白い時刻表
- 山崎行政書士事務所
- 2 時間前
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※列車番号・時刻は物語上の架空設定です。
一 犯人
時刻表は、人間が作ったもっとも冷たい詩である。
東京、十三時〇三分。のぞみ三一七号、新大阪行き。
私は八号車の通路で腕時計を見た。秒針は、発車ベルの最後の余韻を噛み砕くように進んでいた。車内販売のワゴンはもうない。検札もない。人々はそれぞれの画面に沈み、窓の外では品川のビル群が白く流れた。
私は席に座らない。
座ってはいけない。
時刻表は、座る者のためにあるのではない。動く者、通過する者、そして消える者のためにある。
十三時十一分、品川発。十三時二十二分、新横浜着。十三時二十四分、新横浜発。
この二分間に、世界は一度だけ目を閉じる。
警察は、三人目で気づくはずだった。だが相馬という刑事は、二人目で気づく。私はその誤差を、誤差としてではなく、余白として組み込んでいた。
彼が真相に近づく瞬間も、時刻表の一部だ。
それでも、ひとつだけ書けない時刻がある。
あの時刻だけは、私のものではなかった。
だから私は、連続殺人を始めた。
最初の一行を、私の筆跡にするために。
二 刑事
相馬圭吾が最初に見たのは、遺体ではなく靴だった。
磨き込まれた黒い革靴。つま先に、乾いた泥がほんの少し残っている。新幹線の床に落ちるには不自然な土だった。東京でも品川でも新横浜でもない。もっと湿った、川沿いの土。
被害者は梶浦慎一、五十二歳。医療機器メーカーの元役員。遺体はのぞみ三一七号の十二号車、窓際の席で発見された。首もとには紙片が挟まれていた。
《十三時二十四分。新横浜発。》
殺害時刻を示すものか、犯行声明か。鑑識はそう言った。
相馬は答えなかった。
彼は、座席テーブルの上に置かれた缶コーヒーを見ていた。開けられていない。隣には、未使用のハンカチ。さらに足もとには、白い毛糸が一本落ちていた。
「犯人は几帳面ですね」
若い刑事の倉田が言った。
相馬は首を振った。
「几帳面な人間は、こんなものを残さない」
「毛糸ですか?」
「いや」
相馬は遺体の手を見た。強く握りしめられていた。死んだ者の手には、その人間が最後に何を恐れたかが残ることがある。
「この人は、犯人じゃなくて、誰かを見ていた」
その日の夜、相馬は梶浦の自宅を訪ねた。
妻は涙を流さなかった。娘は玄関に出てこなかった。ただ仏壇の横に、古い写真があった。東海道新幹線の車内で撮られた集合写真。梶浦を含む四人の男が、笑っていた。
その背後に、若い女性が写り込んでいる。
女性は笑っていなかった。
三 犯人
名古屋駅のホームには、独特の熱がある。
東京の熱は忙しない。京都の熱は湿っている。新大阪の熱は終点の匂いがする。だが名古屋の熱は、通過と到着の中間にある。人間が自分の人生を途中下車できると錯覚する熱だ。
十四時三十七分。ひかり四〇二号、名古屋着。
第二幕は、ホームではなく階段で終わる。人々は上る者と下りる者に分かれ、その境目で足を止める者を嫌う。私はその嫌悪を使った。
被害者、真鍋啓介。梶浦の写真にいた男の一人。
彼は最後まで、自分が選ばれた理由を理解していなかった。人間は、自分がしたことより、自分が忘れたことによって裁かれる。
私は彼のポケットに紙片を入れた。
《十四時三十九分。名古屋発。》
美しい。
東京から品川、品川から新横浜、新横浜から名古屋。白い線路の上に、点が並ぶ。点はやがて線になり、線はやがて意味になる。
警察はここで、過去の写真にたどり着く。相馬は、写真の背後の女性を見る。そして、私の動機を知ったと思う。
それでいい。
動機は、差し出すためにある。本当に隠すものは、別の場所に置かなければならない。
あの子の名前を、時刻表に載せてはならない。
四 刑事
二人目の遺体を前にして、相馬は怒りを覚えなかった。
怒りは便利すぎる。犯人を憎めば、被害者を見なくて済む。事件を記号にすれば、遺族の声を聞かなくて済む。
真鍋啓介の母親は、名古屋市内の病院にいた。九十歳近く、耳が遠い。息子が死んだと告げられても、最初は理解できなかった。
「啓介は、東京へ行ったんですか」
「いいえ」
「じゃあ、大阪?」
「名古屋駅で亡くなりました」
老人は、しばらく天井を見た。
「また駅ですか」
相馬はその言葉を聞き逃さなかった。
「また、とは?」
老人は震える手で、枕もとの引き出しを開けた。そこには新聞の切り抜きがあった。
十年前。東海道新幹線、十一号車。若い女性が車内で倒れ、のちに自死。記事にはこうあった。
