して。

真木の表情が壊れた。

続いて、幼い少年の声。

――まだだめ。実験中だから。

「やめろ」

真木が耳を塞ぐ。

――何分で助けを呼ぶか、見たいんだ。

「やめろ!」

赤堀は叫んだ。

「湊はこれを聞いた! おまえに渡す前に、警察へ持って来ようとした! 走っちゃいけない体で走って、ここまで来ようとして、死んだ!」

真木は後ずさった。

「違う……僕は……陽菜を……」

「おまえが殺したのは、妹だけじゃない。妹を言い訳にして、罪悪感を抱えた人間を何人も殺した。おまえは天才なんかじゃねえ。痛みから逃げるのがうまいだけのガキだ」

真木の顔から血の気が消えた。

その時、冷凍コンテナの中から、弱い通信音が鳴った。

七緒の声だった。

「赤堀さん……ロック、外側下部……手動レバー……」

七緒は中で凍えながら、非常解除の位置を調べていた。

赤堀は真木を押しのけ、コンテナへ走った。真木が背後でタブレットへ手を伸ばす。

赤堀は振り返らずに言った。

「真木。もう一回、人を閉じ込めたまま殺す気か」

真木の手が止まった。

赤堀は手動レバーを掴んだ。凍りついた金属が皮膚を裂く。血がにじむ。肩の筋肉が悲鳴を上げる。

「開けええええっ!」

レバーが落ちた。

扉が開く。冷気が白い煙となって噴き出す。

七緒が倒れ込んできた。唇は紫色だったが、生きていた。

赤堀は彼女を抱き起こした。

「伏見!」

七緒は震える声で言った。

「……赤堀さん、後ろ」

真木が岸壁の端に立っていた。

夜明け前の海を見ている。

「僕の人生は、計算違いだったんですね」

赤堀は七緒を横たえ、真木へ歩いた。

「飛ぶな」

真木は笑った。

「死ねば、自然死ですか」

「違う」

赤堀は血だらけの手を伸ばした。

「逃げ死にだ」

真木の笑みが消える。

「生きて裁かれろ。陽菜ちゃんにも、湊にも、殺した人間にも、おまえはまだ何も返してねえ」

真木は泣かなかった。

ただ、顔をくしゃりと歪め、初めて子どものように震えた。

赤堀がその腕を掴んだ瞬間、東の空が薄く明るんだ。

本物の朝が来た。

真木朔夜は逮捕された。

立件は難航した。毒も刃物もなく、死因欄にはどれも自然な病名が並んでいたからだ。だが、サーバーに残された断片的な命令ログ、湊が集めた動画、海野の証言、七緒が冷凍コンテナ内で送信した解析データが、一本ずつ細い糸となって繋がっていった。

世間は事件をこう呼んだ。

清水区連続自然死偽装殺人事件。

テレビは真木の天才性を騒ぎ立てた。評論家はAIの危険性を語った。ネットでは、被害者たちが十年前の事故を隠したことまで掘り返され、死者に石が投げられた。

けれど赤堀には、どれも空々しかった。

死んだ人間は戻らない。隠された罪も消えない。真実が明らかになっても、清水の海は何事もなかったように光っていた。

湊の葬儀の日、赤堀は喪服で三保松原へ行った。

志保がそこにいた。彼女は泣き腫らした顔で、湊のノートを赤堀に差し出した。

「刑事さんに、持っていてほしいんです」

「これは、お母さんが」

「いいえ。湊はきっと、あなたに読んでほしかった」

赤堀はノートを受け取った。

最後のページ。湊の字が、少しだけ震えていた。

――自然死が怖いんじゃない。――「仕方ない」と言って、考えるのをやめる人間が怖い。――死んだ人の声は小さい。――だから、生きてる人が大きな声で聞かなきゃいけない。

赤堀は長い間、何も言えなかった。

志保が小さく笑った。

「湊、刑事さんみたいになりたかったのかもしれません」

赤堀は首を振った。

「俺なんかより、ずっと立派でした」

朝日が昇った。

三保の松の間から、金色の光が海へ流れた。富士山の稜線がゆっくり浮かび上がり、清水港のクレーンが赤く染まっていく。

赤堀は思った。

この街では、今日も誰かが生まれ、誰かが働き、誰かが泣き、誰かが黙って弁当を作る。死は消えない。罪も消えない。むなしさも、絶望も、朝が来たからといってなくなりはしない。

それでも。

陽はまた昇る。

昇ってしまう。

だから人は、立つしかない。

赤堀は湊のノートを胸にしまい、清水署へ向かって歩き出した。

死因欄に「朝日」と書かせないために。

死んだ者の声を、自然の音に紛れさせないために。

 
 
 

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