静岡伊勢屋 - 「エレガンスプラザの恋」 続編
- 山崎行政書士事務所
- 1月22日
- 読了時間: 6分

夜風のほんのり甘い気配に包まれたあの夜から、数日が過ぎた。エレガンスプラザでの普段の業務は相変わらず忙しく、今日もショーウィンドウのディスプレイ替えや顧客情報の整理に追われている。けれど、ふとした瞬間にあのカフェでの会話や、彼の名刺に刻まれたビジネスライクな肩書きが思い浮かんで、胸の奥がほんのりと熱くなる。
「夢、諦めなくてよかったな」
デザインに打ち込みながら、そんな思いが頭をかすめることが増えた。以前の私なら、ほんの少し認められただけで嬉しかった。でも今は違う。ちゃんと自分の服が“人の人生”にそっと寄り添えるようになりたい。そんな願いがはっきりと形を取り始めていた。
ある週末の午後、店内が落ち着いた時間帯に、ふいに彼が姿を見せた。 「やあ、先日はありがとう。忙しいところを引き止めちゃって」 彼は遠慮がちに笑いながら、少し上着の襟を直す。外回りの仕事の途中で立ち寄ったのか、ネクタイは先日のようにきつく締められていた。 「ううん、こちらこそ。あの日は私もたくさん話せて嬉しかった」 お互いぎこちない笑みを交わしたあと、ふと彼が店内を見渡す。 「この間買ったドレス、上司の奥様にとても喜ばれたよ。パーティーでも評判が良くて、どこで買ったのか何度も聞かれたらしい」 彼の声から、驚きと誇らしさが入り混じった感情が伝わってきた。私の胸は一気に熱くなる。何より、それを私にこうやって伝えに来てくれたことが嬉しかった。
「そうなんだ……よかった」 そうつぶやくと、声がほんの少し震えているのが自分でもわかった。 「ごめん、仕事中に話し込んじゃって。実は、近くでちょっと商談があってさ。すぐ行かないといけないんだけど……」 と、彼は言葉を濁しながら視線を落とす。まるで何か迷っているようだ。 「あの、今度の休みにでも食事に行けないかな?忙しかったら無理は言わないけど」 そう言い切ると、彼は少し照れたように目を細めた。カフェで別れた時より、少しだけ表情が柔らかく見える。
私は頭の中で瞬時にシフトのスケジュールを思い浮かべた。ちょうど週末の夜なら早めに上がれる日がある。 「土曜の夜なら、たぶん大丈夫……」 そう返事をすると、彼はほっとしたように笑った。 「ありがとう。それじゃ、土曜の夕方頃に連絡するよ。楽しみにしてる」
その日はそれだけ言い残し、彼は百貨店を後にした。残ったのは、ほんのわずかに揺れる私の心と、確かな“期待”だった。
仕事を終えて帰宅し、アトリエがわりにしている部屋のテーブルで、ノートを開く。そこには次のシーズンに向けたアイデアスケッチがたくさん散らばっていた。 このところ、色彩も形も、なんだか以前より大胆になった気がする。不思議と“彼との再会”が私の内面を明るく照らしているのを感じていた。
「彼はずっと前から、こんなにも私に刺激をくれていたんだな」
東京で共に夢を語り合ったあの頃。それぞれが選んだ道は違ったけれど、思い返せばいつだって、彼の存在は私を奮い立たせてくれていた。
土曜の夜、どんな話をするのだろう。彼の仕事のこと、私のデザインのこと、そして、いつか失ったと思っていた“ふたりの未来”について。想像するだけで心が揺れ動く。 押し寄せる期待や少しの不安をそっと胸に抱えながら、私は新作のスケッチを少しずつ描き進める。まるでそれが、彼と会う日の準備でもあるかのように。
土曜の夕方、彼から連絡がきた。食事は静岡駅南口を出てすぐの落ち着いたイタリアンレストラン。くすんだ赤レンガの壁が印象的なその店は、時折、仲のいい同僚とランチに訪れるお気に入りの場所だった。 「こんばんは。仕事、お疲れさま」 店の扉を開けると、彼が席を取って待っていた。ネクタイは少し緩められ、どこかリラックスした表情。私も思わず緊張がほぐれる。