《車内トラブル後、被害女性に事実無根の中傷。関係者四名は否定》
女性の名前は、朝倉灯。
写真に写り込んでいた女性だった。
相馬はその後、灯の娘である朝倉陽菜を訪ねた。
陽菜は二十三歳。京都の小さな書店で働いていた。彼女は母親によく似ていた。まっすぐ人を見る目と、見たものをすぐに信じない目を持っていた。
「梶浦慎一を知っていますか」
「知っています」
「会いましたか」
「いいえ」
その返事は早すぎた。
「真鍋啓介は」
「知りません」
「お母さんのことを調べています」
陽菜の指が、膝の上で強く組まれた。
「母は、事件じゃありません。あれは、みんなが母を殺したんです」
その言葉には、憎しみよりも疲れがあった。
相馬はそこで初めて、犯人の冷たい論理の外側にいる人間を見た。
時刻表には載らない時刻。誰かが泣き始める時刻。誰かが嘘をつく時刻。
五 犯人
相馬は早すぎる。
十五時五十六分、京都着。私は本来、ここで彼に気づかせるつもりだった。
彼は名古屋で気づいた。それでも構わない。優れた観客は、作者の意図より先に拍手することがある。
第三幕の被害者は、大垣省吾。元週刊誌記者。灯の記事を書き、灯の死後も匿名の噂を売り続けた男。
京都駅の構内には、観光客の声が波のように満ちていた。修学旅行生、外国人、老夫婦、出張帰りの会社員。誰もが自分の行き先だけを持っている。だから、誰かの終点には気づかない。
私は大垣に会った。
彼は私を知っていた。
「お前か」
それが彼の最後の言葉になった。
私は紙片を残した。
《十五時五十八分。京都発。》
ここまで来れば、警察は私を見る。元時刻表編集者。鉄道ダイヤの研究者。朝倉灯の婚約者だった男。
三枝律。
動機は十分だ。技術も十分だ。過去も十分だ。
あとは、捕まるだけでいい。
だが、新大阪まで行かなければならない。
終点がなければ、時刻表は完成しない。
そして相馬は、新大阪の手前で気づく。私が殺した三人よりも、私が殺していない一人に。
それだけは、許されない。
六 刑事
相馬は、三つの紙片を机に並べた。
十三時二十四分。新横浜発。十四時三十九分。名古屋発。十五時五十八分。京都発。
倉田が言った。
「東海道新幹線の停車駅ですね。東京から新大阪まで、犯人は時刻表に沿って動いている」
「そう見える」
「違うんですか」
相馬は一枚目の紙片を指で押さえた。
「ここだけ、汚れている」
「血痕ですか」
「違う。ココアだ」
鑑識の報告では、一枚目の紙片にだけ微量の糖分と乳成分が付着していた。車内で販売されているものではない。新横浜駅構内の売店で売られている紙カップのココアに近い。
だが梶浦の遺体が見つかった席のテーブルには、未開封の缶コーヒーがあった。
「犯人が飲んだのでは?」
「三枝律は飲まない」
「どうして分かるんです」
「二人目、三人目には一切の生活感がない。あいつは現場から体温を消す。匂いも、手触りも、飲み物も残さない」
「じゃあ、一人目は」
相馬は写真を取り出した。朝倉灯の背後に立つ四人の男。その一人、梶浦慎一。さらにその写真の端に、小さな女の子が写っている。
母親のコートの裾を握っている。
白い毛糸の手袋をしていた。
相馬は朝倉陽菜をもう一度訪ねた。
書店の奥で、陽菜は棚を整理していた。児童書の棚だった。相馬が声をかけると、彼女は本を落とした。
「一人目の現場に、白い毛糸が落ちていました」
陽菜は何も言わなかった。
「あなたは梶浦と会った」
「会っていません」
「梶浦はあなたを脅した。お母さんのことを、また世間に出すと言った。あなたは新横浜で降りるつもりだった。でも、彼が追ってきた」
陽菜の唇が震えた。
「違います」
「殺そうとしたんじゃない」
「違います」
「あなたは逃げようとした。彼が掴んだ。あなたは振りほどいた。彼は倒れた」
「違う!」
声が店内に響いた。
次の瞬間、陽菜は自分の口を押さえた。まるで、その声こそが母親をもう一度殺すものだと知っているように。
相馬は静かに言った。
「三枝律は、あなたを守ろうとしている」
陽菜の目から、涙が落ちた。
「守ってなんか、いません」
「では、なぜ嘘を?」
「律さんが……私に言ったんです」
陽菜は棚にもたれた。
「『君の時刻は、まだ終わっていない』って」
七 犯人
新大阪、十七時〇六分。
終点のホームに降りると、人々は一斉に歩き出す。終点に着いた者ほど、終わったことを認めたがらない。次の予定、次の乗り換え、次の電話。人生は終点を嫌う。
私はベンチに座った。
ようやく座ることができた。
