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日本人、全員容疑者――二〇四〇年、東都大学二十九人死傷事件

二〇四〇年の東京は、雨の日ほど国籍が見えた。

新宿駅の地下通路には、五か国語の案内が光り、ラーメン屋の隣には祈祷室があり、古い喫茶店の二階には、難民支援の法律事務所が入っていた。便利になった。賑やかにもなった。だが同時に、誰もが何かを失った顔をしていた。

テレビは毎晩のように叫んだ。

「強盗、窃盗、殺人、性犯罪――二十年前の十倍」

数字は人々の舌に乗り、やがて祈りのように繰り返された。

外国人が増えたからだ、と言う者がいた。昔の日本人が腑抜けたからだ、と言う者もいた。政治が悪い、教育が悪い、貧困が悪い、ネットが悪い。

誰もが正しそうで、誰もが誰かを憎んでいた。

その夜、東都大学の正門前で日の丸が燃えた。

映像は二十秒だけだった。

雨に濡れたキャンパス。怒号。白煙。倒れる学生。悲鳴。走る影。燃える布。血で赤く染まった石畳。

右翼系学生グループ「暁桜会」と、留学生・移民二世を中心とした学生団体「オープン・ルーツ」が衝突。

死者十三名。重軽傷者十六名。

合計、二十九名。

ニュース速報は、事件の全容が分からないうちから名前をつけた。

「東都大学二十九人死傷事件」

だが、警視庁捜査一課の真壁仁は、現場に立った瞬間、その名前に違和感を覚えた。

事件は、衝突ではない。

これは、誰かが仕掛けた処刑場だ。

     *

真壁仁、四十七歳。

警視庁では「昭和の遺物」と呼ばれていた。怒鳴る。走る。食うのが早い。泣くのを嫌う。だが遺体には必ず頭を下げる。

十九年前、妻を通り魔事件で失った。犯人は日本人だった。世間は一週間だけ騒ぎ、次の週には別の外国人犯罪の特集に夢中になった。

真壁はそれ以来、数字を嫌った。

数字は死者を並べる。だが死者の匂いまでは伝えない。

東都大学の講堂前広場には、まだ雨と血の匂いが残っていた。

「警部補、こっちです」

若い鑑識が顔を青くして、非常扉の前に真壁を案内した。

扉には、学生たちが押し寄せた跡があった。爪の傷。靴底の跡。割れたスマートウォッチ。折れた眼鏡。

真壁は扉の取っ手を引いた。

開かない。

「電磁ロックです。事件発生時、全館封鎖モードに切り替わっていました」

「火災警報は?」

「鳴っていました」

「火災警報が鳴って、扉が閉まるのか」

鑑識は答えられなかった。

真壁は扉の隙間に指を当てた。古い接着剤のような感触があった。

「誰かが、内側から逃がさなかった」

その声は低かったが、周囲の捜査員たちは一斉に黙った。

事件現場は三つに分かれていた。

正門前で最初の乱闘。中央広場で白煙と爆発音。講堂前で群衆雪崩。

死亡者十三名のうち、八名は圧死。三名は刃物による失血死。一名は頭部外傷。そして一名、暁桜会の副代表・中原一輝は、心臓を一突きにされて死んでいた。

中原の胸には、短刀が刺さっていた。

柄には、留学生の指紋。

容疑者はすぐに決まった。

オープン・ルーツの代表、ファルハン・ダオ。二十二歳。

ネットはすでに彼を犯人にしていた。

「日本から追い出せ」「移民国家の末路」「やっぱり外国人だった」「これが多文化共生の答えだ」

真壁は現場で、ひとつのスマートフォンを拾った。

持ち主は、死亡者の一人、吉岡沙羅。文学部三年。父は日本人、母は東南アジア系の元介護士。彼女自身は日本国籍だった。

スマートフォンの画面は割れていたが、最後のメッセージだけが表示されていた。

《朝が来る前に、旗の裏を見て》

送り主の名前は、ひとつ。

《ヒノデ》

     *

ファルハン・ダオは、取調室で震えていた。

真壁は椅子に座らず、壁にもたれて彼を見た。

「中原一輝を刺したのか」

「刺してない」

「短刀にお前の指紋がある」

「触った。けど刺してない」

「なぜ触った」

ファルハンは唇を噛んだ。

「抜こうとした。血が出てたから。止めようとした」

「敵だったんじゃないのか」

ファルハンは顔を上げた。

その目に憎しみはなかった。あるのは、疲れ切った怒りだった。

「敵にされたんです」

真壁は黙った。

「一輝とは、小学校が同じでした。あいつ、昔は俺の家でカレー食ってた。俺はあいつの家で味噌汁飲んでた。中学で離れて、高校でネットに飲まれて、大学でああなった。でも……事件の前日、あいつから連絡が来た」