注文を済ませると、私たちは自然と近況の話になった。彼は外資系企業でマーケティングを担当しており、プレゼンや海外との交渉など慌ただしい日々を送っているという。だけど、とてもやりがいを感じているそうだ。 一方、私もエレガンスプラザでの業務に加え、いずれは自分のブランドを立ち上げたいという夢を少しずつ形にしていることを話した。
「やっぱり、服のデザインにかける気持ちはずっと変わらないんだね」 ワイングラスを片手に、彼がやわらかい口調で言う。 「うん……変わらなかった。どんなに忙しくても、心のどこかに『いつか』があったんだと思う」
つい先日までは、お互いの道が完全に別れてしまったのだと感じていた。でも、こうして再会し、それぞれの現状を知ることで、かつての思い出はただの過去ではなく“今も続いている物語”なのだと気づかされる。
「実はね……」 彼が言いにくそうに言葉を続ける。 「数か月後にシンガポールへ転勤の話が出てるんだ。それに伴って静岡や東京との行き来も増えるかもしれない。でも、正直なところ迷ってるんだよね」 ふいに、軽やかなイタリアンの店内BGMが遠くなるような気がした。 「そう、なんだ……」 なぜか胸が締めつけられる。再会したばかりなのに、また離れてしまうのかもしれない――そんな予感が、私の心をざわつかせる。
「でも、まだ正式に決まった話ではないし、行くと決めてもこっちに戻ってくる機会はきっとある。だから、あまり悲観せずにいたいと思うんだ。今はただ、自分にとって一番大事なものを見失いたくないから」 “自分にとって一番大事なもの”――その言葉が不意に胸に染みる。視線を落としたままの彼の横顔は、都会的な洗練さとは違う、かつて私が知っていた“素直な彼”の面影をはらんでいた。
「応援してるよ。でも……私、やっぱり寂しいかもしれない。せっかくこうして話せるようになったのにね」 気づけば、そんな言葉が口をついていた。以前の私なら強がって言えなかったはずの本音。だけど、その時は自然に出てきた。 彼は、はっとしたように私を見つめ、ふわりと穏やかな微笑みを浮かべる。 「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ。実は、どうするかを決めるのはまだ先なんだ。だから、これから先もいろいろ相談に乗ってほしい。……迷惑かな?」
首を横に振ると、私たちは一瞬、視線を絡ませて静かな笑みを交わす。レストランの温かい照明の下で、まるで“昔のふたり”と“今のふたり”がゆっくりと手を取り合ったような気がした。
食事を終えて店を出ると、すでに夜は深まっていた。静岡の街は昼間の賑わいをやや残しながらも、ネオンライトが柔らかく輝いている。 「駅まで送るよ」 彼と並んで歩きながら、私はふとエレガンスプラザの方向を思い浮かべる。あの場所は私の原点であり、これからもきっと夢を育む大切な拠点になる。そして、そこにまた彼が立ち寄ってくれる。そんな未来を想像すると、不思議と力が湧いてくるのだ。
言葉にならない想いを抱えながらも、何かが確かに動き出している予感がする。この街には、まだまだ私たちの物語が続く空気が満ちている。 「あなたに見てもらいたいドレスがあるの。まだ試作段階なんだけど、エレガンスプラザの奥の作業スペースで作ってて……いつか試着して感想を聞かせてほしい」 急にそんなことを言い出す私に、彼はちょっと驚いたような顔をしてから、すぐに笑みを返す。 「もちろん。楽しみにしてる」
改札口までの短い道のりが、今の私たちにはほんの少し名残惜しい。そして、別れ際、私はそっと思う。 ――この再会が偶然か必然かはわからない。だけど、あの夜風が甘く感じられたあの日から、確実に世界は変わり始めた。
自分の夢を追いながら、かつての恋を再び温める。揺れる感情はまだ形を持たないけれど、きっと少しずつ輪郭を帯びていく。彼がどの道を選ぶとしても、私も私の大事なものを見失わない。そう決めた。 ライトアップされた駅前広場を見上げながら、私は静かに微笑む。私たちの物語は、まだまだこれからだ。




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