相馬は来る。彼が来る時刻も、計算してある。
十七時十二分。階段下から、黒いコートの刑事が現れる。
彼は走っていなかった。息も乱れていない。そういう男だ。怒りに背中を押されず、悲しみに足を取られず、それでも人間の熱を捨てない。
「三枝律」
私は顔を上げた。
「遅かったですね」
「お前の時刻表では、そうだろうな」
「私がやりました」
「梶浦も?」
私は微笑んだ。
「もちろん」
相馬は答えなかった。
私は続けた。
「梶浦、真鍋、大垣。三人とも私が殺した。十年前、朝倉灯を殺した者たちです。動機も、方法も、証拠も、すべて用意してある」
「用意しすぎだ」
「芸術には準備が必要です」
「芸術じゃない」
彼の声に、初めて熱が混じった。
「人が死んでいる」
私はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
そうだ。人が死んでいる。
だが、あの子は生きている。
生きていなければならない。
相馬はベンチの前に立った。
「お前は復讐のために三人を殺したんじゃない」
「違いますか」
「違う。復讐なら、十年も待たない。お前は最初の死を隠すために、残りの死を作った」
ホームのアナウンスが流れた。折り返し列車の清掃が始まる。白い車体が、夕方の光を受けて沈黙している。
私は相馬を見た。
「証明できますか」
「できる」
「なら、なぜここに来た」
相馬は一歩近づいた。
「お前の嘘を、陽菜に背負わせないためだ」
その名前が、ついに時刻表に載った。
私の中で、何かが崩れた。
八 刑事
三枝律は、取調室でも整っていた。
背筋を伸ばし、言葉を選び、余計な感情を見せなかった。真鍋と大垣の殺害については淡々と認めた。梶浦についても、自分が殺したと繰り返した。
「朝倉陽菜は関係ありません」
相馬が黙っていると、三枝はさらに続けた。
「彼女は母親を失った。ただそれだけです。これ以上、何も奪われる必要はない」
「梶浦は事故死に近かった」
「関係ありません」
「陽菜は殺意を持っていなかった」
「関係ありません」
「お前が黙っていれば、彼女は一生、自分の人生を誰かの嘘の上で歩くことになる」
三枝の表情が、わずかに歪んだ。
「嘘の上でも、生きられる」
「生きられない」
相馬は言った。
「少なくとも、お前は生きられなかった」
長い沈黙が落ちた。
三枝は目を閉じた。その顔から、時刻表を眺める冷たい作家の表情が消えていく。残ったのは、ひとりの女を愛し、その娘を守ろうとして、守ることの意味を間違えた男だった。
「灯は」
三枝は初めて、被害者ではなく、愛した人間の名前としてその名を呼んだ。
「灯は、陽菜にだけは普通の人生を送ってほしいと言っていました」
「普通の人生に、他人の罪は要らない」
「私の罪です」
「違う。お前の罪は、二人を殺したことだ。陽菜の罪を奪うことじゃない」
三枝は笑った。
声のない、壊れた笑いだった。
「刑事さん。時刻表にはね、遅延という言葉があるんです。遅れは記録される。でも、なぜ遅れたかまでは載らない」
「人間は時刻表じゃない」
相馬は静かに言った。
「泣いた理由も、嘘をついた理由も、残る」
その夜、朝倉陽菜は出頭した。
彼女は梶浦と会ったことを認めた。新横浜駅で偶然見かけ、逃げようとして、追われたこと。車内で母親の中傷を再び聞かされ、手を掴まれたこと。振りほどいた瞬間、梶浦が倒れたこと。怖くなって逃げたこと。
そして、三枝律から電話が来たこと。
「君はそこにいなかった」
彼はそう言ったという。
「君の時刻は、まだ終わっていない」
陽菜は泣きながら言った。
「でも、私の時間は、その日から進んでいませんでした」
相馬は、彼女の調書を閉じた。
東海道新幹線は翌朝も走った。東京を出て、品川へ、新横浜へ、名古屋へ、京都へ、新大阪へ。白い車体は何事もなかったように街を抜け、川を越え、山を裂いた。
時刻表は美しい。
だが、その美しさは、人間の悲しみを説明しない。
三枝律が本当に隠したかったものは、殺人の動機ではなかった。復讐は、むしろ差し出された仮面だった。
彼が隠したかったのは、朝倉陽菜がついた最初の嘘。そして、その嘘を守れば彼女を救えると信じた、自分自身の嘘だった。
相馬は朝のホームに立ち、発車していく新幹線を見送った。
車体が遠ざかる。白い線が、光の中へ消えていく。
誰かの終点は、誰かの始発になる。
そのことだけは、どんな時刻表にも載っていなかった。





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