「何と」

「『俺たちは利用されてる』って」

真壁の目が細くなった。

「誰に」

「分からない。でも、沙羅さんが調べてた。暁桜会にも、オープン・ルーツにも、同じアカウントから挑発文が送られてたって」

「ヒノデか」

ファルハンの表情が変わった。

「なんでそれを」

真壁は答えず、取調室を出た。

廊下で待っていたのは、相棒の佐伯千尋だった。三十二歳。元サイバー犯罪対策課。声は小さいが、キーボードを叩く時だけ別人のように速い。

「真壁さん、変です」

「いつも変だ。この国は」

「事件当日の午後六時四十八分から七時十七分まで、大学の監視カメラが全部落ちています。でも落ち方が古すぎるんです」

「古すぎる?」

「最新の妨害ならログごと消します。これは逆に、ログを残している。まるで誰かに“停電のせい”だと思わせたいみたいに」

「実際は?」

「停電じゃありません。映像だけが切られています。しかも、講堂の非常扉だけ手動で封鎖されていました。管理者IDは――」

佐伯は一瞬ためらった。

「警視庁の外部連携コードです」

廊下の蛍光灯が、じり、と鳴った。

真壁はポケットから煙草を出しかけて、禁煙表示を見て戻した。

「身内か」

「まだ分かりません」

「分からない時ほど、嫌な方に進め」

真壁は歩き出した。

「真壁さん」

「なんだ」

「上は、ファルハン送検で終わらせるつもりです」

「なら、上も容疑者だ」

佐伯は少しだけ笑った。

「そういうところ、嫌いじゃないです」

     *

翌朝、東京は燃えていた。

物理的にではない。言葉で燃えていた。

外国人街への嫌がらせ。古い商店街への報復。大学前での抗議デモ。ネットには、死亡者の顔写真と国籍、家族構成、住所までが流れていた。

都庁前では、極右団体と移民支援団体が睨み合い、その間に機動隊が入った。

真壁は、東都大学近くの小さな定食屋に入った。

暖簾には「みなと食堂」と書かれていた。店主の湊ハル、七十六歳。事件当日、負傷者を店に運び込んだ女性だった。

「刑事さん、食べてく?」

「聞き込みです」

「腹が減ってる人間は、まともな話を聞けないよ」

ハルは勝手に味噌汁を出した。

カウンターの端に、小さな女の子が座っていた。髪を三つ編みにして、割れたスマートフォンを握っている。

「この子は?」

「沙羅ちゃんの妹。美月」

美月は真壁を見た。

「お姉ちゃんを殺したの、外国人なの?」

真壁は、即答できなかった。

大人の嘘は、子どもの前で一番醜くなる。

「まだ分からない」

「みんな言ってる」

「みんなが言ってることは、だいたい遅い」

「遅い?」

「真実より、憎しみの方が走るのが速い」

美月は俯いた。

ハルが静かに言った。

「沙羅ちゃん、事件の前にここで泣いてたよ。『日本人って何ですか』って」

真壁は味噌汁の湯気を見た。

「ハルさんは何て答えた」

「『いただきますって言ってから食べる人』って」

佐伯が吹き出しかけた。

ハルは真面目だった。

「血とか国籍とか、そんな立派な話じゃないよ。目の前のものに、誰かが手をかけたって分かること。それに頭を下げること。あたしの日本は、それくらいだ」

真壁は味噌汁を飲んだ。

久しぶりに、熱いものが胸に落ちた。

     *

捜査は、奇妙な点を増やしていった。

第一に、現場で流れた二種類の音声。

暁桜会側には「留学生たちが日の丸を燃やす」という音声が送られていた。オープン・ルーツ側には「暁桜会が移民学生を襲う」という音声が送られていた。

どちらも、別人の声に聞こえた。

だが佐伯の解析では、声帯モデルの基礎波形が同じだった。

「同じAI音声です。怒り方の癖まで同じ」

第二に、白煙。

学生たちは催涙弾だと思っていた。だが成分は、市販品ではなかった。警備会社が群衆誘導訓練で使う低刺激性の煙幕剤。

第三に、日の丸。

燃えた旗は暁桜会のものではなかった。布の繊維が違う。市販の安物でもない。防炎加工された劇場用の布だった。

真壁は、沙羅の最後の言葉を思い出した。

旗の裏を見て。

燃え残った旗の端を鑑識に再確認させると、裏側に薄い印字が残っていた。

《HINODE CIVIC SECURITY》

ヒノデ市民安全保障機構。

二〇三〇年代後半から急成長した民間警備企業。顔認証、防犯ドローン、地域危険度予測、移民管理支援システム。政府や自治体の外部委託を一手に握っていた。

その代表取締役は、元警察庁長官の有馬宗一郎。

真壁の、かつての上司だった。

     *

有馬は、昔から美しい日本語を話す男だった。

「真壁、君は相変わらず顔が怖いな」

ヒノデ本社の最上階。ガラス越しに、二〇四〇年の東京が広がっていた。

高層ビル。スラム化した団地。多言語の広告。監視ドローン。寺の屋根。高速道路。

有馬宗一郎は、白髪をきれいに撫でつけ、茶を淹れていた。

「東都大学の件で伺いました」

「痛ましい事件だ」

「御社の旗が燃えていました」

有馬は微笑んだ。

「旗ではない。訓練用の幕だろう。大学とは警備契約がある」

「非常扉が封鎖された」

「暴動時の拡大防止プロトコルだ」

「人が死んでいます」

「だからこそ、秩序が必要だ」

真壁は湯呑みに手をつけなかった。

「学生たちに偽音声を送ったのは誰ですか」

有馬の目が、ほんのわずかに冷えた。

「君は、昔からまっすぐすぎる」

「曲がった道で人が死んだら、まっすぐ歩くしかない」

「日本はもう、君が信じているような国ではない」

「それを決めるのは、死人じゃない」

有馬は立ち上がり、窓の外を見た。

「二十年前、この国は安全だった。少なくとも、多くの人がそう信じられた。だが今は違う。国境は穴だらけ、地域共同体は崩れ、家族は壊れ、学校は思想の戦場になった。国民は怯えている」

「怯えさせている者もいる」

「恐怖は、統治の敵ではない。材料だ」

真壁は一歩前に出た。

「有馬さん」

有馬は振り向いた。

「これは、あなたがやったのか」

沈黙。

その時、真壁の端末が震えた。

佐伯からだった。

《真壁さん、すぐ出てください。そこの会話、全部フェイク化されています》

次の瞬間、室内スピーカーから真壁自身の声が流れた。

「外国人を一掃すればいい」

真壁は目を見開いた。

続いて、有馬の声。

「真壁刑事、君は危険思想に染まっている」

有馬が哀しそうに首を振った。

「真壁。君は今日、ここで終わる」

扉が開き、警備員たちが入ってきた。

真壁は湯呑みを掴み、最初の一人の顔面に叩きつけた。茶が飛び、悲鳴が上がる。二人目の腕を取って壁に叩きつけ、三人目の膝を蹴り抜いた。

五十に近い身体が軋んだ。

それでも走った。

廊下の向こうで警報が鳴る。

「真壁さん!」

非常階段の扉が開き、佐伯が顔を出した。

「こっち!」

二人は階段を駆け下りた。

「証拠は?」

「ヒノデのサーバにあります。でも表の回線は切られました」

「なら裏は?」

佐伯は息を切らしながら笑った。

「東都大学です。沙羅さんが残してました」

     *

吉岡沙羅は、死ぬ前に全てを知っていたわけではなかった。

だが、彼女は疑っていた。

暁桜会にも、オープン・ルーツにも、同じ文体の挑発が届いていること。極右アカウントと移民排斥を煽る匿名掲示板の管理元が、同じ広告サーバを使っていること。その広告サーバが、ヒノデの関連会社に繋がっていること。

そして、東都大学で導入された新型警備AI《アマテラス》が、事件の三日前から異常なシミュレーションを繰り返していたこと。

「群衆衝突発生時、社会的影響最大化モデル」

佐伯は東都大学の旧図書館地下で、沙羅の隠し端末を復旧させた。

画面には、何百もの予測グラフが並んでいた。

死者数。報道量。SNS怒り指数。法案支持率。外国人排斥デモ発生率。監視強化受容率。

真壁は画面を見つめた。

「こいつら、事件を予測したんじゃない」

佐伯が頷いた。

「設計したんです」

事件の翌週、国会では「国民安全再建法案」が審議される予定だった。

内容は、全国民への生体認証義務化、居住地ごとの危険度スコア、外国籍住民への移動制限、大学自治への警備介入拡大。

世論は割れていた。

だが東都大学事件後、支持率は八十二パーセントまで跳ね上がっていた。

十三人の死者は、法案の燃料になった。

「でも、変です」

佐伯が眉をひそめた。

「沙羅さんのファイルに、最後のフォルダがあります」

フォルダ名は、

《日本人》

中には、二十九人分のプロフィールがあった。

暁桜会の学生。オープン・ルーツの学生。ただ通りかかった清掃員。大学職員。留学生。移民二世。昔からその町に住む日本人。帰化した者。日本語が苦手な者。日本語しか知らない者。

全員、事件の死傷者だった。

真壁は息を呑んだ。

「選ばれていたのか」

佐伯が解析を続ける。

「偶然じゃありません。アマテラスのシミュレーション上、最も社会を分断できる組み合わせです。被害者の属性が左右両方の怒りを最大化するように配置されてる」

真壁の拳が震えた。

その時、地下室の照明が落ちた。

暗闇の中、ドローンの羽音が聞こえた。

佐伯が叫んだ。

「伏せて!」

小型警備ドローンが三機、入口から飛び込んできた。赤い照準光が闇を裂く。

真壁は佐伯を突き飛ばし、机を蹴り倒した。ゴム弾が木板を砕く。彼は床に転がった古い消火器を掴み、噴射した。白い粉末が地下室を満たす。

一機目を椅子で叩き落とす。二機目が腕を撃つ。痛みが走る。三機目が佐伯を狙う。

真壁は叫びながら飛び出し、ドローンに体当たりした。

機械は壁に激突し、火花を散らして落ちた。

佐伯が咳き込みながら端末を抱えた。

「真壁さん、データは取れました!」

「逃げるぞ」

「出口、封鎖されてます」

真壁は血の滲む腕を押さえながら笑った。

「大学ってのはな、昔から抜け道だけは多い」

彼は旧図書館の壁際にあった古い書架を蹴った。

裏に、小さな扉があった。

戦時中の防空壕跡。

沙羅は、その地図も残していた。

     *

防空壕は、東京の地下に眠る古い傷だった。

湿ったコンクリート。錆びた鉄扉。壁に残る、誰かの爪痕。

真壁と佐伯は暗闇を進んだ。

途中、佐伯が言った。

「真壁さんは、日本って何だと思いますか」

「今聞くか」

「今だからです」

真壁は懐中電灯を前に向けたまま答えた。

「昔は、分かってるつもりだった。交番があって、祭りがあって、知らない子どもでも叱れて、夜中に財布を落としても戻ってくる。そういうものだと」

「今は?」

「それは日本じゃなくて、誰かが毎日守ってた習慣だったんだろうな」

佐伯は黙った。

「壊れる時は一瞬だ。でも一瞬で壊れたように見えるものは、たいてい前から腐ってる」

「戻せますか」

真壁は答えなかった。

防空壕の出口は、東都大学の神社跡に繋がっていた。

かつて大学構内にあった小さな祠。多文化共生の象徴として撤去するか、伝統の保存として残すか、何度も議論になった場所だった。

今は、半分壊れた鳥居だけが残っていた。

その下に、有馬宗一郎が立っていた。

傘も差さず、雨に濡れていた。

「沙羅君は優秀だった」

有馬は静かに言った。

「優秀すぎた」

真壁は前に出た。

「なぜ殺した」

「殺したのは私ではない。社会だ」

「便利な言葉だな」

「真壁。君も分かっているはずだ。この国はもう、話し合いではまとまらない。共通の恐怖が必要だった。日本人に、自分たちが何を失ったのか思い出させるために」

「十三人殺してか」

「十三人で済んだ」

真壁の拳が有馬の顔面を打った。

有馬は倒れ、泥の中で咳き込んだ。

「済んだ、だと?」

真壁は胸倉を掴んだ。

「中原一輝は、ファルハンを助けようとして死んだ。吉岡沙羅は、妹に朝飯を作る約束をして死んだ。清掃員の田所さんは、孫のランドセルを買いに行く予定だった。お前の法案の燃料じゃない」

有馬の口元が血で赤くなった。

「では聞こう。君の正義で、この国を守れるのか」

「守るってのは、誰かを閉じ込めることじゃない」

「甘い」

「甘くて結構だ」

真壁は有馬を引きずり起こした。

「味噌汁は甘い方がうまい時もある」

有馬は笑った。

その笑いは、勝者の笑いだった。

「証拠は世に出ない。出ても信じられない。今の時代、映像も音声も文書も全て疑われる。真実はもう死んでいる」

その瞬間、壊れた鳥居の奥から声がした。

「死んでません」

吉岡美月だった。

小さな手に、古い携帯ラジオを持っていた。

その隣に、みなと食堂のハルが立っていた。さらに、学生たち、大学職員、近所の商店主、事件の遺族たちが雨の中に集まっていた。

佐伯が端末を掲げた。

「真壁さんがヒノデ本社に入る前、沙羅さんの妹に頼まれたんです。『お姉ちゃんが最後に使ってたものを直して』って」

美月はラジオを握りしめた。

「お姉ちゃん、ネットは信じてもらえないかもしれないからって。最後は、古いやつが一番だって」

沙羅は事件前、東都大学の放送研究会の古いアナログ送信機を復旧していた。

災害時、地域に情報を届けるための小さなFM放送。

ネットには残らない。改竄もしにくい。だが、近所のラジオには届く。

有馬の告白は、大学周辺一帯に生放送されていた。

美月は泣いていなかった。

「お姉ちゃんは言ってました。日本人って、血じゃないって。誰かが倒れた時、助ける方に走る人だって」

有馬の顔から、初めて表情が消えた。

遠くでサイレンが聞こえた。

警察のものか、救急のものか、もう分からなかった。

     *

有馬宗一郎は逮捕された。

ヒノデ市民安全保障機構の幹部数名、警察庁の関係者、国会議員秘書、大学警備担当者も続いた。

だが、世界は綺麗にはならなかった。

ネットにはすぐに陰謀論が溢れた。

「有馬は移民側に嵌められた」「真壁刑事こそ極右だ」「沙羅の放送はAI音声だ」「死者二十九人は存在しない」

真実は勝ったわけではなかった。

ただ、負けきらなかっただけだった。

国民安全再建法案は一部修正され、なお可決された。街にはさらに多くのカメラが増えた。外国人への嫌がらせも、右派学生への襲撃も、しばらく止まらなかった。

ファルハン・ダオは釈放されたが、大学には戻らなかった。

中原一輝の葬儀に、彼は一人で現れた。

焼香台の前で、長く頭を下げた。

中原の父は最初、彼を殴ろうとした。

だが、拳は途中で止まった。

ファルハンが差し出したのは、小学生の頃の写真だった。

二人の少年が、泥だらけのユニフォームで笑っている。

片方が中原一輝。もう片方がファルハン。

裏には、子どもの字でこう書かれていた。

《日本代表になる》

中原の父は、その場に崩れ落ちた。

     *

事件から一か月後。

東都大学の講堂前広場には、二十九本の若木が植えられた。

桜だけではなかった。銀杏、オリーブ、梅、ジャカランダ、柿、月桂樹。

「統一感がないな」

真壁が言うと、ハルが笑った。

「今の日本みたいでいいじゃないか」

佐伯は隣で、缶コーヒーを飲んでいた。

「真壁さん、腕の怪我、まだ治ってないんですから無理しないでください」

「刑事は怪我してるくらいが信用される」

「昭和ですね」

「うるさい」

朝日が昇ってきた。

東京のビル群の隙間から、弱く、赤い光が差した。

美しいとは言い切れない朝だった。

空気は重く、街は傷つき、人々はまだ互いを疑っていた。

それでも、みなと食堂の前には学生たちが並んでいた。

暁桜会の元メンバーもいた。オープン・ルーツの学生もいた。日本語のうまい者も、たどたどしい者もいた。誰かが「いただきます」と言い、誰かが少し遅れて真似をした。

真壁はその光景を見ていた。

日本とは何か。

国旗か。血か。言葉か。法律か。治安か。記憶か。

たぶん、そのどれか一つではない。

日本とは、壊れたあとに、まだ誰かが箸を並べることだ。

憎しみの方が速く走っても、遅れてでも真実に歩いていくことだ。

倒れた人間の国籍を聞く前に、手を伸ばすことだ。

真壁の端末が鳴った。

新しい事件だった。

彼は深く息を吸い、歩き出した。

背中越しに、美月の声が聞こえた。

「真壁さん!」

振り返ると、美月が小さく手を振っていた。

「朝ごはん、食べてから行って!」

真壁は一瞬だけ迷った。

それから、苦い顔で言った。

「五分だけだ」

ハルが笑った。

佐伯も笑った。

空はまだ灰色だった。

だが、陽はまた昇っていた。

 
 
 

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